短い眠りの後、リカシェはニンヌに謁見を申し出た。いつでも、という返事を携えてニンヌ付きの女官シェンラがやってきたので、以前と同じようにすぐさま支度を整えて、青の乙女の宮殿へ向かった。
 早くなりすぎないように気をつけたが、ニンヌはさほど時間を気にしないようだった。リカシェの前に姿を現した時、地上の貴人たちのように眠そうな顔をすることなく、一枚の布を継ぎ目なく仕立てたようなドレスに身を包んだ一分の隙もない姿で、優美に微笑んだ。
「おはよう、リカシェ。昨夜兄上とやりあったそうね。そのことかしら?」
「早くからお時間をいただき申し訳ありません。お尋ねしたいことがあるのです。ご存知なのは青の乙女だけだと思いましたので……」
「何かしら」
 ニンヌは声色を変えた。リカシェの表情に思い詰めたものを感じたからかもしれない。
「水葬都市の有り様は王が決めるもの。この都市では王が絶対の理。――ただし唯一の例外がある。そうですね?」
 ニンヌは微笑みを浮かべたまま、リカシェを探るように見た。その問いによって何が起こるか、リカシェが行動する理由が何なのかを考えているのだった。しかしこの高貴な女神は、嘘偽りを告げてうやむやにはできない誇り高さを持っていた。彼女は頷いた。
「ええ。その御方はあらゆる望みを叶えることができる。けれど求める代償も大きい。『地上に戻りたい』と願ったとしてもあなたは幽鬼となって永遠に地上をさまようことになるでしょう」
 その答えを聞いて、リカシェは辞去を申し出た。ニンヌがそれを呼び止める。
「リカシェ。わたくしのわがままがあなたを苦しめることになって、ごめんなさい。そしてどうか、兄を許して」
 リカシェは首を振り、微笑んだ。
「謝罪するのはわたくしの方です。どうか青の乙女がお怒りにならないことを祈ります」
 宮殿を出たリカシェは、東棟に向かった。だが馴染みになった兵舎には向かわず、彼らが使う東門へ行く。落ち着いて歩いていたのが早足になり、小走りになって駆け足になった。
 自身の呼吸に急かされるようにして走り抜け、門へ至る。そこを一気に抜け、飛び立った。
 空を掻き、都市を見下ろす。目的の場所がどこにあるかを思い返す。
 詩の中にある、闇の凝るところ。その向こうの、神の領域。
(都市の真下だわ)
 ――大神ニルヤの御座す冥府。その門。
 水葬王に叶えられぬのなら、それに勝る神に願おう。この場所でハルフィスより上位なのは、冥府に住む大神ニルヤだけ。リカシェはニルヤに会うために冥府へ行こうと考えたのだった。
 だが大神に願うのは最後の手段だ。まずはその冥府の門を確かめようとやってきた。
 空を蹴り、底を目指す。闇とは、暗きところ悲しきところに忍び寄るもの。だからなるべく青が明るい早い時間帯を選んだのだが、見下ろしていた街が水平になり、その底部が見え始めると、氷に触ったような空気に肌がぴりぴりと痛み始めた。このままでは凍傷になってしまいそうだ。
(息が苦しい。冷たいのに肺が焼かれているみたい……)
 色彩がない、先が見えないということはこんなにも不安を煽るものなのか。落ち着くように言い聞かせている心臓が、警鐘を鳴らすようにうるさくなっていた。髪の先までしびれる冷たさが増していく。終わりはないのかと動きを止めそうになったところで、白い門が姿を現した。
 それはリカシェが知るどんな門よりも厳しく、壮麗で優美、そして恐ろしいものだった。恐怖を煽る死の精霊の彫刻はまるで本当にそこにいるかのように現実味がありながら、汚れのない白さと輝きを併せ持つ門と一体になっている。両開きの扉には苦悶の表情を浮かべる魔物が縛られており、呪詛の声が聞こえてこないのが不思議なほどだった。深い場所の虚空に浮かぶそれは、リカシェが動かないうちにゆっくりと近付いてくる。
 その扉の閉ざされた部分に、じわりと黒いものが湧いて見えて、リカシェは我に返った。
(いつの間にこんな近くに)
 あまり近付くと危険だということは承知していたので、離れたところから様子を見るつもりだったのが、閉ざされている扉の向こうの何かの気配に気付いた瞬間、全身の肌が泡立ち、身体が動かなくなった。
 みるみるうちに、それとわからぬほどに扉が開き、黒い染みだと思っていたものがじわじわと広がっていく。
 冥府に渦巻く妄執と悲哀、憎悪と怒り。癒されて消える時を待ち、しかし渇きと飢えを覚えて、生命の光を欲して現れる魔の根源。冥府に凝るそれを闇と呼ぶ。
(いけない、離れなくては!)
 だがうまく宙を蹴ることができない。見えない力がリカシェの身体を底へと押し戻そうとしているかのようだ。振り返ると、闇は植物の蔓のように幾本もの手を伸ばしてきている。そして冥府の門は、今や蟻が通れるだろうかというくらいに開いているのが見えた。
 声を届けるには今しかない。さだめられた時にしか開かれない門、その向こうにいる神に呼びかけるなら。
「空と大地と時、生と死のあらゆる根源に御座す大いなる神よ、私は――」
 喉がひりつく。言葉が出ない。足先にひたりと影の気配が触れて震えが走る。
 身体の内側から押しつぶされているような苦しさを覚える。息が途切れ、うまく呼吸できない。気付けば足先が闇の中に消えている。見えない何かが血を冷やして意識を塗りつぶしていく。
 力が抜け、がくんと顎が上を向く。明るい青は手の届かない太陽のように輝いていて、自らがどんどん落ちていくのがわかる。視界は白と黒に点滅し、いつかの光景とすり替わって、絵が忙しない速度で次々と切り替わる。
 黒、青、黒。黒。棺に押し込まれた瞬間。ぼやけた青。棺に押し込められながら口を塞がれた息苦しさ。黒。青に手が届かない。黒。黒。
 閃光。
 棺に入れられ、口を塞がれて息が止まりそうになる。薬で朦朧としながら必死に目を凝らす。自分を殺そうとする何者かを忘れないために、失われつつあった力を振り絞って。
 なんだっただろう、思い出せない。
 思い出すために意識を保てない。滑り落ちていくものを必死に留めるより、手放してしまった方が楽なのではないか。意識はますます重みを増し、めまいのような吐き気のようなものをもたらしてリカシェを苦しめる。同時に、思い出される過去の記憶とニルヤへの願いが混在し、自分が何のためにここにいるのかわからなくなってくる。
(あの時……私は見た。自分を殺す男の手の感触……息遣いを感じながら――白い光……――十字の形の何かを……)
 耳の奥でさざなみのようだった音が、ごおおお、と洪水の轟音を響かせ始める。その激流に飲まれて意識を散り散りにされながら、リカシェは「地上に戻りたい」という自分の願いを口にしようとした。
(――…………)
 何か聞こえる。
 黒馬の蹄、荒々しい鼻息。翻る髪と濃紺の裾。鞘走る銀の剣。近付いてくる、澄んだ光と強い力。
 水葬王ハルフィスが神駒を駆る。
 剣を持つもう一方の手がこちらに伸びる。
 焦燥にかられた決死の形相。失われてしまう恐れが浮かんだその顔。ああ、とリカシェはため息を零した。
(……そんな顔も、できる、の……ね……)
 ――白い光。
 ハルフィスの力が闇を払う中、リカシェは、ニルヤに向かって浮かび上がった願いを呟いた。そして自らの何もかもが清らかな水に包まれ、洗われていくのを感じながら、そっと意識を失った。



 

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