準備にふた月を費やした黒竜討伐作戦は、セノオの竜狩りの歴史にかつてないほどの人数を動員させて開始されようとしていた。
 夜が明ける前の空は闇が濃い。かがり火が揺らめくのは竜狩りたちが慌ただしく動き回るせいだろうと思うほど、未明の街はざわめきに満ち、住民たちは男女関係なく忙しく立ち働いて、支度に余念がない。
 キサラギはいつも通りの時間に眠り、起床を早くして準備を整えると、ハガミの指示を受けてあちこちを見回っている。別れを惜しむ者たちは前日に与えられた時間を過ごした後、一旦集まり始めていた。本部でいつもより多くの竜狩りとすれ違い、奇妙なほど朗らかな挨拶の声をかけられ、キサラギも少しだけ肩に緊張を乗せていた。
 目標の黒竜は南西のノグ山をねぐらにして、周辺の村人や家畜を襲っているという。家畜というのが羊や山羊などではなく、牛や馬だというからその巨大さが知れる。
 呼ばれて立ち止まる。巨体が胸を張るため、キサラギは見上げなければならない。
「部隊長。なに?」
「ガキどもの様子に注意しといてくれ。なぁんかいやな予感が抜けなくてなあ」
 不安そうに顎を撫でながら言われ、キサラギも眉を寄せた。ガキども、が指すのはエンヤやその周辺の青年たちだろう。だがさすがに彼らも竜狩り、訓練を受けてきた者たちだから度が過ぎるようなことはない、と思うのだが。
 しかし、その竜がただの竜でないとしたら、どうだろう。
「なんだ、お前もかなり不安そうだな」
「ううん。なんでもない」
 そう答えたのにがっちり首を締め上げられた。ぐえっとえづく。
「小さな推測もすかさず報告! それがいい副隊長ってもんだろ」
「分かった! 分かったから!」
 ようやく離されてぜえぜえ荒い呼吸を繰り返した。この人は時々、キサラギの性別を忘れている。それでいいと思う時もあるし、今のように不満に思うこともある現金なキサラギだったが、しかしそのごつい身体がどれくらいの力を発揮するか知っておいた方がいいと思う。
「ほら、話せ」
 渋々口を開く。
 この数年、竜狩りたちが賞金首と揶揄を込めて呼ぶような大物。翼を持って飛翔し、巨大で、現れれば目につきやすい黒竜が、何故長い間狩られずにいるのか。
 それは、黒竜が竜種ではなく、別の種類であるからではないのか。
「別ぅ?」
 そういう不審そうな声が返ってくるから言わないでおこうと思ったのに、とキサラギは恨みがましく巨体を見上げた。不機嫌になったのを悟り、いや、とハガミは顎に手を置く。
「確かに、理屈屋の竜狩りからそういう話は聞いたことあるが」
「理屈屋って……。私がどれのこと言ってるか分かってる?」
「分かってる。『竜人』だろ」
 他人の口からその言葉が出た瞬間、ぞっと背筋が凍った。一瞬暗くなった視界を、瞬きすることで光を集めて元に戻す。未だ、慣れない。
「竜人なあ。確かに巨大竜は竜人だって言うがなぁ。でも竜人も竜には変わりねえし、同じように家畜と人間を襲うから、竜人は竜だと思うんだが」
 竜人。竜と人どちらにも姿を変じることのできるという、異種族だ。竜人の存在は肉食竜が姿を現した頃から伝わっており、竜狩りの間ではひとつの伝承のように囁かれている。曰く、巨大竜はどれも竜人であるという。
 そしてその血は竜と同じように触れてはならず、触れれば呪いがある、と伝わるが、確認されたことはない。
 しかし、キサラギはぐっと拳を握りしめる。
(私は知っている――)
「キサラギ?」
 肩に手を置かれて意識が引き戻される。目の前の厳つい顔にため息が出た。氷のような芯が消える。
「なんだよ、俺の顔に何かあんのか」
「ううん。……いつもの顔だと思って安心しただけ」
 ここは故郷ではない。だからこの世界が夢で、目が覚めれば失われるということはないのだ。
 故郷がなくなって十二年間、セノオで生きてきた。がむしゃらに力を得ようとした子ども時代は終わる。もう大人になってもいい頃だ。今回の黒竜を討伐できれば、キサラギは灰色竜を追えると確信できる。
「頑張ろうね」
「おう。張り切りすぎて怪我すんなよ。イサイとユキが泣くぞ」
「ユキはともかく長は泣かないよ。そもそもあの人泣くの?」
 笑って肩をすくめると、彼は不思議そうな顔になる。
「覚えてないのか?」
「うん? 私の前で泣いたことないよ?」
 むしろ笑顔のまま「もう一度」を五十回くらい繰り返したりとか。
 聞こえたのは何故か歯切れの悪い返事だった。頷いているようにも見えるが、まるではっきりした返事をすると何かあるような誤摩化し方だ。顔色が少し悪い気もする。口を開こうとすると、大きな手のひらが突き出された。
「いや、うん、これが終わったら成人だな?」
「え、ああ、無事に終わったらね」
「そうしたら、やっぱり灰色竜を追うのか」
 頷く前に答えを知っているはずだった。ずっと昔から、セノオの竜狩りたちはそれを知っているのだから。微笑するに留めたキサラギは、しみじみとした声で願われる。
「終わったら帰ってこいよ」
「無事に成人になるかも分からないのに、そんなこと言われても分かんないよ」
 彼もまた、少しだけ哀愁を滲ませて微笑んだ。どうして、誰も彼もキサラギが灰色竜を追うことに、こんな顔をするのだろう。誰も未来のことなんて分からないのに、まるで悲しい結末を迎えるような顔は心外だった。こうして、頭を撫でられることも。
「ユキのところ、行ってくる」
 逃げるように走り出した。
 物見塔に近付けば近付くほど人は少なくなり静かになるが、騒がしさの片鱗はここに届いていた。外側の街の光がこうこうと灯っている中、人が行き交っているのが見えるのだ。朝方の暗闇が少しだけ冷たくて、キサラギは少しだけ安心する自分を知る。炎の明るさはまだ少し、苦手のようだ。
 ユキに取り次いでもらうと彼女は目を覚ましていた。夜は目が冴えてしまうのだと昔から言っていたが、変わらないままらしかった。
「行くの?」
「うん。お土産話楽しみにしてて」
 竜を狩る。人間の敵、目の当たりにしても憎悪しか抱けない生き物を。
 抱きしめたユキは小さくて細くて、髪が柔らかくて優しい香りがする。大丈夫、まだここにいる。ユキは突然消えたりしない。――あの人みたいに。
「キサラギ、くるしい」
 驚いて離す。自分の手が痺れるくらい力を込めていた。
「ご、ごめん!」
「ううん。キサラギったら甘えん坊さんね」
 穏やかに笑うユキに、キサラギは身体を小さくする。今のはまるで子どもみたいだった。こんな心が弱ってしまっては、黒竜に立ち向かえない。キサラギの目指す竜狩りは、逸らさず前を見据え、しなやかな身体と心を持ちながら守るべきものを忘れない、強い人間だ。脳裏をよぎった失われた立ち姿は、強く目を閉じることで気付かないふりをする。
 深呼吸する。頷いて、心を強く。そうして言った。
「いってきます。またね」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 もう一度抱き合って家を出た後は、灯火の中へ向かうだけだ。
 そのさきにいる、灰色竜を追うために。
 広場には指揮官に待機を命じられた部隊が五つ。セノオの主力をほぼ投入した形となる。総勢を見て思うのはかなりの任務であること、そしてセノオの竜狩りとしての面子をかけた非常に重い意味を含んだものであることだった。
 今生の別とならぬよう祈る者たちの中には、キサラギの知る幼馴染みの少女たちの姿もあり、夫や、恋人に願いを託している。生きて帰れるように。
 その光景を通り過ぎると、不意に「キサラギ!」と声がかかった。引っ張られるように足を止めると、幼馴染みは夫と抱き合っていた。なのに自分を呼んだことがくすぐったくて、ひらりと手を振るだけにして立ち去る。
 やがて出発の号令がかかり、セノオの竜狩り部隊は進軍を開始する。すると、急に寂しさが込み上げてきた。
 竜狩りとなる者に言い聞かせられる最初の言葉は「生きて帰れ」だった。どんな任務でも無事は保証されていない。だがそのために、生きて帰れ、死体を持って帰らせるな、ときつく願うのだった。実際に竜の牙にかかってしまう者は多く、後悔のないように生きる者、後悔の種すら作らない者と竜狩りは二種に分かれることが多かった。
 竜狩りの一員として調教された馬上で、キサラギは剣を抜いて掲げる。刃のきらめきが星の光を落としたかのようで、見ている人々に生きて戻ることを約束する輝きが見えるように願った。
 賛同するように次々と竜狩りたちが剣を上げ、声を上げた。彼女らの贈った守りの護符を握りしめる者もあった。それらに向けて祈りの手が組み合わされる。誰も彼も、生きて帰ることを望んでいた。

    



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