第3章 祈り望み願う
 

 開いた扉の向こうに立っていたのがリカシェだと知った彼らの第一声は「げえっ」だった。リカシェがむっと眉を寄せると、慌てた彼らの口から謝罪の言葉が飛び出す。焦りもつれるそれを聞いたリカシェはとうとう吹き出して、しかめ面を止めた。
 東棟、兵舎の前だった。リカシェが叩いた扉を開けたのは、女なのにと嘲笑った中年男、その後ろで防具を磨いていたのはあの時参戦していた兵士たち。おっかなびっくりといった様子でリカシェに問いかける。
「は、花嫁様……いったい何の御用で……?」
「ロディかアーリィに取り次いでほしいんです。あいにく私はまだこの城に不慣れなので、あの二人の居場所を知らなくて。お願いできますか?」
 部屋にいたうち二人が、呼んでくると言って飛び出していく。逃亡したようでもあった。リカシェが水葬王の花嫁だと知った以上、一緒にいるとどんなとばっちりが来るかわからないと考えたのだろう。
 ロディとアーリィはすぐに来た。息を切らしているので、よっぽど急かされたらしい。
「花嫁様。どうなさったんです?」
「御用と伺いましたが……」
 その息が整わないまま問われて、リカシェは苦笑した。やっぱり素性を黙っていたのは、彼らに強い衝撃をもたらしてしまったらしい。知った時の状況もよくなかっただろう。
「お願いがあって来たんです。その前に一つだけ。あれから水葬王からお咎めはありましたか?」
 二人だけでなく、耳をそばだてている他の者にも問いかける。彼らはお互いに目を見交わし、アーリィを見た。彼女は首を振った。
「いいえ。お咎めはありませんでした」
 ほっとした。彼らに罰をくだすほどハルフィスが狭量でなくてよかった。
「素性を黙っていて申し訳ありませんでした。驚かせたでしょうし、邪魔もしたでしょう。本当にすみませんでした」
「なっ、止めてください! そんな頭を下げるなんて」
 ロディが慌てて止める。他はみんな、ぽかんとしていた。アーリィだけが呆れたように笑って「それで?」と尋ねる。
「お願いっていうのはなんなんです?」
「今から街へ降りるつもりなので、付き添いをお願いしたいんです。大丈夫、水葬王には許可を取りました」
 ニンヌが「一度街に行ってみるといいわ。兄上に許可を取ってあげる」と言ってくれたのでそれに甘えたのだ。城はほどほどに探索したので、次は街に行こうと考えていたからちょうどよかった。その返事が誰か供の者をつけろということだったので、知り合いに頼もうと兵舎を訪ねたのだった。
「わざわざ自分で呼びに来たんですか? お呼びくださればこちらから行きましたのに」
 それには微笑みで応えた。ハルフィスが彼らに何らかの罰を与えたのか、彼らがリカシェをどう思っているのかを知りたかっただけなのだが、言わなくていいことだ。
 察したアーリィも笑っていた。そしてロディと顔を見合わせ「あたしが行きましょう」と申し出てくれた。
「支度しますので、少々お待ちください。それから、その丁寧な言葉遣いを止めていただけたら助かります。居心地が悪くてしょうがないので」
「私も、皆さんにその言葉遣いを止めてもらえると嬉しいわ」
 視線を巡らせた先で、目が合った一同からこくこくと頷きが返る。リカシェは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 アーリィは普段着に着替え、剣を下げて戻ってきた。街へ行くには正門から出るのが一番だという。城の中を通らず、外郭を回るようにして中央棟を背後にし、正門を出た。
 水葬王の居城を出ると、緊張を解いたアーリィは最初の時と同じ口調に戻っていた。
「水葬王の顔が見られるなんてのは、余計なお世話だったね」
「そうでもなかったわ。だってあれが二度目だったもの。まあ、その後三回目がああなるとは思わなかったんだけど……」
「……花嫁ってのは大変だねえ……」
 何か勘違いされていることに気付いて、慌てて否定する。
「あっ、違うの! あの時の『枕』ってそういう意味じゃなくて! あれはただの嫌がらせで!」
「……まあ、長く生きてると嗜好も変わるか。偉い人には多い趣味だよな」
「そういう意味でもなくて!」
 声を上げてアーリィは笑った。
「悪い悪い。ちょいとからかっただけだよ。あんたがそうやすやすと屈するとは思えないからね」
 正門から伸びる道を行くと、再び門があった。兜を目深にかぶった門番は、通り過ぎるこちらをちらりとも見ない。
「あれはあたしたちとは違う、生粋の兵士。妖精か、人間との混血だよ。水葬王や青の乙女の側近もああした連中さ」
 どこか違う雰囲気をまとっているのはそのせいらしい。けれどニンヌのところにいたシェンラはまた異なった様子だったから、主の性質に似るのかもしれない。
 門を抜けて行くと、柵の向こうに大小の角砂糖の街並みが並んでいた。
 城から街の外までをつなぐ大通りは、物差しを当てたように真っ直ぐだった。その途中は葉脈のようにいくつもの筋に分かれており、大きさの違う青い石の箱が積み木を組むように並べられている。それは緩やかに段を作り、街を平たい巻き貝の形にしていた。だから街の外につながる門がはるか向こうに見えるのだ。
「あの門から死者がやってくる。門衛の指示に従って、自分に割り当てられた家に住むんだ。その中で魔力を持つ人間が城で仕事を得る」
 小さな魚のように見える人々は、みんな白か青の服を着て、ゆっくりと動いている。彼らはみんな死者なのだとは思えないが、生前からとは思えない青い髪をしている者がちらほら目に付いた。
「あなたのその一部分だけ青い髪は生まれつきじゃないわよね?」
「もちろん。この街で長く暮らせば暮らすほど、髪や目が青くなっていくのさ。だからといってお迎えが近いっていう証でもない。不思議な現象だよ」
「だからみんな、私を一目見るなり新入りだと見抜いたのね」
 赤みを含んだ茶色の髪はどこにも青の気配がない。この髪が、ハルフィスやニンヌのような涼しげな色に染まったら、水色のドレスを似合わないとからかわれることもないだろう。
「この街の流通ってどうなっているの? かぎ針や糸みたいなものは簡単に手に入るようだけれど。それに、食事を必要としないのにお茶を飲む人もいたわ」
「それは歩きながら話そう。ついでに商店街の方に行こうか」
 すれ違う人々は周囲を気にかけず、思い思いの時間を過ごしているようだ。道の角には老婆が三人、静かに言葉を交わしている。することがないのか暇そうに歩いている男もいる。そして彼らはリカシェを見、アーリィとその腰の剣を見て、納得したように視線を戻す。
「街では喧嘩はご法度。武器を持っているのは水葬王の周りにいる限られた者だけなんだよ。地上でいう『罪に問われること』をすると、兵士がすっ飛んできて関係者を水葬王の前に突き出す。罪人は、水葬王の裁き如何では冥府の門をくぐる前に消滅させられる」
 この街が綺麗で静かなのは、そうした秩序を守るために常に目が配られているということだ。同時に、水葬王の力の強さと彼への畏怖を感じるようになっている。
「この都市ではあたしたちが地上で使っていたような金は使えない。使えるのは冥貨だけだ」
「冥貨? 棺に入れる銅貨よね。数は六の倍数で」
「そう、水葬都市で快適に過ごせるようにって入れるあれだね。この街でそれを知って、昔の人はちゃんと正しいことを言い伝えてるんだって感心したよ。その冥貨を使って、この街の人間は自分の望むものを手に入れる」
 あれを見てみな、と彼女は二つの建物を示した。一つは真四角に近い建物、もう一つは、それを縦に三つ積み重ねた建物だ。三つ重ねた方には窓があり、どうやら三階建てのようだった。
「水葬都市にやってきた者は、みんな平等に同じ服を与えられ、同じ家に割り当てられる。寝台もテーブルも何もかも同じものがしつらえられた家だよ。その中で、例えば気心が知れた友人と暮らしたいという者がいたとする。その時は街を見回っている巡回兵に申し出て、冥貨を支払って引越しをするんだ」
「引越しを、銅貨で?」
「それだけじゃないよ。この街の住人は食事を必要としないけれど、生前の楽しみをここでも味わいたいというやつがいれば、食堂に行って食事をする。もっと豪華な服を着たい時は仕立て屋に行く。自分で作りたいという時には布屋に行く。すべて冥貨で支払うんだよ」
 そうすると、今度は商売をする者の不思議が出てくる。
 扉が開け放された建物があり、通りすがりに中を覗くとどうやら商店らしい。小間物が棚に置かれているのが見えたが、商売気はあまりないように感じる。
「商売をするには最終的に水葬王の許可が必要だけど、その商売をやっている者が後継にしていいと思った人間がその仕事を引き継ぐ。売り物は巡回兵が持ってくるらしいから、仕入先は謎に包まれてるんだってさ。そして、商売人は財産を蓄えることはできない。支払われた冥貨は水葬王に献上されるからね。だからここは、よっぽど暇を持て余しているか、もの好きな人間が働く場所なんだよ」
「働くことは免除されているということ?」
「働かない自由があるのさ。城勤めは別だけど、それも招集があった時だけ。食うもの着るものは保証されてるから、汗水垂らして働かなくていい。好きなことをするためには冥貨が必要だけど、不相応なものを望まなければずっと静かに暮らせる。ここは自分の魂が洗われて消えるまで過ごす安息の地というわけ」
 透き通った水色の光が降り注ぐ白い街。ここには永遠の命を持つ神の王がいて、すべての悪逆は監視され、見つけられ次第処罰される。好きなことをしながら時が流れるのを待つ間に、地上のことを思い出すこともあるだろう。けれど歩む人々に悲しみの気配はなく、身を浸していたくなるような優しさが漂っている。外敵の存在は、王がその力を持って退ける。
 まさしく安息の地だ。地上には顕現されることのない、静穏な世界。この場所で、人々は本当の死を迎えるまで心穏やかに過ごすことができるのだ。
「水葬王の花嫁なら、やりたいことはなんでもできるはずだよ。歴代の花嫁様はそうだった。豪奢なドレスを着ていたり、お菓子を食べたり。縫い物をしたりしてね。弓を持ちたいと言ったのはあんたが初めてだったけど」
 貴族の子女が着るごく普通の外出着を見下ろしていたリカシェは、最後に言われた台詞に赤面してしまった。
「その節はご迷惑を……」
「聖職者然としてつんと澄ましたお姫様たちより、あんたの方がずっといいよ。あれから兵舎はあんたの噂で持ちきりさ。直接話したあたしやロディ、アレー爺さんに、花嫁はどんな人だってさんざん聞かれたよ」
 申し訳なさすぎてうなだれる。アーリィの口調は呆れているが、次に向けられた笑顔はさっぱりしていた。
「だから、水葬王のお許しが出たらまた顔を出してやってよ。あんたと話してみたいって、特に弓に携わる連中が騒いでたから」
 嫌われていない。うんざりされていないとわかって、リカシェは顔を輝かせた。
「ええ! 次は迷惑にならないようにするわ」



 

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