見送りを受けて、さらに奥へと進むと、今度はエルヴィとニンヌが待っていた。ニンヌはどこからか運び出したらしい椅子に腰掛け、エルヴィはその側に立っており、少し離れたところでシェンラとリェンカの双子が見守っている。
 リカシェはニンヌの膝元で跪き、挨拶を述べた。
「青の乙女にはご厚情を賜り、誠にありがとうございました」
「わたくしもお礼を言います。ありがとう、リカシェ。兄上の心を目覚めさせてくれて」
 伸ばされた美しい手の甲に口付けすると、その指先がリカシェの頬に伸ばされた。
「たとえわたくしが兄上の望むような妹でなかったとしても、彼は行き場のないわたくしを受け入れてくれた大事な兄なの。だから彼が自らを使い果たすことにならずに済んで、本当によかった」
「ですが、ご心痛の種を増やしてしまったように思います」
「それはまた別の話よ。わがままが過ぎるようになったかもしれないけれど、つまらない人ではなくなったわ」
 笑いながら言われたが、ニンヌは、リカシェの心配を軽くするためにわざとそんな言い回しをしたのだ。そして甘えたような『つまらない』は、ニンヌがハルフィスを慕っている証だった。
 リカシェが立ち上がると、今度はエルヴィが進み出た。手を差し出され、一瞬わからなかったが、握手を求められているのだと気付いた。まるで男性がするように手を握りかわし、リカシェは言った。
「あなたにたくさん助けてもらったわ。ありがとう」
「ただの気まぐれだ。死んだ後の世界を見て回りたかったってだけで」
「それでもあなたは助けてくれた。私のことが気に食わないのに」
 手を離しながら、エルヴィは顔をしかめた。
「確かにお前のことは気に食わなかったが、俺はだいたいのやつのことをそう思ってた。お前だけ特別に嫌ってたわけじゃない」
「ふうん……なら、あなたがいつも周りから一歩引いたところにいたのは、そういう意味だったのね」
 誰にも加担しないが、彼はいつも一人だった。それを悪しざまに言う者もいたし、リカシェもあまりいい印象を持たなかったが、なんとなく気になっていたのは彼のそうした嫌悪感が、リカシェの持つ不満や憤りに少しだけ重なっていたからなのかもしれない。
 そんな風に記憶を探っていると、そういう言い方が嫌いなんだとエルヴィは呟いた。
「お前はもう少し殊勝な態度を学べ。媚を売るのも弱々しいふりをするのも、生き残るためのすべなんだ。女であることや弱者であることを潔癖に嫌うよりも、うまい生き方があるってことはわかってるだろう」
「それがうまくできれば苦労はしないわ」
 ああ言えばこう言うと思ったのかうんざりとため息をつかれた。リカシェは笑った。叶うことならば地上でこんなやり取りができれば、お互いにもう少しで生きやすかったかもしれない。
「ああもう、お前に説教したくて来たわけじゃないんだ。俺に対する報酬を支払ってもらいたい」
「報酬?」
「地上に戻るなら、ジェニス……俺の姉貴を守ってほしい」
 すぐ顔が思い浮かんだのは、ジェニス・ゲーティアの不名誉な噂が周知されていたからだった。聡明で美しいと評判の彼女は、嫁ぎ先で男の子を産むと、すぐに離縁されて実家に戻された。夫だったのはヘルブラーナ出身の継承者の一人で、すでに亡くなっている。恐らく今回の件の被害者だと思われた。
 そしてジェニスは義母となる人から、夫を殺したと言いがかりをつけられ、すでに後継が生まれていたため、お役御免とばかりに追い出されたのだった。
 素早く思考をめぐらせ、エルヴィが何を言わんとしているのかを考えた。
「もしかして、ジェニスは……」
「ああ。姉貴は一度も婚家の悪口は言わなかったけど、子どもを手元に呼びたいってしつこく言っていた。今まで見たことがない必死さで。犯人が誰なのか勘付いているのかもしれない」
 犯人がそれに気付けばジェニスも始末される可能性がある。優先的に彼女を保護しなければならない。
 しかし報酬を支払えと言いながら姉のことを頼むとは、今更ながらリカシェはなんだかエルヴィのことを好ましく思った。そして、彼が何故協力してくれたのかという理由もうっすらと察した。リカシェが弟レンクを守りたいと言うように、エルヴィは姉のジェニスを守りたいと思ったのだろう。自分が死んだ後にそれを託すことができるリカシェに望みをかけたのだ。
 だがそれを言うとへそを曲げそうなので黙っておいた。
「わかったわ。弟の教師にするとか理由をつけて呼び寄せてみる」
「頼む」
 そうしてふと気になった。エルヴィはまだ従士の格好をしている。
「あなたはこれからどうするの?」
 答えたのはニンヌだった。
「わたくしの従士にするわ。いろんなところに出入りできて便利だということがわかったから」
 にこにこと便利な道具を手に入れたように話すので、リカシェは密かに肩をすくめているエルヴィの先を思いやった。でもまあ彼ならうまくやるのかもしれない。
 そんな二人とも別れ、回廊も終わりに来た。突き当たりは小さな御堂だ。
(ここは……私が目覚めた場所だわ)
 セルグが立ち止まり先へ促す。挨拶を込めてリカシェは軽く膝を折った。そして部屋に入ると彼はそっと立ち去った。
 室内は青い光で満たされていた。中央には宝石でできたような藍色の棺があり、傍らにハルフィスが立っていた。リカシェは近付き、彼に抱きとめてもらった。
「悲しむな。これからのそなたの生には、これ以上の悲しみが存在する」
「それでも悲しいものは悲しいのです」
 そうだなとハルフィスは頷いた。その悲しみごと抱きしめるように、お互いを掻き抱く。
「そなたの前に立ちはだかるものがあるならば、私を呼べ。私の力が、そなたとそなたが守りたいと思うものを守るだろう」
「はい」
「幸福な生を歩め。そなたが愛した世界の物語を楽しみにしている」
「はい。……はい、ハルフィス様」
 あれほど溢れていた言葉が何も出てこない。心の中にうずくまって泣きたいだけの子どもがいた。彼に優しい言葉をもらって守ってもらうことを望む子が。ただそれを叱咤する自分もいて、リカシェはぐっと涙をこらえると、姿勢を正してゆっくりと跪いた。
「……水葬王に、しばしのお別れを申し上げます。短い間でしたが、お側にいられて幸せでございました」
「我が花嫁の新たなる旅立ちを祝福する。そなたが私に与えたのは光、死の淵の暗闇に射す眩い色彩であった」
 ハルフィスは静かに告げた。
「別れは言わぬ。交わすのは再会の約束と心得よ」
 リカシェは伸ばされた手につかまって立ち上がり、青い棺に身を横たえた。
「夢の神の歌声についていけ。目覚めた時には地上に戻っているだろう」
 身を横にした時から、遠くに響く歌声を聞いていた。モルフェアが誘いの歌を歌っているのだ。柔らかい眠気が打ち寄せ、まぶたが重くなっていく。ハルフィスはそんなリカシェの髪や頬に触れ、夢の世界へと送り出そうとする。
「また……必ず……」
「ああ。待っている」
 そうして世界が揺らぎ、棺も、御堂も、城も都市も何もかも溶けて消え、リカシェは青い世界を漂っていた。そうして夢を呼ぶ歌声に身を委ねて目を閉じる。次に目覚めた時、そこは地上のはず。愛する人と隔たれた地であるはずだった。


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