春の中頃の空は、やがて始まる夏に向けて、少しずつ濃さを増していくように思う。太陽の日差しは強い日があり、袖をまくっている人の姿も珍しくない。風は暖かくなり、野の草いきれの片鱗を運んでくる。
 物見塔の窓辺に座っているキサラギは、ゆっくり過ぎるくらいに上ってくる気配に気付き、ふっと我に返った。
「風の匂いが違うわね、ここ」
 ユキが現れて、窓辺近くの床に座った。日差しが縁取る光と影を触れて確かめている。指が、温度の高い部分と、低い部分を行ったり来たりした。
「キサラギ、噂になってるの、知ってる? キサラギが、センって男の人と出て行くんじゃないかって」
 改まった顔でユキを見てしまった。普段なら噂だよと言って、逆に誇張して面白可笑しくしてしまうのに、噂が真実を語る時、反応もまた真実になってしまうらしかった。
「ユキ」
「男の人は黒竜を追っているんだってね。キサラギは灰色竜を追いたいんでしょう。なら一緒に行ってもいいと思うの。なのに、ねえ、何を悩んでいるの?」
 この街の人々の認識として、ユキもまた、キサラギが灰色竜を追いたい理由を敵討ちのためだと思っている。キサラギの使命がそんな美しい理由であるとしたら、街の人々はこうしてユキと同じように送り出してくれるだろうけれど。
 持っているのは綺麗な理由でなく、もし旅をするなら同行人は狩るべき竜人だ。
 しかしそれを、話すことは。
「悩んでないよ。ユキを置いてかなきゃならないのが、心配なだけ」
「キサラギったら。あなたの人生は私じゃないのよ。分かってるの?」
 思いがけない強い声で言われ、キサラギは苦笑した。
「分かってるよ?」
 そこでため息をつかれる理由が分からない。額を押さえ首を振ったユキはしばらくの間の後、風に吹かれて光の方向へ顔を向ける。キサラギも同じようにして窓の外を見た。
 風が吹き込んで、声を連れてくる。竜狩りたちが馬鹿笑いをして歩いていく声。女たちの挨拶と井戸端会議。子どもたちの嬌声を走り去る音。赤ん坊の泣き声。空へ舞い上がる風が、ふと揺らした様々な音。
 ユキは穏やかで優しい笑みを浮かべながら、すべての音を邪魔しないような声で言った。
「出て行っても、帰ってくればいいのよ。ここはあなたのセノオでもあるんだから」
 もしかしたら竜人を狩らずに見逃して共に旅することになって、もっと言えば十二年間育てられた恩があるはずなのに真実を決して口にせず、いくつも秘め事を持ち続けた者が、本当にこの街の人間であるのなら。
 そう許されるのなら、戻ってきてもいいと思う。――戻ってきたいと思う。
 キサラギは目を細めるだけに留めた。

   *

「答えは」
 約束の日の夜、影から姿を現すようにやって来て答えを求めた男の前にキサラギは立ち、はっきりと返答を成した。
「行く」
 後ろに置いていた荷物を目の前に置いた。見守っていた人々から歓声が上がる。竜狩りの旅立ちは別れであっても祝福するべきものだからだ。
 だがキサラギと男の間には冷たく暗い沈黙があり、キサラギが心の内ではあったが真正面からその理由を唱える。
(灰色竜を狩る旅に共に行くのは、あんたが竜人だから。竜人は竜。だから狩る。いつか狩るために、私はあんたと行く)
 そして。
(灰色竜を狩る。そして『悲劇』を起こさせないために、私は行く)
 その思いが聞こえたかのように、センはふっと美貌の端に笑みを浮かべてみせた。挑戦的な、好敵手を見つけたかのような期待の笑み。反射的に身構える。
 出発は朝にしてほしいと言われていたため、この日が最後の夜になった。酒場が貸し切りになり、任務に就いていない竜狩りたちや仕事を終えた女たちが続々と顔を出して一言くれた。
 ……「しっかりな」「頑張れよ」「有名になったら帰ってこいやあ」「馬鹿! この人の言うこと聞く必要ないよ。いつでも帰ってきていいんだからね!」「美形と旅とか羨ましい……」「いいかい気を許すんじゃないよ、いくらいい男だからって、中身は狼なんだからね」……。
「成人できんかったなあ、キサラギ」
「成人?」
 センが呟いて顔を向けてきたので、軽く説明する。
「竜狩りに参加することを認められるのが成人の前段階。功績を認められると成人。成人は基本二十歳だけど、早ければ早いほど竜狩りには名誉」
 そして思わず中空にため息。竜人に竜狩りの風習を説明する自分が無茶苦茶奇妙に感じる。
「何故竜を狩る?」
 何を今更とばかりに笑い声が上がった。
「竜種は人を襲う。竜でも伝説の竜人種でも例外はない。俺らは各地の要請でそれを退治する。まあ平たく言えば仕事だからだな」
 どうやらセンは男たちに好かれているようで、どちらかというと女性の方が遠巻きにしていた。あの冷たい能面のどこがいいのか、そういった馬鹿らしいと思われるような質問にも返答があった。
 その返答に納得したようなそうでないような頷きをした狩られる男は、ふと見ているキサラギに気付いた。逸らす前に目が合う。
(お前を狩ることになったら、ためらわない)
 それが旅立ちの誓いだ。
 送別会は夜が更けても続く。そして、旅立ちの朝はすぐにやってくる。

   *

 人々が緩やかに眠りに落ちている時刻に、センは歩いている。久方ぶりの人間に溢れた地は、強い誘惑をかけてくるが、しかし長い時間に培われた忍耐と、抱き続けている疑問が、理性を留めたままにしている。
 疑問というのは、何故この地にあの気配があるのかということだ。特にこのような街では許されるはずのない、罪深い者の気配の欠片。
 進むごとに近付いてくるそれに、センはふと足を止めた。自分が近付いているのではなく、向こうからやって来るのだ。こつ、こつ、と靴音の合間に、別の固いものの音の連続が重なっている。
 やがて、上から現れたのは、目を閉じた少女だった。
「誰だ」
 名を聞いたのではなく、何故ここにいるのかという問いのつもりだった。だが娘は真正面に名乗った。
「ユキと言います。あなたがセンさんですか?」
 そう答えた。細い杖が石畳を叩いて目の代わりを果たす。が、娘はセンから適当な位置で立ち止まった。
 目が開いた。片方が暗い眼孔だ。
「秘密にしてください。夜にだけ見えるだけですから」
 もう片方は縦に長く、この闇の中でも輝いていた。
 竜狩りたちが狩ってきた、竜の眼。
「子どもの頃、害のない小竜を殺した短剣が、私の目を貫きました。視力はなくしたはずなのに、夜にだけ、見えるんです。私が、外から隠されているのはそのためです」
 竜の血に触れるな。
 戒めの言葉。竜狩りの街に、竜の血に触れた者が生きているとなれば、それは他の竜狩りからの断罪の対象になる。
 しかし部外者にこうして喋るのは、相手もこちらの正体が分かってのことだろう。
「その眼だけか」
 幸運な例だが、しかしそれがどれほどのものか理解されてはいないだろう。ただでさえ竜の血は忌まわしい。この草原地帯のどこにも例など残されていないはずだった。
「あなたは竜人ですね」
 その推測の通り、娘は話題に触れず問うことをする。
「竜人が、竜を狩るんですか?」
「仕事だからな。この街の竜狩りと同じだ」
「あなたは何かを憎んでいるように見えます」
 密やかに口にされた疑問に、センは目をすがめた。何を言い出すのかと思えば。
「憎しみを抱かねば竜は殺せんだろう」
「共存する道はないんですか?」
 だが思いがけない台詞に言葉を封じられる。何を言い出す。
「私がこうなったのなら、同じように生きている人がいるはず。あなたのような竜人も」
「出来ない。それは罪だ。竜人と人は交わらない」
「では、竜人種とは何ですか? 竜種と竜人種の違いは? 竜の血に触れるなという戒めの言葉は? 竜人種は何故生まれるんです」
 これ以上馬鹿げた質問を聞く理由はなかった。この娘は本当に何も知らないのだ。竜人種とは何かなどと、こちらが聞きたいくらいなのに。これならば人間のキサラギの方が真実に近い。
 しかしふとこの娘の名乗りを思い出した。ユキ。誰かが話していた、キサラギの最も親しい友人ではなかったか。
「キサラギに聞いたことはないのか」
 娘ははっとしたように問い返す。
「キサラギが知っているんですか」
「知らない。推測しただけだ」言う必要はない。娘はなおも問答を繰り返すことを望んでいたようだったが、センは空を仰ぎ、明け始めて赤く染まり始めた空を指した。
「夜が明ける。その目が見えなくなる前に帰れ」
「待って、キサラギは……!」
 とんと地を蹴ると一気に坂を下る。細く縋るような声はもう聞こえる範囲にない。センは一度も振り返らず、街の入口近くにいるはずのキサラギの元へ向かった。
 しかし、見覚えのある男が慌てた様子でこちらを見つけた。確か竜狩りの部隊長だ。男が発した言葉に、センは面倒なと眉を寄せた。
「セン、早く! キサラギが!」

   *

 別れは人々が起き出す頃に行われた。涙ぐむ友人たちは、もしかしてキサラギが戻ってこないと思っているのだろうか。だとすれば、彼女たちは勘が鋭いのかもしれない。さすがセノオの女たちだ。
 だが思いもがけないことが起こった。門が封鎖されているのだ。
 立ちふさがる青年に、キサラギは静かに名を呼んだ。
「……エンヤ」
「未成年が勝手に所属を変えることは許されない。戻れ!」
「エンヤに私を止める権利はないよ。街の掟を守らせようとしても、どうするか決めるのは私の意思だ」
 怒ってはならないと言い聞かせる。憎悪に怒りを返しても、彼には通用しない。だがその冷静さも憎悪の増幅にしかならなかった。エンヤは柄に手をかける。キサラギはさすがに目を鋭くする。
「私が気に入らないのは分かる。私も自分が嫌いだから。でもお前のその剣はこんなことのためにあるんじゃないだろ!」
「知るか! 行かせるか、お前なんかに!」
「キサラギ――!」
 見守っていた群集から声が上がる。はっとした瞬間に人々がどっと道を開け、一部の者は門を開きに走った。何故なら、騎乗したセンの馬ともう一頭が、そのまま勢いを止めるのではなく走り抜ける気だったからだ。
 止まってはくれないだろうとすれ違い様飛び乗るつもりで腰を落とした時、呼び声に気付く。
「キサラギ、これを!」
 投げられてきらりと朝日を弾く何かが手の中を収めた時、前方から近付くセンが手を伸ばしたのが見えた。
 キサラギは腰を攫われる。石畳を割る勢いでかけた馬は、そのまま人々の開けた道を突き進んだ。
 門が開かれる。滑り込んだ。
 歓声の送り声が遠くなっていく。
 体勢を整えつつ傍らの馬に騎乗し、キサラギは右手で掴み取ったものを見た。楕円の金属板が連なり、赤い石が中央にはめ込まれた耳飾りが一つ。激しく走る馬上では詳しい確認は出来なかったが、金属板には刻まれているはずだ。名と生年月日、生まれた地と承認の地。それは恐らく、キサラギが承認だけで終わると思っていたはずの、成人の、証となるものだ。
 耳飾りを手にしたまま高く手を掲げる。やって来た旅立ちはひどく騒がしいものだったが、陽を反射するこの光が届くといい。あの、物見塔にまで。

    



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