表に看板が下がった建物が増えてきた。商店街に入ったらしい。だが活気は感じられず、開け放された扉でかろうじてそこが息をしているのがわかる。街の片隅にひっそりと店を構える、何を売っているのかわからない店が軒を連ねているという感じだ。
「あの貝殻の看板が仕立て屋。糸巻きの看板の店は、糸と布と針を売ってるところ。向こうにあるのは菓子屋だよ。星の看板が見えるかい?」
 ふんふんと聞きながら、少し中を覗く。店の主は声をかけてくることなく、お客の動きを静かに目で追って、うたたねをするみたいにぼんやりしている。どこもそんな調子なので、本当に好きな者しか働かない場所ということはよくわかった。
 そして、少し見てだけで外に出てしまうリカシェもまた、アーリィには風変わりに映ったらしい。
「あんた、もともとどこぞのお姫様なんだろ? 弓以外に興味のあることはないのかい。刺繍くらいするんだろ?」
「するけれど、刺繍はあまり好きではないの」
「詩作とか」
「詩を作るよりは料理をする方が好きね」
 アーリィは呆れ顔になった。
「……やっぱりあんた、相当変わってる」
 それには苦笑しかないリカシェだ。
「自覚はあるわ。家に閉じこもっているより、散歩をしたり、遠駆けをするのが好きだったの。でもあまり父にいい顔をされなくって、仕方なしに家で本を読んでいたら、それも気に入らなかったみたい。ああでも、家の中ですることの中で、花を生けるのは好きだったわ。庭の花も飾っていたけれど、森や草原の季節の花を飾るとお客様が喜ぶから、花を摘みに行く時は外に出てもよかったのよね」
「やっぱり外に出るんじゃないか」とアーリィは呆れを通り越して笑い始めた。
「残念だけど、水葬都市に花も緑もないね。花を生けるのは諦めた方がよさそうだよ」
「やっぱり、そうよね? ずっと植物を見ないと思っていたの。花が咲かないようになっているかしら? どうしてだろう……」
 動物も見ないし、この都市には人間以外のものがたどり着かないということだろうか。地上とは異なる場所だから、そうした不思議な決まりごとがさだめられているのかもしれない。
 リカシェがこちらにくる直前、地上は春だった。ミモザの黄金の花、青のブルーベル、白いチューリップ、赤いアザミ。ヘザーの紫色の絨毯が丘を覆うと、鳥たちが訪れ、蝶や蜂が舞い、まばゆく輝く太陽が世界を照らす。
 けれどこの水葬都市は、無数の氷柱と水の中に閉じ込められているようで、美しく静かではあったけれど、地上の花々を懐かしく感じるのだった。
(ハルフィス様は、花を見たことがあるのだろうか……?)
 ハルフィスは、大神ニルヤの子として冥府の門の番人を命じられてから、門の向こうからやってくる闇と戦ってきた。その戦いぶり、美しさと凄まじさは物語になっても、彼が心を慰められるものは現れない。恋でさえ、すべて悲恋ばかりだ。神としては穢れである死に近い彼は、多くの神々から疎まれているという。
(花を見れば美しいと感じられる心の持ち主に違いないだろうに……)
「花がないのが残念かい? だったら面白い店があるよ。あたしは見つけたことがないんだけど」
「……店?」
「『飾り物屋』っていう店で花を扱ってるらしい。花といっても、本当の花じゃないんだろうけどね。気が向いたら探してみな。そしてあたしにその場所を教えておくれ」
 それから二人で街を歩き回った。込み入った路地に入って街を見渡せる場所を見つけることはあっても、アーリィの言った『飾り物屋』は見つからない。リカシェの散歩好きは伊達ではなく、歩いても歩いても疲れない。整頓された街だったけれど、降り注ぐ光が描く青の濃淡がその道や角によって微妙に異なるのが面白く、迷路を歩いているような気持ちであっちへ行きこっちへ行きする。そのうち、同行しているアーリィの方が根をあげた。
「あたしはそこでちょっと休んでるから。ちゃんと戻ってきてくれよ」
 ついにはそう言って、大通りに近い角で座り込んでしまう。この街で危険な目に遭うことはないということだ。護衛でなく付き添いで監視役ということだったのだなと思いながら、リカシェは路地裏を堪能することにした。
 こんな時だけれど、街を付き添いもなく一人で歩くのは新鮮で楽しい。解放された気分だ。いつもなら、女ひとりでうろつくと、どんな危険な目に遭っても自業自得だと言われるものなのだ。
(女性が一人で歩くことができて、平穏を乱すものは厳しく罰せられる安全な街。為政者にとっても理想の城下町なのかもしれないわね)
 その瞬間、ずきんと目の奥に痛みが走った。暗くなった視界に、白い十字がひらめく。
「っ……」
 それはめまいとなり、リカシェは建物の壁に手をつき、息を整えた。
(びっくりした……どうしたのかしら。突然何か見えたような……)
 妙に焦るような、気持ち悪いような感覚が残っている。頭の後ろがじりじりとして、思い出したいのに思い出せない、という感じだ。
 そのことを記憶に残しつつ、ふと、顔を上げた時だった。
 金の髪の若者が、向こうの道を横切る。
「……エルヴィ……?」
 見間違いでなければ、彼はエルヴィ・ゲーティア。リカシェの親類の一人で、順位は低いが、中原の王位継承権者の一人だった。
 どうして彼がここにいるのか。その答えはひとつだ。
 リカシェは彼を追った。路地を抜け、角を曲がり、足音に耳を澄まして行くべき方向を確かめる。
(……こっちだ!)
 何度か角を曲がったがなかなか追いつけない。そのうち、先ほど通ったのでは? と思える道に気付いた瞬間、背後から腕を取られた。
 とっさに身をひねってかわそうとしたが、相手の方が速かった。首に腕を回され締め上げられる。
「くぅっ」と呻いた耳元に、楽しそうな声がささやいた。
「誰だお前。女じゃないか。俺を追うなんてどういうつもりだ?」
「……あいにく、あなたの期待しているような理由じゃないわ。ゲーティアのエルヴィ」
 エルヴィは拘束を解いた。そして自分が捕まえていたのが誰なのかを確認すると、唇を曲げて笑みを作った。
「そんな可愛くない言い方をするのはお前くらいのもんだよ。アスティアスのリカシェ」
 しかし言葉とは裏腹に親しみがある。従兄弟たちが本気でリカシェを疎んじている中、エルヴィだけは面白がるようにしてちょっかいをかけてきていた。侮蔑を投げる周囲と、それを受けてもなお自分を曲げないリカシェを面白がっていたようだった。



 

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