第5章 祭   
    


 ミヤ祭りの日、人々は普段通りに起きてそれぞれの時間に、塔に赴いて花束を供えていく。それが終わると若者たちは胸に花を飾り、花を贈ってくれた誰かの元へと駆けて、にぎやかな市場や商店街、広場を歩き回ることになる。
 キサラギは一番に酒場に顔を出して、新しい灰色竜と黒竜の情報がないかを聞いたが、成果は得られなかった。裏付けされた情報の更に裏付けになるしかないものがほとんどで、また来ると行って店を出た。
 外に出ると人波に押し流されそうになる。
 晴れ渡った空に、建物から建物へ張られた花飾りの紐が色を添えている。
 無礼講とあってか、圧政に苦しんでいるとは思えないほど人々の顔は明るかった。だが、その明るさはどこか浮ついていて、やがて戻ってくる現実の苦しみを感じさせた。枯れない花を飾っても、それはいつか枯れてしまうと誰もが思っているようだった。
「キサラギ! これ持っていきな!」
「こっちおいで、あのいい人と食べなよ」
 噂を広めるために馴染みとなった市場の人々に、売り物である食べ物をもらいながらふらつく。商店の人々はこの日のための品を売りさばいているが、マミヤの特徴たる竜狩りたちもまた、主催として剣闘大会を開催していた。見てみたかったのだが、そちらには近付けない。下手をすると、こちらを狙う者たちに囲まれて抜け出せなくなりそうな予感がしたのだ。
(ああもう! せっかくこんな催し物があるのに!)
 悔しくて地団駄を踏みたくなったが、途中粥屋のユミと恋人らしい少年が歩いているのを見て微笑ましい気分に塗り替えられた。そして、ここにはいない男のことを考えた。
 祭りがあることを聞くと、センはふらりと姿を消した。というより、滞在を始めてからあまり人混みに寄り付いていないようだった。人間を捕食する竜の本能が刺激されるのだろうか、それを堪えるために離れているようにも思えた。
「私は竜になってしまいました……!」
 響き渡った声に足が硬直した。素早く周囲を見回せば、人々が固まって一カ所を見つめている。キサラギは無理矢理人混みをかき分けて前へ出た。開けた場所、小さな舞台の上に、過剰に化粧をした線の細い男が声を張り上げていた。
「『私は呪われてしまいました。もうあなたの側にいられません』」
「『何を言う、どんなに姿が変わろうと、あなたは私の愛した人だ』」
 答えたのは太い声を朗々と上げる男。対する女役は身を屈め、苦しい胸を抱くようにする。
「『いいえ、いいえ。私は竜です。人の形をしていても竜なのです。だからお願いです。私を――』」
 ああっ、という悲鳴とともに消えた娘を追おうとする男。だが、その時、響き渡る竜の吠え声。男がはっとして見ると、舞台の奥から巨大竜の張りぼてが動きだし。
 竜だ! という子ども声が無邪気に響く。
 そして娘の悲鳴。
「『私を――殺して!』」
 キサラギは身を翻すと再び無理に通り、声が聞こえないところまで歩き出した。
 あの劇は、竜狩りの存在があるこの世界に、竜の血は呪う戒めがある伝承を、幻想化し恋愛物語に仕立てたものだ。地方によって語りには種類があるらしいが、竜に愛された娘が、竜の呪いを受け、竜となってしまうという基本は変わらない。
 原作者は不明だ。だがその人物は知っていたのだろうか。竜の血に触れてはならない、そして竜人の血に触れてはならない理由が。そして、遠い未来に同じようなことが繰り返されることも。
 キサラギは少女の婚約者。竜に変じるその少女は、あの人。
(馬鹿げてるな)
 小さく笑った。少しも似ていないのに、どこか似ているキサラギの過去と、物語。
 気付けばつかず離れずの気配があった。こちらに向けている視線の感覚を思うかぎり、どうも餌に食い付いてきた魚らしい。
 来るなら来いと乱暴な気持ちで、わざと人の流れの少ない方へ少ない方へと移動していく。だが足を進める度に、どこか深いところに沈み込んでいくような感じがして気になり始めた。腰まで水に浸かるに似ている不快な感覚に眉を寄せた頃には、すでにキサラギは後戻りが出来ない。かなり周到な追い方をされていることを知った。
(いつもと違う)
 だがキサラギは進み続けるしかない。まずい。このままでは追い詰められるだけだ。
 どうする、引き返して突破するか。建物は背が高く、屋根まで上れそうなものは見当たらない。走るか。だがそれ以前に追い付かれる予感がする。意思と反して足が自然と速まり、それがみるみるキサラギを追い詰める。靴音が焦っていると分かるが止められない。
 餌を撒くのはいいが最後の詰めが甘いとセンに嫌味を言われそうだった。いや、見られたら絶対言われる。あの綺麗な顔を歪めて、嘲笑って。
 むかつきを感じた途端、自分に対して呆れも生まれ、どこからか力が抜けた。
 そしてキサラギは、ぴたりと、その場に足を止めた。
 気配も足を緩め、ゆっくりと包囲を狭めていく。
 正面に竜狩りの姿が現れた。それを見ながら背後にも気を配っておく。正面と背後、どちらも同じ組織の装備、それもこの祭りの日なのに完全装備だったため、彼らがマミヤ守護団の人間だとすぐに分かった。
 獲物が釣れたわけだが、しかし友好的ではない。すらりと抜かれた刃を見て、覚悟はしていたがこうくるかと構える。
 竜の宝を持っていると吹聴した場合、彼らがそれを自分たちに取り込もうとすると思っていた。だが、もう一つの可能性。同じ物を持っている場合、他の誰かに手に入れられる前に、邪魔者となるより先に抹殺することだ。どうも、彼らはそれを選択したらしい。
 巨大な組織と聞いていたから穴だらけだと思っていた。市場で顔を見た団長だという男も劣った腕だと見ていたし、まさかこれほど訓練された人間がいたとは、読みが甘い、最後の詰めが甘いと冷笑されそうだった。
「……何の用かな。そんな物騒なもの、向けられる覚えがないんだけど?」
 答えはなかった。
 まだ間合いのあった後ろに飛ぶ。先程までいた場所に一閃。
 身を低くした瞬間跳ね上がるようにして、剣を上へ振り上げて抜く。
 ぎいんと音を立てて刃が噛み合った。重い。防がれたことで立ち上がれなかった膝が震える。
 大通りの人の声は、狭い道が押し込められたような場所でいやに響いている。太鼓の音、笛の音が掠れて聞こえる中、押される刃が悲鳴を上げている音に気付いたキサラギは、このまま刃もろとも叩き付けられるか、背後から刺されるかを予想した。
 が、その時刃に映った黒い点が視界に入る。
 みるみる大きくなって映ってきたそれに、キサラギはぎょっとして目を見開く。沈んだ、と思った男が好機と見なして更に踏み込んできたが。
 しかしやはり竜狩りだった。殺気を感じて頭上を見上げた瞬間、振り下ろされた刃を寸で避けていた。
 天からの刃は振り下ろされて、街は、どぉん……と響いて揺れた。
 先程までいた場所には穴があいている。それだけではなく左右の壁にもひびを入れたらしい。もうもうと立ちこめる土埃のせいで視界が利かないが、キサラギは自分の正面に黒衣を見た。
「おい……」
「行くぞ」
 どこへと問う暇もなく足が浮いた。
「わあ!?」
 センはキサラギを抱きかかえたまま一飛びで、建物の上、屋根の上に着地していた。瞬きのうちに遠くなってしまった地上を呆然と見ていると、更にセンは飛ぶがごとく屋根の瓦を蹴る。
 心もとなさ過ぎて思わず首に手を回した。キサラギを抱きかかえたセンは、重さなど感じられない身軽さで、屋根から屋根へ飛び移る。
 空には遮るものが何もなかった。いっぱいに広がり、風は高いところで吹いていた。地上の人々が動き回り、笑いさざめく波が見える。風の光に溢れ、飾られた花の色で美しい古都。
 笑い声が耳の中で響く。聞こえる声の中から、無意識に知った音を拾い上げて記憶を呼ぶ。
 気をつけなきゃだめよ、と封じた名を呆れたように呼ぶ愛おしい声。
 今、キサラギはいつか行きたいと思っていた空と大地の向こう側を飛んでいる。いつか一緒に行くと決めた幼い誓いは、胸を柔らかく締め付けた。
 ここは、遠いもう滅んだ街から夢見ていた、果てしない世界の欠片。
 見知った通りの見える屋根に降り立ったセンは、そこでようやくキサラギを降ろした。だが、何も考えられなくてぼうっとする。
 こちらを見ていたセンが、段々非常に迷惑そうな顔になっていく。
「おい」
「……うん」
 なんだろうとじっと見ていると、やがてうんざりと首を振られた。せっかく誰も見たことのないような綺麗な人間なのだから、そういう顔をしなければいいのに。
「いい加減、離せ」
 言って、目を落とす。キサラギも追っていくと、黒衣を掴んでいる手袋の手を目撃した。さて誰の手だろうと首を傾げて、ゆっくりゆっくり自覚する。掴んでいるのは、自分の手。
「う、うわああ!?」
 手を離して飛び離れる。その前に相手を突き飛ばした。
 鳴り響く心臓がうるさいのがありがたい。何を考えたのか、考えたくもない。ちがう、こいつじゃない。一緒に行くと決めたのは、この男ではないのだ。
 火照った頬に風が冷たい。すると、今更ながら上を吹き、下から吹いてくる風に身が竦んだ。高い。これをセンはキサラギを抱いて飛んできたのだ。やっぱり、この男は竜人に他ならない。
 振り返って見た、センは、よろめいて落ちたりしなかったようだが、理不尽だという顔をしている。くいっと顎を上げて何かを求めるので、顎を引いた。
「……なんだよ」
「言うことがあるだろう」
 ない、と言いかけて、思い当たったので黙り込む。
 センはかつかつと足音を立ててキサラギに近付いてくる。逃げようとすると、隅に追い詰められた。背後は何もない。一歩下がれば落ちることが分かっている。
「ほら」
「う……」
 言わなければならないのは分かる。礼儀は持っている。前にもきちんと言えたことだ。だがどうして言えないのか。
 時間が経てば経つほど、センは追い詰めてくる。一歩、一歩、かつんこつんと瓦を踏む音。このままだと、――捕まえられる、逃げられない。
「……りがとっ!」
 叩き付けるような礼の言い方だった。はっとした時には迫る足音は止まっている。顔を見られなくて逸らした。指が変に震えている。怯えている。怖がっている。
(竜に怯えるなんて)
 竜狩りとして失格だ。元はと言えば、センがキサラギを抱き上げるから。
 違う、それは責任転嫁だ。彼は危なかったところを救ってくれた。分かっているが落ち着かないのは、竜狩りとして感じてはならないものを抱いてしまいそうになるためだろう。それは意外に丁寧だった抱き上げ方だったり、見えた空だったり、呼び覚まされた思いとして、優しい記憶になろうとしている。
「……どこへ行く」
「……宿に帰るんだよ」
「…………本当に、帰るのか?」
「なんだよ、帰るなって言うのか?」
 センはやれやれと呟いて先に下りていく。足場のある場所を選んでこの場に降り立っていたらしい。用意周到、と口の中で呟いて、センが辿った足場を選んで下った。
 最後は飛び降りて地面に到着する。とんとんと爪先で地面の感触を確かめていれば、ずっと見ていたセンと視線がぶつかる。どういう顔をすればいいのか悩んだ末に、下から睨みつけることになった。
「なに」
「いいや」
 ならいいと歩き始める。祭りの人通りは絶えない。まだまだこの一日は長いのだ。
 宿に戻ると、部屋の鍵が開いていた。
「!?」
 扉が向こうから開かれ、伸びた太い手に腕を掴まれた。
 中に引き込まれる。首元で光るものは刃だ。振り返ると、センの後ろにも見知らぬ男がいた。室内に影は二つ。キサラギを掴み剣を突きつけている男と、狭い室内で寝台に腰掛けていた誰か。
「あなたがキサラギですか?」
「……そうだけど、誰」
 それは線が細く、微笑を浮かべながら目の中に凶暴な光を宿している竜狩りだった。
 マミヤ守護団。
「追っ手を振り切ったと聞いたから驚いたのですが、まさかのこのこ宿に帰ってくるとは思いませんでした」
 センを見た。あのため息はこういう意味だった。今再び彼がついたため息は、『やっぱり最後の詰めが甘い』だ。
「……で、あんたは誰?」
「私はモリヤ。マミヤ守護団暗部の者です。あなたの噂を聞いて、見極めに来ました」
 そして酷薄な笑みをこちらに向け、センに言う。
「動かないでくださいね。あなたに傷は付けられないかもしれませんが、彼女の腕を落とすことは出来ます。剣を握る、右腕をね」
 掴まれた腕がぐっと握られる。手の先が痺れてきた。血の気を失った指が白くなってきている。
 どこかキサラギに面倒を覚えているはずのセンは、その気になれば簡単に逃げられるだろう。彼の目的は黒竜であるはずで、キサラギに付き合っているのは。
(……なんで?)
 今更すぎる疑問だった。セノオの皆に頼まれたからという理由だけでは動機が弱すぎる。
 竜人が同族の竜を狩るというのは異端だ。そして人間を旅するということも。どうして気付かなかったのだろう。竜狩りのキサラギにとって禁忌なら、竜人のセンにとっても禁忌なはず。
 センはキサラギに何かを望んでいる。
 でも、来るかと聞いた、その理由をキサラギは知らない。――聞こうとしなかった。
 センは動かなかった。呆れた様子ではあったが、首を振ったのは了承の意味だ。キサラギはどうしていいのか分からず立ち尽くし、モリヤを見た。
 モリヤは嬉しそうに微笑んだ。
「あなたたちにお会いになる方がいます。ついてきてもらいましょう」

    



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