だがシステリオは笑っていた。顔を歪め、ひどく愉快そうだった。その声がやけに大きく聞こえて、リカシェは不快感を覚えた。耳障りで頭の中に残る、意識を乱されるようなざらついた笑声。そして気付いた。リカシェの息を飲む音が鋭く響いた。
 座したシステリオの周囲に闇が集まっていた。否、それは彼が生み出すものだった。自身の妄執、殺意と憎悪、殺された者たちの怨念といったものがシステリオを取り巻き、それは彼の内側に冥府に続く道を作り出してしまったようだった。
「王、あなたは」
 つかの間絶句し、リカシェはきっとシステリオを睨み据えた。ますます興が乗ったのか、システリオは立ち上がった。だが立ち上がったのは人の身だけであり、彼が抱え、背負っていた凝りがずるりと滑って落ちた。
「よみがえりの女。余を断罪するからには理由を知っておろうな? 余が何故候補者たちを手にかけたか」
 リカシェは近付いてくる相手を見据え、言った。
「あなたは候補者たちの若さや未来を恨んだ。そして、特に女性と子どもを特別に憎んでいた。子どもはあなたが失いつつある可能性を持つから。女性はあなたを追い落とす赤子を生むから。それはあなたが――」
 目の前の男が引きずるのは、鈍重な泥の塊のような闇だった。思わず言葉を切るほどの臭気を感じているのはリカシェだけなのかもしれない。腐敗臭と鉄錆た血のにおい。だが気配を感じている者は多数いるはずだ。でなければ城中が怯えたように静まり返ることはない。
「あなたが自らの死期を悟ったから」
 ごおおっと闇が吠えた。
「素晴らしい巫者の力! 神より与えられし眼で余を暴くか!」
 憎しみと喝采を叫ぶ黒い塊は覆いかぶさるようにして伸び上がり、けたけたと笑った。
「余を恐れず舞い戻ったことに敬意を表して教えてやろう。そなたの語ることはすべて真実であると!」
 嫌な臭気を放つ息めいた風を放ちながら、システリオの声はさらにざらつき、怒りを帯びて強くなっていく。
「まったく忌々しい。国のため一族のためと言って次代を選ぼうとする輩の数よ! 何故他者に我がヘルブラーナを与えねばならぬのか。これは余の国ぞ。余のものぞ! 余が玉座にいるというのに何故若いというだけの次の王を選ばねばならぬのか!?」
 年老いていく王の命数が残り少ないと気付いた者たちが、次代を決めようとした、それがすべての始まりだったのだ。
 若者たちに継承権の順位がつけられるのを見ながら、システリオは恨んだだろう。自分がまだ王であるにも関わらず、一族の者たちは自らが抱える後継者を立てることに躍起になっている。彼らの振る舞いはシステリオを無視し、返せば、彼がもう死ぬものとして見ているということだった。
 その恨みは憎しみとなり、システリオは自分と、協力者を使って候補者を殺し始めた。王の召喚ならば応じねばならない。王の贈り物なら手をつけねばならない。そうした王に畏敬を抱く者の心理で、人気のないところへ誘い出されたり、毒を口にしたりして死んでいった者は多いはずだ。また協力者は下働きの者などに毒物を渡して混入させたり、普段使用しているものをすり替えたりしていたのだろう。
 リカシェが水葬されたあの日、近くに王がやってきていたという情報はすでに掴んでいた。彼らはひそかに城に入り、リカシェに眠り薬の入ったぶどう酒を飲ませ、殺そうとした。毒物でなく眠り薬だったのは、いつかエルヴィが言っていたように生きながらにして水葬し苦しめたかったからだろう。
 リカシェは、傍らで震える父を見た。青い目に見つめられた父は短い悲鳴をあげた。そう、城にシステリオを招き、そのことを誰にも言わなかった父もまた、協力者の一人と言えた。
 しかしそうして見てみれば、システリオの憎しみには納得がいった。彼の罪は消せはしないが、彼を無いものとして扱った周囲もまた罪深かった。
「退きなさい、王よ。あなたがしたことは、どんな理由があったとしても許されない」
 きん、と鋼を弾く音がした。システリオが振り下ろした剣は、リカシェの手にした護身用の短剣に防がれたのだ。
 老いたと言っても、中原を統一せしめようとするほどの戦士だった男の刃は重かった。今の自分でなければ切り捨てられていた。リカシェの剣は折れ、もう使い物にならない。
「王よ! 剣をお納めください、それ以上罪を重ねては」
「うるさい!」
 走り寄ろうとした幾人かは、大喝と共に巻き起こった風に吹き飛ばされた。この世ならざるところから吹くそれは、真冬の氷の上を駆ける雪嵐よりも冷たく、鋭い。
「もう一度殺してくれよう! 次は手足を縛って水に沈めてやる! そなたが恋う水の中へ!」
 異変に気付いた人々が出口へ殺到するが、扉はぴたりと閉じられて開くことができない。ここにいるすべての者の息の根が絶えなければ、扉は決して開かないだろう。
 ゆらりと剣を下げているシステリオを見ながら、リカシェは悟った。
(絡め取られているのだわ。分かち難く。王はもう、憎悪を手放せない)
 彼そのものが闇に堕ちようとしている。殺しすぎたのだ。
 逃げ場を失った者たちを庇うように立つリカシェの全身から、青い炎が立ち上る。蝋燭の火のようにふわふわと揺らいでいたそれは、湧き出る泉のごとく溢れ、湖を作るかのように足元から広がっていった。
(これが私のなすべきこと)
 両手を前に出し、右手を後ろに引く。
 すると、まるで最初から手にしていたかのように、そこには青白い弓矢が現れていた。
 その光に照らされたシステリオは、すでに亡者の形相だった。顔らしきものは泥のような黒に覆われ、かろうじて目と口らしい空洞が見えるだけだ。老いさらばえた手足は闇によってようやく動かすことができているのだろう。彼は残り少ない命を闇に捧げてまで、この世に止まろうとしているのだった。
 哀れだった。悲しかった。さぞかし苦痛だろうと思った。彼はひとときも安らぐことなく、誰かを殺さなければ生きていけなかったのだ。
(終わらせよう。私が『繋ぐ者』ならば、解くこともできるはず)
 胸の内で唱え、リカシェはその名を呼び出す。
「――冥府の闇狩る水葬王ハルフィスの名の下に」
 その矢は、断片が断片ですらないほど捏ね合わされた闇とシステリオに向けられた。
 システリオが吠え、剣を振りかぶった。
 その瞬間リカシェの手から青い光の矢が放たれた。
 いいいいんんと澄んだ音を響かせ光芒となった矢は、まっすぐに、形なき影になりつつあった男の胸に突き刺さる。
「あ――おお――おおおお――!!」
 システリオの身体を光が貫く。彼が被っていた闇が苦悶し、のたうち、塵となっていった。呪詛の皮がそうして剥がれていくと、やせ衰えた老爺が現れる。システリオ・ヘルブラーナの真の姿だった。
 くずおれる王の姿を見ながらリカシェが手を下ろすと、両手にあった青い弓は一つの光の珠になった。
 そこに、彼の王の果敢な眼差しと力を感じた。
「……ありがとう」
 感謝を述べたその時、青い光がほとばしった。闇の侵された城を洗い、泣き濡れた影を癒し、血塗られたものを拭おうとする浄化の力だった。ヘルブラーナの城は一時、リカシェにとって懐かしい水葬都市のように青く染まった。それは城にいた多くの者の目に映り、記憶された。
 リカシェは目を閉じた。
 意識が薄れていく。眠りにつき、あわいの世界へ行こうとしているのだ。リカシェはそれを制御することができない。瞼の裏には世界を裏返したような、おおよそ表現できない不可思議な光景が映っている。例えるならモルフェアの夢の道が近い。あらゆるものが存在するが秩序がない。
 水葬都市に半身を置いてきたリカシェは、そうして現とあわいを行き来する。
 これはリカシェに下された罰なのだ。
(でもあなたの元へ行くのはいましばらく先のこと)
 私が植えた種は、その頃、どんな花を咲かせているかしら。





 その後ひと月と経たずシステリオ・ヘルブラーナは没する。彼の死とともに殺人の証拠と協力者の名が挙げられ、中原は再び戦乱の時代を迎える。
 その戦乱を収束させたのは、アスティアスの当主レンク。彼は混乱せしめた一族をまとめ、カラドホーン傭兵団やアッシケーナ村の狩人たちといったこれまで光の当たらなかった者たちを取り立て、様々な戦功を挙げた。レンクの妻ジェニスは前夫との間にできた子であるトレールを引き取り、新しい夫のそばにつけた。レンクとトレール、血の繋がらない親子の絆は、彼らを数々の危機から救うこととなった。
 やがて空白だった王の座にレンクを推す声が高まり、彼が五十になった年に、新しい王国が生まれる。新しく王と王妃となった彼らの悲願は教育の浸透と女性の権利の保障であったが、さらに二十年経った今でも達成されたとは言い難い。だが学舎を作り、有料の公図書館を整備したことは、ゆっくりと時代を変えていくだろうと学者たちは書き記す。
 南のアンジュネッツ、東のソレーシュ。それらに限らず内紛の種を抱え、小さな争いが起こった中原ではあったが、おおむね穏やかな時が流れていった。
 そうした変革と時間の中で人々が囁く伝説がある。
 中原の王レンクの姉、狂った前王システリオを討ったリカシェ・アスティアス。リカシェは水葬王の花嫁となり、地上に戻ってのち表舞台から姿を消したが、折に触れて弟王に預言を与えている、レンクの改革はリカシェの指示によるものだというものだ。
 レンクは次代に王位を譲る歳になったが、リカシェは今もまだ存命で、とある城の奥深くでほとんどを眠って過ごしているという。そんな影の実力者であるというリカシェを『眠れる女王』と呼ぶ者もあった。
 ――眠れる女王は待っている。死の訪れ、すなわち水葬王との約束の婚姻を。
 ――まどろむ王は待っている。最愛を捧げた花嫁に、今はまだ来るなと囁いて。
 人々は歌い、真実を知る者たちがひそやかに紡ぎ上げたものだけが確かにつながれていった。そしていつからか、リカシェ・アスティアスを聖なる人として列するようになった。



 

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