言われた通り必要以上外には出ず、家の中と裏の井戸を行き来するだけでも、竜人たちが声をかけてくる。だが軽く挨拶するに留めて家の中に引っ込むようにした。竜人たちの領域でもし人間がいると知られたら、どうなるか分からないという危機感は持っていたのだ。
 幸い、家の中ですることは山ほどあった。何年分なのだろうという埃などを部屋の隅々から掻き出すだけでも時間が過ぎた。すべての部屋を掃き終えると、箒を床に突き立てるようにして一息つく。
 竜人の郷、竜の住処。思えば竜狩りの血がどくどくと脈打つ。センは珍しく無防備だった。キサラギが、竜狩りたちにこの場所のことを教えたらどうするつもりだろう。
(人間が竜の血に触れると失竜人になる。自我をなくし竜として暴走する)
 では何故キサラギを正竜人と判断したのだろう。においで人間と分かりそうなものだが、彼らは最初からキサラギが竜人であると信じ切っている様子だった。竜人の郷に人間が現れることはないという先入観もあるかもしれないが、判断の理由が分からない。
(竜人ってどうやって生まれるんだ……?)
 竜人の血によって竜になったもの。これは竜、あるいは失竜人。
 では正竜人と呼ばれる者は何なのか。
 キサラギは次の瞬間石ころを投げている。威嚇のためだったので窓の桟に当たって飛んでいった。攻撃されたことに硬直するそれを見て、キサラギは驚愕に立ち尽くす。それは、おずおずと笑いかけてきた。
(子ども……!?)
「おねえちゃん、花嫁さん?」
「え……?」
 花嫁、という単語が何かを引き出しかける。
「君、……君も、竜人?」
「そう! 正竜人だよ! おねえちゃんとおんなじ」
「……正竜人って言い方、あんまり知らないんだ。……どういう、意味?」
 無邪気なつもりで笑顔を浮かべて慎重に問いかければ、子どもはにっこりした。
「えーっと、えっと、正竜人っていうのが、竜人から生まれた竜人なの。花嫁さんとお婿さんがいるの! でね! で、失竜人は、えっと、竜人になれなった人間? のことなの。失敗なの」
 竜人は、竜人を生む。
 当然の営みだった。男女がいればそこには生活がある。結婚し子を成す。竜人同士が結婚すれば、生まれてくるのは竜人だ。
 竜は竜だと思い込んでいた。しかし竜人は竜ではない。竜人という、種族なのだ。
 なら人間と竜と竜人の図式は世界が決めたことなのか。
 けどねえけどねえ、と子どもは窓の向こうから手を伸ばしてばたつく。
「けどねえ、竜人になれる人間が時々いるんだって。センがそうだよ」
 すごいねえと無邪気に同意を求める声が、遠くなっていった。キサラギはゆるゆると床に目を落とし、やがて宙を見る。そこには埃っぽい天井が見えるだけだったが、やがて、衝撃が降ってきた。持っていた箒が手を離れる。代わりに、両手は顔に覆いをかけた。
「センが、元は人間……?」
「ミサトがセンを竜人にしたんだよ。でもセンは失敗したの。ランカは失竜人になっちゃった」
「ランカ……」
 狩れなかった、彼の罪。
「黒竜」
「そう! でもねえ、見たことないの。わたしが生まれる前にどっか行っちゃった」
 子どもは喋る。どれほどそれが人間にとって霹靂な真実か知らずに。
「竜人は、人間の血が欲しくなっちゃうんだって。願い事が叶うんだよ! 失竜人は竜に近いから人間を食べちゃうんだけど、竜人は違うの。願い事ねえ、私ねえ、お嫁さんになりたいの! なれるかなあ?」
 竜の宝。竜にとっての宝は。
 全身の血が凍えるようだった。
(人間の血)
「おねえちゃん?」
 びくっとして子どもを見る。
「おねえちゃん、人間、見たことある?」
 瞳が縦に長くなっている。それは竜種の瞳だった。子どもであるために隠しきれないのだろう。この子は、竜人なのだ。
「ある?」
 低い問いかけに聞こえたのは錯覚だろうか。嫌な汗をかきながら、目を閉じて、ゆっくりと頷く。
「……ある、よ」
「願い事叶った?」
「……ううん。人間の血に、触ったことないから」
 ぱっと子どもが笑った。
「なあんだ、そっか!」
 くるりと身を翻すと駆けていく。強い力で留められていたような空気が弛緩し、キサラギはどっと流れた汗を拭った。あんな小さな子どもでも、魔力のようなものを持っているのだと身をもって知った。
「……セン」
 ここにいない男の名を呼ぶ。キサラギの仮説は正しかった。少しずつ式を繋いでいく。
 竜人は人間を求めるのだ。『願い』を叶えるために。その願いが何なのか知れないが、しかし竜人は人間の血で願いを叶えようとするのだ。
 そして、失竜人が人間の血を得ても願いは叶えられないのだろう。黒竜は、他の人間も襲い、キサラギの血にも触れたことがあるはずだ。願いが叶えられるのは、正竜人。
 では、センは?
 ふと、服の下の胸元にある三角の花を意識する。これはきっとセンのものではない。竜人が、竜から身を守るための護符を下げることはないはずだ。だから、これは恐らく、人間のもの。黒い竜となった女性のものだった。
(センは願いを叶えたいんだろうか)
 黒竜を追う目的もある。自分が竜に変えてしまったランカという女性を狩ること。贖罪。
 だが願いを叶えたい、そのためにキサラギと旅をしてきたのなら。
「…………」
「キサラギさん?」
 顔を上げると、先程の子どもを抱いた母親らしき女性が、笑っていた。
「よろしかったら夕食を一緒にいかがですか? 食料、準備できていないでしょう?」
「あ……」
 母親の笑顔は優しく、子どもの表情は期待に満ちている。
 彼らは竜人。なのに、その表情は人と変わらない。
「……センが、今出てるんです。帰ってから、訊いてみます」
「ああ、ミサトのところね。ミサトは私たちのまとめ役なんだけど、一人が好きな人なのよ。でもセンだけ側に置いて……あっ、ああ、大丈夫、普通の育ての恩人ってだけよ、センには!」
 慌てた様子で付け加えるのに、笑ってしまった。そういう関係じゃないのになあと心の中で呟きながら、聞こえてきた声を、切り刻んで封じ込める。どういう関係かなんて、考える必要はない。

    



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