第6章 約束
 

 庭の種に水をやりに来たらハルフィスがいた。石で印をつけたところに立っているので、もしかして掘り返すつもりだろうかと見ていたら、こちらに気付いて振り返った。そうして近付いてよく見てみると、種はすでに水を与えられたらしく、土が湿っていた。
「水をやってくださったんですか?」
「そなたがいなくなるのだ。代わりに世話をせねばなるまい」
 事実としてハルフィスは言った。先だっての悄然とした様子はかけらもない。割り切ったわけではないだろうが、切り替えねばまた闇を引き寄せる自覚があったのだろう。
 だが言うことが当てこすりじみていて、思わず笑ってしまった。笑い声を聞き咎めてハルフィスは眉をひそめた。リカシェにとってはそんな顔すら楽しい。
「花が咲く前に帰ってきますわ」
「急がなくとも良い」
 突き放すように聞こえてリカシェが目を丸くすると、ハルフィスは静かに言った。
「地上に戻った後は己のなすべきことをなし、人としての生をまっとうせよ。そなたが望むように生きた後、再びここで見えよう」
 美貌の面に、柔らかい微笑が広がった。
「その時、そなたがどのような人生を歩んだか聞かせてくれ」
 リカシェは背を向けた。その優しくて悲しい笑顔が、胸をぎゅっと締め付けたからだ。ハルフィスはそんなリカシェの背後から腕を回すと、かすかに笑う声で囁いた。
「考え直したか?」
 腕に手を添えただけで回答は拒否した。腫らした目も赤くなった鼻も見られたくなかった。慈しみの溢れた腕の体温に浸っていたかった。髪の間に感じる彼の悲しみにあふれた吐息に、自分の気持ちを重ねた。
「あなたのなさることは、理に反しませんか。私は……」
 ハルフィスが腕に込める力を強くした。
「……確かに、そなたの一部は水葬都市に縛られる。だが、我が名と青の乙女ニンヌ、そなたに敬意を表したすべての神々の名において、そなたの魂に十分な時間を約束する。何があっても」
 リカシェが伏せた目の端に、ハルフィスは唇を寄せる。振り向くと、強い決意をたたえた銀の瞳があった。
「私が心配しているのはそんなことではなく」
「そなたが案じるほど対価を払ったわけではない。対価とも呼べぬ」
 だが何らかの代償を支払ったのは確かなようだった。むっとして一言言おうとするリカシェの目元に再び口付け、額を合わせた。リカシェは落ちかかる銀の髪を撫で付けるように掻き上げ、頬を包むように手を伸ばした。
 いくつもの偶然が重なってさだめになった。死ですら何かの始まりなのだ。その果てにある闇と無の向こうに、新しい世界が待っているのだろう。行ってしまったロディとルビナ。これからそこへ向かうアーリィとミュナ。その時を待つすべての人々が、その希望を約束される。だからその守り主であるハルフィスを愛したことを、リカシェは誇りに思った。王とは、かくあるべきなのだ。
「あなたが私の人生を約束して下さるなら、私は守り手になりたい。弱い者たちの可能性を少しでも繋げられるものに」
「思い描いた理想の形に自らを整えるのは、最良の変化のすべだ。己を諦め、憎みさえしなければ、そなたの望む未来が姿を現すだろう」
 ハルフィスの、神としての祝福と啓示だった。今度は受け止め損ねることはなかった。なれるだろう、とリカシェは確信を得た。自分が己を見失わず、理想を描き損ねることがなければ、彼に再び出会う時、私は思い描いた通りの自分になっている。
 自然と重なった唇は優しく、次に重なった時はお互いを抱き寄せながら長く。
「そなたが最後の花嫁だ」
 そして息継ぎの間に告げられたそれこそが、最大の祝福なのかもしれなかった。


 地上に戻るその日、リカシェはいつも通りに着替えをし、髪を梳いてまとめ、誰にあっても恥ずかしくない装いをした後、使ったものを元の位置に戻して部屋を整えた。リカシェがここにいた証となるのは、飾り物屋から受け取った小さな品々だ。これも花嫁のものとして永遠に据え置かれていくのだろう。
 部屋を出ると、セルグが立っていた。
「ご案内いたします」
 彼の後について歩きながらリカシェは言った。
「ここに来て最初に会ったのがあなただったわ」
「ええ。これまでにお会いしたどの花嫁よりも落ち着いていらした。好奇心と警戒心を剥き出して、戦士のようでしたよ」
 くすりと笑われて少し恥ずかしかった。セルグの落ち着きぶりはハルフィスとはまた違い、自分の思考が幼いのだと気付かされるところがあるのだ。
「少し昔話をしてもいいでしょうか」
 了承の意思として、リカシェは歩調を緩めた。先を行きながらセルグは口を開いた。
「私がハルフィス様のお目に止まったことで従士となったことはお話ししたかと思います。そのきっかけというのが、かの王の花嫁でした」
「前の方?」
「はい。もう何代も前の花嫁です。――私は彼女を愛していました」
 未だくすぶる情念が宿った告白にリカシェは足を止めてしまった。セルグは振り返ったが影はちらりとも見えない。自嘲するように微笑んでいる。
「生贄に捧げられた彼女を追って水葬都市に来ました。何度も城に忍び込んで付きまとうような真似までしましたが、ハルフィス様は私のことも、花嫁となった彼女のこともまったく相手にされなかった。やがて花嫁に対する態度が一貫して無関心なのだとわかるようになるのですが、私はそれが許せなかった」
「その方があなたにとって大事な人だったからね」
 セルグはにっこりした。その明るい顔を見て、彼はずっとこうやって理解してくれる誰かを求めていたのかもしれない、と不意に思った。城を守る眷属たちの中にどのくらいの割合で人間がいるのかはわからないが、そうして過去を話せるほど近しい誰かはいなかったのかもしれない。いたとしても、とっくに冥府の門をくぐってしまったか。
「本当は彼女をさらっていきたかったけれど、それだけはハルフィス様も見過ごさなかった。ならばと、彼女が冥府に消えるまで見守ることを選びました。そうして彼女が去り、どうしようかと考えていたら、従士になるお話しをいただいたのです。最初はわだかまりがありましたが、ハルフィス様はあの通りの方なので」
 憤るのも無駄だと悟ったらしい。感情を整えるのに彼の髪が青く染まるまでの時間はかかったかもしれないが、今は去った花嫁への想いだけを抱いてここにいるのだろう。
「なら、今の状況は腹立たしいのではない?」
 セルグは笑みを深くし、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。喜ばしく思うということを伝えておこうと思ったのです。リカシェ様。私は地上にありふれたつまらない男の一人でしたが、自分の感情や人の思いが生を彩ることを彼女に教えてもらいました。地上に生きるものにとって神は遠い存在ですが、その神もまた私たちと同じように感じているという世界であることを、嬉しく思うのです」
 リカシェは目を細めた。彼の静かな喜びが眩しく、暖かく染み渡った。
 そう、セルグの言う通り、人も神も関係なく、心が動くことで人生が彩られる。この世に溢れるものが豊かであればあるほどその色彩は多様になり、一瞬たりとも見逃すことのできない世界が生まれ出るのだ。だから私たちはこの世界を愛していると告げることができる。
「ありがとう」
「お聞き汚し、失礼いたしました。さあ、急ぎましょう。皆様お待ちかねです」
 皆様? と思い当たることができずに首を傾げながら先に進むと、建物の間の小庭に人が集まっているのが見えた。
 東棟にいるはずの兵士たちだった。彼らはこちらに気付いて、わっとリカシェの名を呼んだ。先頭を切って駆け寄ってきたのはアーリィだ。
「地上に戻るって聞いてね。みんな、水葬王の花嫁に一目挨拶したいってさ」
「うまくやったなあ、お姫さん!」
「あんたが水葬王を尻に敷くか賭け……をすると捕まるからどうなるかって予測し合ってただけなんだが、どうやらあんたの勝ちみたいだな」
 やいのやいのと言いながらリカシェに触れ、讃える彼らに、羨望はほとんど感じ取れない。励ますように言葉をかけてくれる。そう思っていると、前に出たアレー翁が言った。
「水葬都市から地上に戻る時に持っていけるのは記憶だけ。それもすぐに薄れてしまうというが、もし覚えていられるのなら、灰雲山のアッシケーナ村を訪ねるといい。あそこは狩人の村だ。いい射手が揃っている。お前さん次第では力を貸してくれるだろう」
 リカシェが目を丸くすると次々に「困った時はロージの村に」「アビシェの一族は小さいが勇敢で」などと言われる。
「っていうかアレー爺、あんたアッシケーナの人だったのか。俺同郷だよ。隣村のオーバイエンの生まれだ」
 それぞれが自分の出身地を初めて聞いたのか、リカシェを置いて盛り上がり始める。そこから少し離れて、アーリィが言った。
「まだ存在しているかはわからないけど、もし困ったら、カラドホーン傭兵団に声をかけてくれ。もしかしたらあたしのことを覚えているやつがいるかもしれない。『大剣のアーリィ』っていうのが通り名だった」
「カラドホーンなら聞いたことがあるわ。義理堅い傭兵たちだって」
 アーリィは嬉しそうに笑った。
「じゃあ今も変わらないんだね。そうさ。カラドホーンは義なき戦には参加しない。団の結束は固く、みんなが家族なんだ」
 家族と言って自分のことを思い出したらしく、彼女は声を潜めた。
「ミュナと一緒に暮らすことになりそうだよ。最初は泣かせちまったけれど、今はずいぶん懐いてくれて、笑ってくれるようになった。あの子、すごくかわいいんだ」
「そう……よかった」
 ミュナは罪もないのに命を奪われた子だった。アーリィのような人と来世に親子として生まれるなら、少し心が慰められる気がした。
「また会いましょう。いつか」
「うん。またいつか」
 挨拶を交わしたことに気付いて、各々喋っていた兵士たちも次々に別れを告げる。
「じゃあな。あんた花嫁にしちゃなかなか面白い人だったよ」
「元気でな。長生きして、ばあさんになってからこっちに来るんだぞ」
「あんまり無茶しちゃだめだよ。周りの寿命を縮めるからな」
 最後の一言でみんなどっと笑ったが、リカシェは真剣に頷いた。自分でない誰かが先に水葬都市に行く、なんて事態は避けなければならない。
「ありがとう、みんな。さようなら」



 

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