部屋は埃や土や蜘蛛の巣で真っ白、空気は澱んでいたが、センが順に窓を開けていけば吹き込む風が巡って少しだけ涼しく爽やかになった。
 会話を思い起こせば、この郷の人々が、人から竜に変じて暴走する者を失竜人、彼ら自身のような竜人を正竜人と区別しているような気がした。そこから考えると、黒竜は失竜人、姉も失竜人となる。
 気になる言葉が一つ。
「人になる夢……」
 捨てた方がずっといい、竜人は竜人として生きるべき。そう郷の竜人が言った。竜人のセンが、竜人と思われたキサラギを連れてきたことで。つまりセンは、人間と一緒にいた過去があるのだ。
「竜人が、人を襲うのは」
 竜に変じて人を襲うとされているが。
「人を食べるためじゃない……」
 竜が人を食べても、竜人は人を食べない。それは、ずっと行動を共にしてきたセンから分かる。センはキサラギを食物として見たことはない、なかったはずだ。
 センは「人だと気付かれるな」と言った。センが何といって注意したか、思い出せない。だが竜人が人間を襲う理由は他にあるのだ。竜人の血が人間を竜に変えることと同じ、知られていない秘密が。
 イサイは、竜人は人間の血を求めると言った。
「こんがらがってきた……」
 頭を掻きむしりたくなる。だが抱えるだけに留めておいた。考えることは苦手だ、身体を動かす方がずっといい。
 竜人が人間を襲うのは、人間の血を求めるから。
 人間の血に、何があるのか。
「数年放っておくとここまでひどくなるのか」
 家中を開いてきたセンが戻ってくる。掃除くらい頼めばよかったと非常に鬱陶しそうに手を払うので、思わず言っていた。
「掃除、しようか」
 返ってきたのは胡乱そうな目だ。
「出来るのか、お前」
「馬鹿にすんな! 自分の家を誰が掃除すると思ってる」
 とても信じられないといった顔つきで思案していたセンは、結局風に白いものが舞うのが耐えられなかったのだろう。
「台所に道具、裏に井戸がある」
 それから、と続くのは強い口調だった。
「必要以上に出掛けるな。必要にかられなければ俺がいない時には外出しないくらいに。誘われてもここにいろと言われたからと断れ」
 キサラギも、竜人に人間が襲われる理由を考えていたために素直に頷く。
 センもまた頷くと家を出て行く。その背中に声をかけた。
「ねえ。なんで私をここに連れてきたんだ?」
「知りたかったんだろう、答えを」
「でも、あんたは、教えてくれない」
「訊かれていないからな」
「訊けば、教えてくれるのか」
 センが振り返る。その瞳に答えを知る。
「……自分で考えろって、いつもあんたは態度に出してる。私に協力はしてくれるけど、提案はしない。間違ってても、正しくても、私の考えたことに手は貸してくれるけれど、正答は絶対に教えてくれない」
 正答があるかどうかも教えてくれないのだ。見つけさせるために、センは自分をここに連れてきた。この場所に、答えがある。
「そう思うなら、答えを探せ。出した答えを俺は見る」
「見るだけ? 何のために」
 センはその瞬間、懐かしいものを思い浮かべたように瞬きをした。だがすぐに分からなくなる。もう前を向いてしまったからだ。
「……俺もまた、答えを得るために」
 小さな言葉だけを残して、センは出て行った。

   *

 他の竜人の住居から離れた場所に、彼女の家はある。打ち捨てられた家々の残骸を踏み、気配は濃くなっていく。人間の、ではなく、竜でもない、何か暗闇に引きずり込もうとするようなもののだ。
 その建物は他のものとは一線を画した、王国地方建築の館だ。三階建てで、先の尖った塔が立ち並ぶ。彫刻まで過剰で豪奢だ。住人である彼女によると、王国地方の辺境領主の所有物だったらしいが、キズ山脈への竜の飛来によって捨てられることになったという。以後、竜人の郷のまとめ役がここを住居としてきた。
 扉を開けると、甘い芳香が土のにおいのする風と混じった。においに温度があるとしたら、甘い香りは高温で、土の匂いは水を含んでいるため低温だろう。生温い館に足を踏み入れ、中央の階段を上り、一室を目指す。いくつも部屋はあるが、彼女の部屋は知っている。扉は開いていた。
「待ってたわ」
 白い腕が招く。甘い香りが一層強くなった。
「セン。私の小さな竜。私を放っていくなんて」
 ちくりと刺すような駆け引きは、彼女が好むものだった。
 ミサト。養母と呼ぶには彼女は若く、また、長く生きているはずだった。正確な年齢は知らない。拾われた時、すでに彼女はここに住んでいた。
「あなたは外に出るのが嫌いだろう、ミサト」
 ミサトは緩く目を細めた。
「ええ、嫌い。目を逸らしている夢を突きつけられるから。外には人間が溢れてるわ。私たちが求める形がね」
 ねえ。囁かれる。絡めとるように腕が伸ばされ、反り返った喉がくつくつと鳴った。
「私の血は美味しかった?」
 黙っていた。女は指を顔に這わせて。
「……昔は『分からない』くらいは答えてたのに。かわいげがなくなったわね」
 長い爪がきっと立てられた。頬に鋭い痛みが走ったが、痛いと口にすることはない。言えばもっと楽しげに、もっと鋭いもので突かれるのが分かっているからだ。
「あなた、どうして狂わないの。あたしが憎いんでしょう。あなたを人間じゃなくした、あたしが」
「あなたを憎んだことはない。あなたに、責任はない」
 センは心からそう告げる。あれは不幸な事故だった。そして言うなればミサトは救済者なのだ。冷たい雨の降る、世界の終わりのような暗闇の中。光のように滴るそれに手を伸ばした。
 それらはもう記憶には遠い。生まれたときを覚えていないように。
「死にかけたところをあなたに繋げてもらった。だから恨んでいない」
「嘘。だったらどうして人間の娘なんかに恋慕したの。人間に戻りたかったんでしょう。でもランカはあなたと永遠を生きたいと願った。ランカ。病弱で、愚かな女だわ。こんなはずじゃなかったと思ったでしょうね、あの、黒い竜は」
 竜よりもたちの悪い生き物のように、執拗に。ミサトは棘のある言葉を選んでセンに向ける。否応なく記憶を揺さぶられ、センは表情を浮かべた。眉が寄ったのか、苦しかったからだ。思い出すことがずっと少なくなっていたと、気付かされて。
 今側にいるのはランカではないから。
「……俺が間違っていた。人間は人間のままで生きるべきだ。竜人は、竜人として」
「そうして作られたのがこの村。でもね、きっかけさえあれば崩壊は簡単なのよ。知ってる? 毎日ね、誰かから血のにおいがするのよ。どこかで人間を襲っているのなんて分かってるんだから」
 羨望の吐息が漏れた。
「みんな、限りある生に焦がれて焦がれて……竜人が人間を求めるのは性だわ。神が与えた本能よ。竜人は、神に許されない」
 竜でもなく、人でもない。竜にもなれ人の姿もとれると、人間は、竜だと竜人を示す。だが、彼女たちは竜人という生き物なのだ。
「あの子は本当に竜人?」
 覚悟していた質問に、冷静に「何故」と返す。向けられたのは艶やかな笑顔。
「別に? 不思議じゃないのよ、あなたが竜人の娘を連れてきても。ランカで懲りたでしょうしね。でも、人間なら、あなたは何をしようとしているの?」
 髪をいじられ、引かれながら、心の内で答える。先程キサラギに返した言葉を。
 答えを得るために。憎しみを抱いてきた者の、行く末を知りたいと願って。

    



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