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 赤髪が春風に踊る。いつもは厭わしい赤毛も、春の太陽に似た金色に輝いた気がして、アンゼロッテの心は浮き立った。
 雲の輪郭は淡く、早くも芽を出した緑で丘は柔らかい。木々は少しずつ華やかな装いから凛々しい緑を輝かせ始め、解かれた花びらが時折風と踊っていった。風と、遠い山々からの雪解けのせせらぎが聞こえ、鳥や生き物たちの声で森は高らかに歌っている。水と森の小国コールセンの、いつも通りの春。天寿を全うした王女の喪が明けて、初めての春でもあった。
 どこへ行くのだと青ざめた声で追いすがった従者ベルディを笑いながら振り切ったアンゼロッテは、母の愛した風景を見るために、城下から離れた丘の上にいた。常にここでともに眺めた母の姿は、今は多くの高祖たちが眠る場所にいる。
『待っているんだ』
 いつでも優しかった声が思い出される。あの人はこの大地を駆け巡っているのだろうか、とアンゼロッテは何か新しい喜びを感じる度に考えずにはいられない。
 母は、老いていくことで少しずつ動かなくなる身体をもどかしく思っていたようだった。己の足で、望む風景、会いたい人々を見ることができなくなることで、少しずつ少しずつ弱っていくようにも見えた。だからかよく窓から外を眺め、外出していたアンゼロッテにどんなものを見たのか、穏やかに尋ねる。その優しい語らいの中で、彼女がぽつりと漏らした言葉がそれだった。『待っているんだ』と。
 誰をと尋ねたのに、ただもう会いに行けないようだと呟く様は、その時ばかりは本当の老人のようだった。だから、きっともう会えない人なのだろう。今のアンゼロッテが、母に会えないのと同じように。
 空を映した青い湖を背後にして、特徴的な尖塔が立ち並ぶコールセンの城。城下に広がる赤い街並。周囲の緑の濃淡は絵の具で描いたようにはっきりとしている。ここから見える景色は昔とほとんど変わらないという。ただ、この王都を中心に広がる国土は、コールセン竜カルシニアの絶滅によって少しずつ豊かさを蓄えつつあった。カルシニアが生息していた森林には動植物が繁栄し、それに伴って国民が増えていたのだ。
 そして、彼らはこぞってお伽話を語る。姫君と奇跡の物語。
 馬が鼻を震わせた。気がかりがあるように首を向こうへやろうとする。アンゼロッテは何かを見つめるようなそれが気になって、同じように顔をそちらへ向けた。
 かつて荒地だった場所は遠い場所まで広い芽吹きの絨毯を広げている。そこをやってくる人物があった。頭から被った外套で顔は見えなくても、背の高さから男だろうと推測する。彼はこちらを目指している様子で、アンゼロッテはそのまま待ち、少し距離を置いて目を合わせた。
 顔かたちが分からないまでも、暗がりに光るために見て取れた男の瞳は薄い灰色だった。春の淡い雲の色だった。
「もし、姫君」
 面食らう。見知らぬ女性に呼びかける呼称が『姫君』だという丁寧さにもだが、声があまりにも美声だったので、胸が急に鼓動を打ち鳴らし始めたのだ。
「お尋ねしたいのですが、王家筋の墓所はこの道を行けばいいのですか?」
 でも、果たしてそれだけが理由だろうか。自問自答しながら、男がゆっくりと首を傾けるのを半ば呆然と見ていた。
「どうかされましたか?」
「……あ、いいや。……すまない、少し、驚いた」
「何にですか?」
「え? あ、うん……あなたの声がとても綺麗だったからかな。少し懐かしい気がしたんだ」
 はっきり訊かれるとは思わなかったので戸惑ったが、素直に口にした。そう、懐かしい気がしたのだ。遥か昔から知っている音のように、ずっと聴いていたいと思う声。
「あなたと私は初めて会ったように思います」
「そうだな。だが、そういうことがあってもいいとは思わないか?」
 男は考えた様子だったので、真面目だなと苦笑が漏れた。苦笑は自分にも向けられていた。アンゼロッテも、自分からそんな詩的な表現が生まれるとは思ってもみなかったのだ。
 春風がそよと頬を撫でた。少し興奮したように身じろぎする馬をなだめながら、アンゼロッテは腕を上げてあちら側を指差した。
「お尋ねの墓所だが、確かにこの道を行けばいい。だが、参拝しようにも管理人がいて関係者以外立ち入り禁止になっているんだが。そこに何の用事かお尋ねしても? 旅人殿」
「兄がお世話になった御方が、昨年逝去なされたと聞きました。急ぎすぎるあまり兄よりも未熟なままここを訪れることになりましたが、しかし兄の代わりに花をと思ったのです」
 きっと喜んでくださると思います、と旅人は少し微笑を滲ませたような声で言った。
「私は兄の心を継いでいるので」
 その言葉は波紋のように広がっていく。思い出が数多くの声と表情を響かせて、胸が迫るくらいの思いでいっぱいにした。アンゼロッテは馬を下りて彼と同じ場所に立った。
「しかし、残念です。直接墓前に行くことはできないのですね。管理人の方に花をお渡しすれば手向けていただけるでしょうか」
「私と一緒に行けば大丈夫だ。私は霊園の鍵を持っているから」
 男は少し驚いたように顔を向ける。
「では、あなたは王家の方なのですか?」
「まあ、そういうことになるかな。血のつながりはほとんどないが」
 告げる言葉は、いつもとは違った。いつものように卑屈な思いが起こることもなく、悲しみも怒りもない。
「私はとある貴族の娘だったんだが、様々な事情でお家断絶ということになってね。行き場がなくなった私を拾ってくれたのが母だった。……きっとあなたの兄にも、母は同じことをしたんだろうな」
 亡くなった王女。前王の妹君。最後の竜伐隊長官。お伽話に語られるゆりかごの戦士。リゼロット・コールセン。それが、母の名前。
「花を供えてほしい。本当は、母はもっとたくさんの人と会いたいはずだから」
 馬の口を取り、アンゼロッテは言う。
「さあ、行こう。私の名はアンゼロッテだ。あなたの名は? あなたの兄君の名は?」
 男は外套を取った。そこから現れたのは、明るい雲の色の瞳と黒い髪の、思ったよりも若い、聖人画よりも美しくしなやかな青年の晴れやかな微笑だった。
「【ディオール】……ディオールと申します、姫君」






「戦士達のゆりかご」から五十年後、リゼロットの「娘」とディオールの「弟」の出逢いから始まるお話です。
たくさん愛してくださって、本当にありがとうございました。



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