その異変を感じた途端に意識が戻った。はっと息を飲んだ時には黒い中空に浮かんでいる。
 先ほどまで寝台の上にいたはずなのに。
 水葬都市の周辺を飛ぶ時のように上下がないが、感覚はわかっているので体勢を立て直すのは容易だった。
 ここはどこだろう。水葬都市でないが、それに似たどこかの異界のようだ。
「何を考えている」
 耳元で吠え立てられたかのような大音声が響き渡った。リカシェは耳を押さえ、声の主を探した。
「何を考えている、ハルフィス。水葬王が闇を引き込むなど、あってはならないことだ。ニルヤの命に背く振る舞いだ」
 人影が見えた気がして、ドレスの裾を持ち上げてずらすと、下の方に二人が向き合っているのが見えた。彼らはそこに地面があるかのように立ち、言葉を交わしている。一人はハルフィスで、銀の髪が足元の漆黒に飲み込まれている。もう一人は初めて見る顔だった。
 まばゆい黄金の髪は背を覆うほどに長く、部分的に白銀に染まっている。不思議なことにその耳の上には牡牛のものと思しき角が生えていた。道化師のような身軽で派手な衣服をまとっており、響く声は楽器のように美しい。賑やかしい見た目はハルフィスとは対極にある。美しいこの男性は彼と同じく神だと思われた。
 その彼から放たれた質問を、ハルフィスはうっすらと研いだ笑みで切り捨てた。
「汚れし者、心なき者と誹り、心を持てと言い募ってきたのはそなたらではないか、モルフェア」
 モルフェア。種々の楽器と歌声で、生きとしいけるものを眠りに誘う夢の神の名だ。成長すると姿は見えなくなるが、幼い子どもたちは夢の中で彼と遊ぶ。眠っている赤ん坊がよく動いたり、寝相が悪くなるのはそのせいだ。彼は夢を通じてあらゆる場所に行くことができる。そのため知恵の神としての顔も持っていた。
「私は契約に従って花嫁を迎えた。彼女は私のものだ」
「だがその花嫁は地上に戻りたいと願い、お前はそれを己の力でもって引き止めた。それが闇を呼ぶ行為だとわからないはずがない。お前は冥府の門の番人、冥府の門に呼ばれる死者を留めるのは越権だ」
「彼女はまだ呼ばれていない」
「すぐに呼ばれる。これまでの花嫁と同じように」
 ハルフィスは、リカシェに対してなんらかの越権行為を行ったようだった。そしてモルフェアはハルフィスのその振る舞いを咎めに来たらしい。モルフェアの苛立ちは銀の炎のようになって彼を取り巻いていた。
「先ほどお前は花嫁の裾に杭を打った。今度は何重にも鎖をかけて、その魂が堕ちるまでそばに置こうとしている。すでに自身が闇を背負ったことに気付いているはずだ。お前が闇に染まれば、水葬都市の均衡が崩れる。冥府の闇が漏れ出し、地上に死が蔓延するだろう。そうなる前にニルヤのさだめに従え。花嫁を手放し、ニルヤの手に委ねるのだ」
 ハルフィスは裾を引いてモルフェアから遠ざかった。
「ハルフィス!」
「私は、爛漫の春を歌うそなたたちとは違い、沈黙の冬のような世界を一人で過ごしてきた。思考する時間は膨大にあった。そなたが言うようなことを私が考えなかったと思うか」
 それを知るからこそモルフェアの怒りは激しかった。掴みかかろうと近付いてきた彼をハルフィスは振り払っていなした。
「すべて承知の上だ」
 それを聞いたリカシェは全身にひびの入る音を聞いた。
 自分が戻れないように、リカシェがしたことは彼を間違った道に突き飛ばしたということなのだ。
「世界の均衡を崩す者を同胞たちは許さない。お前を引きずり出しに来るぞ」
「ならばもてなしの準備を始めなければな」
 ぞっとするような声で彼は笑った。
 世界を滅ぼす者がいるなら、ハルフィスはその魔性に近付きつつあった。水葬王は死に近い、ならばその心は闇に染まりやすいということ。彼を汚れとして遠ざけた他の神々は、まるでこうなることを知っていたのではないかと思うほどだった。
(いけない)
 リカシェが愛したのは、堕ちた月などではなく輝ける清浄だった。死の淵にあって訪れる魂たちを慰める光が闇に沈んでは、約束された安らぎは失われてしまう。
 そう思った時、モルフェアの視線が上を向いた。
 目が合った。意味ある眼差しで、彼は何かを訴えた。
 この世界は夢の神の使う道。あらゆる夢につながる世界。ここに招かれるのは主たるモルフェアが許したもののみ。ならばリカシェを招いたのは彼に他ならない。
 そうして自分が何をすべきか、考えられたわけではなかった。ただ胸の底からそうすべきだとほとばしるものがあった。直感、あるいは啓示。
 ハルフィスが気付いて振り返る前に、リカシェは手を述べて叫んでいた。
「夢の神モルフェア! 私をどうか」
 驚愕に見開かれる闇の月がリカシェを捉える前に、その願いは叶えられた。
「ニルヤの御元へ――」
 モルフェアが跳躍した。リカシェの肌に触れる距離で通路が開き、彼はそこにリカシェを押し込めて蓋をした。漆黒の世界は鈍色に変わり、浮くのではなくゆっくりと落ちていく。だが恐ろしくはなかった。モルフェアがリカシェを捕まえているからだ。
「賢い子だな。何をすべきかすぐに見抜いた。それとも最初からこうするつもりだったのか?」
 父親の口調でモルフェアは讃えた。
 リカシェはそれに対する返答を口をつぐむことで拒否した。水葬都市においてハルフィスの上位にあるニルヤに願う、最後はその方法をとるしかないと思っていたこと。願いは地上にいる犯人を冥府に送ること。引き換えにするものは自分のすべて。――彼を胸に抱きながらそう考えていた裏切りすらも、誰かに触れさせたくなかった。
「あなたはわたくしがこうすべきだと思っていた。あなただけでなく、世界の均衡を保つ神々が。だからわたくしは助けられたわけではないのでしょう?」
 代わりに言い、そして囁いた。
「あなた方はわたくしを葬ろうとしている。取り返しがつかなくなる前にニルヤの元へ送るつもりでいる」
 モルフェアはゆったりと微笑んだ。
「ニンヌから要請があったのだ。奔放な面に隠れているが彼女が秘めている力はハルフィスをも凌ぐ。ハルフィスが理に逆らう力を求めて冥府の闇を引き込んだことにすぐさま気付き、私たちに救援を求めた。今頃目覚めたハルフィスが冥府の門へ駆けつけようとするのを妨害しているだろう」
 寝台で冷たく硬くなる自分の身体、消え去る瞬間を思った。そして今攻防しているであろうニンヌとハルフィスを思った。
「青の乙女はさぞ後悔されたでしょう」
 彼女は案じるあまりリカシェなどに、兄を変えて欲しいと頼んだだけだ。そこにある願いは、ただ豊かであれというもの。均衡を破壊するほどの変革を望んだわけではない。
 だがそうして他の神々に助けを求めるほど、水葬都市は危険にさらされている。ゆえにハルフィスが執着するリカシェの死が望まれることは必然だった。彼が執着するものを消し去ればひとまず危機は去る。
 自ら去るのではなく、他者によって別れさせられる、それが似合いの結末なのだろう。だからリカシェは抵抗しなかった。自分が次に何をすべきか、二度目の願いを聞き届けられるように心を固めていかなければならない。闇に浸した身体が凍え、その恐怖に囚われて愚かしい振る舞いをしないように。
 その静かな姿が哀れを誘ったのか、モルフェアは呟いた。
「人はいつも私たちに振り回されて、その短い生と死までをも捧げようとする。お前たちのその献身の理由は何なのだろうな」
「あなた方が愛おしいからでしょう」
 人のように泣き、笑い、怒り、悲しむ。そこに付随する力は世界を変えるかもしれないが、心を持つから惹かれる者たちは絶えないのだろう。その危うさすら魅力なのだ。数々の神話や教訓譚がそれを物語っている。
 リカシェの返答を聞いたモルフェアは目を細めた。快い歌を聞いたという表情だった。
「ああ。私たちもお前たちが愛おしいよ」
 そう言ってモルフェアは手を離した。緩やかな落下は速度を増していき、風の唸りが吠える声となって響き始める。
(これが最期か。私という魂は冥府の門をくぐり、終わりを迎えるのか)
 そうして、とぷん、と柔らかい水に沈む音を聞いた。
 鈍色の世界は青く光る漆黒に変わった。肺の奥まで染み渡る寒さにリカシェがごぼりと咳き込むと、その漆黒が開いた口の中に流れ込んでくる。背筋から這いのぼる恐怖にきつく目を閉じてニルヤの名を唱えた。
 今どこにいるのか、今まで何をしていたのかが曖昧になっていく。余計な思考を削いで、醜い欲望を晒させ、真実の願いを叫ばせるために一枚ずつ皮を剥がれていく感覚だった。
 漆黒はリカシェの奥にある魂に手を伸ばしている。見えない大きな手のひらに、リカシェは自らを委ねた。
 記憶が落ちていく。ハルフィスの肌の感触。ニンヌの微笑み。ロディとルビナ。アーリィ。アレー翁。蟇目矢の鳴る音。弟の呼び声。誰ともしれない笑い声――棺に流れ込む黒い水、せり出す恐怖。口をふさぐ老いた男の手、その体臭。光る白い十字。
 モルフェアたちはリカシェを憎んだわけではない。ただあの男はリカシェを憎んでいた。候補者たちを殺し、女子どもには苦しみを味わわせて。
 老いた男? リカシェは自分の思考に制止をかけた。
 殺されているのは、王位を継ぐ次期継承者、若者たち。ならば犯人は若い者、あるいは候補者の資格たりうる経験をした者のはず。けれどリカシェを棺に押し込めたあの男は、使い古した刃のような荒れた指と、乾いた木に似た枯れた感触の手を持っていた。
 果たしてそれほどまでに老いた男に、王位が与えられるだろうか?
 ひらめく白い十字。老いた男。殺される若者たち、無力な者たち。手を汚さぬことを厭わぬ殺人者。女と子どもを憎む……。
 女と子どもが何を持っているか――彼が持っていないものを。
 リカシェの深層に焼きついた白い光が額を打った。ああそうか、そうだったんだ。私を殺したのは。女と子どもの可能性を憎む、その男の名は――。
 瞼の裏に浮かぶ、自分を救った白銀の光、それすらも見えなくなったのが、最後だった。



 

NEXT
BACK
MENU


INDEX