その夜、ハルフィスからの召喚はなかった。リカシェは寝台に潜り込み、これまであったことを思い返した。
 水葬都市で情報を集め、継承者たちを殺している犯人を絞り込む。そして地上に戻るか警告するかして、レンクを守る。
 そのためには地上に戻る方法を探す。捧げ物をすれば願いを叶えるとハルフィスは言った。その欲するものがないというハルフィスに、欲しいものを考えさせなければならない。ニンヌからの依頼もある。ハルフィスの心を溶かし、彼を変える。
(そのふたつは同時に成り立つわ。心を呼び覚ますことであの方は変わり、何が欲しいかを知るようになるはず)
 寝返りを打つ。
(それにしてもエルヴィに会うとは思わなかった)
 エルヴィのことは嫌いではなかった。従兄弟たちに比べて、だけれど。彼は性別や年齢を理由に誰かを虐げることはなかったし、一時はリカシェの結婚相手の候補だったとも聞いている。けれど彼の姉が離婚したため、外聞の悪さを嫌ったリカシェの父が反故にしたのだった。
 そんなことがあったとは微塵も感じさせずに、エルヴィは冷たいような皮肉なような態度を崩さなかった。慰めは口にしないけれど最後には助言をくれる、昔からそうだった。
 だから彼の言ったことは覚えておかなければならない。
『全員が生き返れるわけじゃないはずだ。そのことを恨みに思うやつがいるに違いないんだから』
 寝返りを打って毛布をきつく巻きつける。枕の位置が気に入らなくて頭を起こし、横になったと思ったら身体が痛いような気がして膝を折り曲げた。なんだか寒いような、暑いような気がして毛布の位置を直す。今度は足先が出ているのが気になった。
(…………眠れない)
 あんなに歩いたはずなのに、少しも眠気がやってこない。仰向けになって深く息を吐く。
 きっといろんなことをがありすぎたのだろう。なんだかざわざわして落ち着かない。
 こうなったら起きるに限る。しばらく別のところで過ごして気持ちを落ち着かせれば、じきに眠くなるだろう。幸いにもここは寝巻きでうろついていても見咎められない、というよりは度が外れていない限り関心を持たれないのだ。
 部屋を出て庭へ向かうと、世界は水底のような深い色をしていた。城は淡く輝いているが、数えるべき星も輝く月もない。夜露に濡れる草も花もない。肌を撫でるかすかに冷たい空気が、この都市が夜の訪れを受けていることを教えてくれる。
 ふと、視界の端に輝くものを見た気がして首を巡らせる。大気のなかに鱗粉のようなものが流れていた。辿っていくと、庭にある白い東屋が見えた。夜の藍を連れた誰かがそこにいる。
 立ち尽くすリカシェに目を向けた彼は、優美に寝そべっていた身を起こし、乱れた髪を掻き上げた。リカシェは膝を折り、わずかに退いた。そのまま下がるつもりが声をかけられた。
「眠れぬのか」
 興味を惹かれたわけではないが礼儀として尋ねた、という程度の抑揚のなさだ。リカシェは面を伏せたまま答えた。
「そろそろ戻るつもりで思っておりました」
 今来たところだが、肯定してしまうと弱音になってしまうような気がしてそう答えた。ハルフィスはそうかと言ったのだが、リカシェから視線を外さないまま黙っている。妙な沈黙が続くので居心地が悪くなってきたので、思いきって問うた。
「何かご用でしょうか?」
「地上では、眠れない夜はどのように過ごすものなのだ?」
 すぐに言葉が返り、その内容にリカシェは目を瞬かせた。
 つまりこの方は今眠れなくて困っているということ?
 そっと顔を上げると、ハルフィスは深く椅子に腰掛けて答えを待っていた。顔色は最後に見た時と比べて、不健康な白さにくすんでいる。
 ニンヌの言ったように、己を削っているということなのだろうか。
 視線が合い、自分が返答を忘れていることに気付いて慌てて答えた。
「眠れない時は、温かい飲み物を飲んだり、本を読んだり、散歩をしたりします」
「そなたはどうするのだ」
「温かいお茶を飲むか、庭に出て少し歩きます」
「それで眠れるのか?」
 純粋な好奇心が見えて、リカシェはかすかに微笑んだ。
「夜の風や空気、虫の声を聞いたり、星を数えていると気分が落ち着きます。少し身体が冷えた頃に寝台に戻って毛布にくるまると、ほっとして眠ることができるのです」
 それを想像したらしいハルフィスの呟きは、短く、素っ気なかった。
「水葬都市では叶わぬことだな」
 リカシェの挙げたものは彼の世界にはほとんどない。この城も街も、青の色彩に染められ、かき乱されることのない水の底にあるようなものだった。
「地上にお出ましになることはないのですか?」
 気になって尋ねる。水葬王の物語は冥府の闇と戦うものばかりだが、その中に地上に出て闇を払ったものがあったような。
「闇を追って地上に出ることはある。だがそれも昔のことだ。用がない」
「眠れなかった時にふらりと行くなどは?」
「私は門の番人だ。番人が持ち場を離れることはできぬ」
 リカシェは顔をしかめた。それでは、起きて仕事をして寝ることを繰り返しているだけのように思える。心を安らがせるものが何もないのではないかと疑ってしまう。
「それで、眠れない時はどうなさるのですか?」
「眠りが訪れるまで起きている」
 それはそれで一つの方法だが、ハルフィスの場合、こうやってぼんやりしているだけなのだと思うと呆れてしまった。
 だが彼自身がそうやって何もしないなら、周りがお節介を焼いてもいいだろう。
「しばらくお待ちいただけますか? すぐ戻ってまいります」
 ハルフィスはわずかに訝しそうにしたが、まだ眠くならないからか「よかろう」と頷いた。リカシェは急いで部屋にとって返すと、備え付けてある鈴を鳴らしてお湯が欲しいと女官に伝えた。そのお湯でまず茶器を温め、ニンヌからもらった月の葉と銀蓮と黄金蜂の蜜のお茶を茶壺いっぱいに作ると、その二つを盆に載せて東屋に戻った。
 リカシェが去る直前の姿勢のまま、ハルフィスはぼんやりしていた。そして息急き切って戻ってきたリカシェに、何をそんなに急ぐことがあるのだろうかという顔をする。
「お待たせいたしました。前を失礼いたします」
 そう言って、リカシェは保温のための覆いを取り、茶器にゆっくり注いでいく。暖かい気配がふわりと立ち上り、甘い香りが漂う。金と銀に輝くお茶を「どうぞ」と彼に差し出した。
「ニンヌ様からいただいたお茶です。温かいものを飲めばきっとよく眠れますわ」
 ハルフィスは黙って器を手に取った。一口飲んだ彼の口から、ほ、と小さな息がこぼれる。
「甘いな」
「甘いものは気持ちを柔らかくいたします。それとも、甘いものがお嫌いでしたか?」
「普段食さぬので考えたこともない」
 だがさほど嫌いではないらしいのは、静かにお茶を飲んでいるところから察せられた。
「わたくしは甘いものが好きです。果物を使ったケーキや花のジャムは、季節を感じられる特別な食べ物でした。今なら蒲公英や薔薇ですわね。蒲公英のジャムは蜂蜜のようで美味しいんです」
 薔薇のジャムはよく食卓に上るが、蒲公英は何かの付け合わせに使われるだけで、下々の者の食べ物のように思われていた。そんなことを知らない子ども時代は、使用人の子どもたちに混じって蒲公英摘みに精を出し、大人たちがジャムを作るところを眺めるのが春の楽しみだった。
 久しぶりに食べたいとその色彩や香りを想像しても、その花を思い出せない人にとっては何の感慨も呼び起こさないようだ。食事は娯楽の一つであるこの都市では仕方のないことなのかもしれないけれど、ならばこの人は何が楽しいのだろうと不思議に思ってしまう。
「ハルフィス様は何がお好きなのですか?」
「食事はせぬ。ゆえに何もない」
「食事に限らず。どんなことで心が緩むのですか?」
 銀の視線がリカシェを刺す。
「何故そんなことを聞く」
「あなたがあまりにも素っ気ないからです」
 リカシェは、きっぱり、言い切った。ハルフィスへの不敬に当たるかどうかは、問いを放つ当人が嘘偽りや悪心を持つかどうかで決まる、ということをリカシェは学びつつあった。
 やはりハルフィスは怒りを表したりはしなかった。怪訝な顔をしたが、自らの振る舞いを思い起こしているようだ。
「私自身は常と変わりない。冷たくしているように感じるのはそなたの気のせいだ」
「だからお聞きしているんですわ。あなたがどんなことを楽しみ、どんなもので心を和ませ、安らいでいるのか」
 ここにいるのは人ではない。本来なら手が届かない、言葉を交わすことすら許されない死者の国の王であると知りながらも、問わずにはいられなかった。
「何かが恋しいと思うことは?」
 例えば、夜の星。月の光。唇に乗せる子守唄。太陽の光と輝く風、四季の移り変わりを映す野原。自分を呼ぶ笑い声。娘らしい楽しみがないリカシェでも、際限なく挙げていける。どんな小さなことであってもひとかけらの愛おしさが宿っているのだから。
 ハルフィスの瞳に何かがよぎった。見逃してしまそうなほど一瞬のこと、流れ星よりも儚く消え去ったそれに気付いていないはずがないのに、ハルフィスは言った。
「何も」
「嘘。今はなくとも、昔はあったはずです」
「どうしてそのようなことがわかる」
「何か思い出されたはずです。目がそう言っていました」
 ハルフィスのため息がリカシェの追求を押し返す。
「ニンヌに何か吹き込まれたな。あれは私が空虚であると言って責め立てて以来、顔を合わせる度に同じことを言う。たとえそうだったとしても、そなたらには関わりのないことだ」
 リカシェの目を見て彼は言った。
「私の中には何もない。何も必要としない」
 否定とはまた異なった感情がそこにあった。彼は自身を省みて事実を口にしただけ。そこに何もないと確認してそっと目を逸らした、哀切を帯びた何かがあった。
 それに気付いた途端、リカシェの心の奥から強い思いが溢れ出した。
「あなたの言う通りかもしれない。わたくしはニルヤのように心も未来も見通す目を持たないから、あなたのすべてを見ることは叶わない」
 けれど思い出す。
 詫びると言って髪を撫でた。
 温かい飲み物を口にしてほっと息を吐いた。
 何もないと言いながら自身を哀れに思った。
 そんなあなたの心に何もないと、どうして言い切ることができるのか。
「あなたは空っぽではない」
 それがリカシェが得た結論だった。
 間違っていようが構わない。いまこうしてリカシェを見つめる彼の、無だった表情に心が宿る。驚きと疑い。目の前にいる者、その言葉が初めて聞くものとして響いているのが見える。
「思い出さないよう封じ込めて、忘れてしまおうとしているだけです。だから、わたくしは知りたいのです。人よりも長く生きるあなたが、どんなものを愛し、何を慈しんできたのか。そして、何故それを忘れてしまおうとするのか」
 私は忘れたくない。叶うならばいつまでも覚えていたい。
 その思いに小さな願いが灯る。
 ――あなたに私のことを覚えていてほしい。
 甘い切なさが胸を締め付けた。地上へ戻るという願いも守りたい弟のこともその時は忘れて、彼の瞳に映る自分がどのように思われているのかを知りたいと思っていた。
 ハルフィスは立ち上がった。長衣を引きずって東屋を出て行く。
「ハルフィス様」
「話す必要性を感じぬ」
「そうやって一人でいることに何の意味があるのですか?」
 彼は足を止めた。リカシェを見つめ返す目は、震え上がるほど鋭い。だがリカシェは言葉を飲み込まなかった。顎を引いて声を絞り出す。
「他者を拒む理由は何なのですか」
「私こそ問いたい。そうまでして私に踏み込む理由は何なのだ」
 言葉が出なかった隙をついて彼は言う。
「花嫁という立場からの甘えか。下世話な詮索か。世話を焼きたいだけか。私の在り方を否定し、己の正しさを誇示したいのか。そなたは私に己を認めさせたいだけだ。『あなたのためだ』という言葉に酔いながら」
 リカシェは、すうっと血の気が引いていくのを感じていた。目の前が暗くなり身体が震える。何を言われたのか理解できたとは言えない。鞭のようにしなり拳のように硬く、剣よりも鋭いものが心を打ち据えられたのがわかっただけだった。
 石のようになったリカシェを一瞥して、ハルフィスは背を向ける。白い床に足跡すら立てない静かな歩みに「それでも!」とリカシェは声を震わせていた。
 こみ上げる涙をさっと拭う。顔が赤くなるのは羞恥と悔しさのせいだ。
 彼の言うことは正しい。けれどこの胸にあるのがそれだけでないことは、リカシェ自身が知っている。
「それでも私は! ……私の人生に関わったあなたのことを知りたい。自分の心にしまわれるものたちが豊かであってほしいという望みが、あなたを知りたいと思う理由です」
 変わらなくてもいい。変わらないでいいと思うのなら。
 けれど変わったことで新しく豊かになっていくのなら、それを見ていたい。屋敷の中で外を望むだけよりも、ものに、人に触れていきたい。自分に世界を変える力があるのならその手を振るってみたいのだ。あたかも土を掘り返して種を植えるように。
(私は、自分のいる場所や周りにいる人たちを豊かにしたいんだわ。もっと美しく、もっと楽しく、もっと素敵だと思えるように。そうしてそこに笑ってくれる人が現れたなら、こんなに嬉しいことはない)
 涙を飲み込み見つめた先で、ハルフィスは視線を向けてはいるが口を閉ざしている。彼の青い夜着は、早く眠りに連れて行ってくれと請うているように深い藍の色に変じていく。
 リカシェの言葉は響いていない。彼が自分で何もないというどこかに落ちていく。
「私はその望みを叶えることはできぬ」
 静かに告げて、ハルフィスは去っていく。
 虚しさに包まれて立ち尽くしていたリカシェは思った。――私が花嫁でいる意味はない。私はやはり、地上に戻らなければならないのだ。



 

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