戦いを始めた二人から離れ、気配を消して移動すると、檻に向かい、格子を斬り捨てる。ようやく現れた出口に喜ぶことはなく、娘は苦悶の声を上げている。人から竜になる苦しみは個体差があるようだったが、それでも自身のすべてが変質するのだから、例外なく想像を絶する苦しみがあるのだ。
「種族関係なく恋をした、か……」
 何よりも罪深いことだ。竜と人は相容れない。求めても、手に入らないものだ。
「あなたは恋をしたんでしょう?」
 気付くと、娘が透明な瞳を向けていた。それは祈る者ではなく、祈りを受ける者、聖人の目。
「竜人。あなたの流れる血の本能で」
「黙れ」
 誰も好き好んでこんな身体を持ったわけではない。誰も本能で、結ばれない相手を望むわけではない。しかし否定の言葉を娘は聞かない。
「恋は理性でするものではないのよ。私たちは約束のように求めるの。竜は人を喰らう。竜人は人を求める。人は竜を狩り、永遠を求める――」
 それは人間としての言葉か、それとも竜人としてか。歌うように狂人は真実をそらんじる。
 それは麻薬のようにセンに思考させる。竜人は人を求める。ならば、『彼女』を求めたことは運命だったのか。今あそこに、キサラギがいることも。
 滑り込んだ悪意のようなものを振り払う。剣を構えれば、娘は微笑んだ。
「あなたは約束してしまうわ、必ず」

   *

「ああああああ!!」
 モリヤが狂った絶叫を上げる。
「マリ! マリ!!!」
 位置が遠いキサラギでも、もう息がないのが見て取れた。センが容赦しないことも分かっている。血の量がおびただしいが、それはすぐに乾いて消えていくのは、竜人の血だからだろう。
「血に触れるなよ。あの子竜どものようになる」
「え……?」
 戻ってきた男は告げる。
「先程襲いかかってきた子竜は、元は人間だ」
 キサラギは片手で顔を覆った。人間。恐らく、マミヤ守護団に反抗した者、捕らえられた者たちだろう。最高種を望んで、彼らを実験台にしていたのだ。
「行くぞ。血を保管しているようなら全て消さねばならない」
「彼は……」
 死体を前に背中を丸め、一気に年老いたようになってしまった男。何事かを呟いているが聞き取れない。呪いなのか、後悔なのか。しかし確実なのは、キサラギたちは彼の世界を奪ったことだ。
 センは一瞥もしない。その価値もないと、思っているようだった。
「人狩りはしない」
 そう言って、悪夢の部屋から出た。

「血はここにあるだけだな」
 たまたま見つけて脅しつけた案内の男がそうだと頷いたので解放し、その部屋に足を踏み入れた。凍えるように冷たい部屋。
 応援を呼ばれる前に事を済まさなければならない。センが剣を振りかぶり、研究所の道具のすべてを叩き壊し始めた。
 キサラギもまた、剣を振り回す。硝子管の割れる音が響き渡る。
「う、ああああっ!」
 こんな声は竜狩りでもあげたことがない。泣く代わりに思えた。竜が吠えるにも似て、何かを求めているようでもあった。竜の咆哮は、何かを求めている声に似ている、そう思った。
 肩を上下させ、消えていく血を見つめる。書類は火をつけた方が早かろうと顔を上げた時、センが何かを感じ取る。キサラギはしばらくしてから同じものに気付いた。煙のにおい。
「火をつけたな。あの男だろう」
 通路に出ると、やって来た咆哮から煙が流れてきている。悲鳴に聞こえる声があちこちの壁を反響して、意味の分からない音に聞かせてくる。どうやらかなり混乱しているらしい。
 すぐ側から火のにおいがしたので見れば、センが灯火を放って火をつけていた。あっという間に燃える、記録の束。
 もうすでに来たあの場所は、炎に包まれてどうしようもない――かもしれない。でも。
 キサラギはぐっと剣を握ると、煙の方向へ歩き出す。センに阻まれると、キサラギは言った。
「どこへ行く」
「助けにいかなきゃ」
 モリヤを。彼は火を放って自分だけ逃げ出すようには思えなかった。火を放ったのは、自分と彼女を同じ場所に連れていくためだと感じたのだ。それくらい、モリヤは彼女をすべてにしていた。
 だがセンは手首を握りしめた。そして、はっきりした声で事実を告げる。
「あの男は生きることを望まない。あの男のすべてはあの娘だった。お前が行っても助けられない。俺とお前があそこに行った時点で、もう結果は決まっていた」
 キサラギもそう思う。それでも、言った。
「お願いだ、行かせて。約束する。必ず戻るから」
 思いがけない力を感じた。それは繋ぎ止めようとする手であり、見つめてくる銀の瞳だった。
「約束は嫌いだ。他人の絶対などどこにもない。誓うのは己自身にだけでいい」
 キサラギは息を吸い込む。拮抗する思いが二つ。置いていってはならない二つのもの。煙の方向と、今ここにある手と。
「それでも」
 今から言うのは彼にとってきつい言葉かもしれない。だが、彼も同じことを思っているはずだった。同じ、竜を狩ろうとするセンなら。
「それでも、竜に狂わされる命があっちゃいけない」
 見開かれた目とともに手が緩んだ。キサラギは走り出す。罪悪感を振り切るように。
 人の気配はなく死者の気配もないが、煙がひどい。視界が利かず、目と鼻と喉に突き刺すような痛みを感じるが、身を低くして元の部屋を探す。
「モリヤ! モリヤ!」
 返事はない。もう、現世にはいないのだろうか。
 彼はマリを愛していた。彼女の大切な者を奪って憎悪されても、彼女が生きていればそれでいいというように、マリを見て笑っていた。その笑みで彼はすでに歪んで狂っているのが分かったけれど、彼自身の思いを推し量るのなら、彼女がそこにいるだけでよかったのだ。
 分かるのに、分かりたくない。変わってしまったもの、かつて愛したものと同じものではないものを、どうして彼らは思い続けてしまうのだろう。
 変わってしまったものは同じものではない。思い出は切り捨てなければならないと分かっている。だからキサラギは竜狩りになった。名前を捨てて、灰色竜を追う、竜狩りに。
 なのに煙の向こうにキサラギは見る。人影を。時を巻き戻したかのように。煙に巻かれる部屋。燃え盛る炎の色。竜人に恋した娘。
「モリヤ!」
 違う。ふと揺れた影は違う。モリヤでない誰かが、竜人に恋した娘の手を引いている。娘は振り返る。手に手を取り合った男女は、こちらを見て泣きそうに微笑んだ。それは、キサラギが忘れられなかった言葉と同じものを囁いた。
『分かって』
 あなたは分かるでしょうと、優しく尋ねるようだった。
 祭りは現世と異界を繋ぐ。こんな地の底なら尚更だ。異界の扉が開いている。
 男女は煙の向こうに消えていく。だめだ。認めてはいけない。
「違う!」
 許されるはずがない。悲劇しか生まないのだ。竜人と人の恋は『悲劇』だ。
 泣き声がする。耳元から、内側から、胸の奥から。
「……、……っ!」
 誰かがキサラギを掴んだ。退いた場所に天井から石が降る。もう視界が利かず、誰が自分を連れ出そうとしているか判然としない。泣き声だけが響いている。目が痛くて、胸が苦しくて、キサラギは抱き上げてくれた誰かにしがみついた。

   *

 炎から逃れる街の外、草原の上でキサラギは膝を抱えている。いつの間にかそうして座っていたのだ。向こうには赤い火と黒い煙、そして街が見える。夜に近い黄昏の中で、燃えている。
「知ってるんだよ。私たちがどんな生き物かってことくらい。だから私は人間のままでいたくない。竜にもなるもんか。私は、竜狩りだ」
 同じ道は歩まない。
 センは慰めの言葉も口にしなかった。抱き寄せてくれるはずもない。
 彼がキサラギに触れるのは、こちらが撥ね除けられるような強い意志を持っている時と、どうしようもない危機に陥った時だ。今は、ただ弱っているだけだ。だから何もしない。触れてくることを許した時、こちらが後悔して思い悩むのを知っているかのようだ。
 ふさわしく適当な距離。キサラギは旅をする時望んだもの。何かあれば狩る。だがその時が来なければいいと。
 だからこれは望んだものなのだと、膝に顔を埋めて身を小さくする。
 それをセンはただ見下ろしているだけだった。

    



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