疲弊しきったエジェの身体が、キサラギの攻勢に負けて足から崩れた。歓声と悲鳴と怒声が混沌とし、キサラギたちに降りかかる。エジェの萎えた足はぶるぶると震え、顔色は今にも吐き戻しそうなほど白くなっていた。そして、生を望む瞳は、未だ強くはあったものの、キサラギの姿を映し、覚悟に変わりつつあった。
「……俺の、負けだ。ざまはない。復讐のために来て、貴族どものおもちゃにされた挙句に殺されるなんてな」
「エジェ」
「さっさとやれ。何をためらってるか知らねえが、弱者を哀れむのは止めろ。それでは、今度はお前が殺される」
 そうなれ、と言わんばかりの嘲笑だった。
 キサラギは尋ねた。
「エジェ。あなたは生きたい? どんなことをしても、生き延びたいと思う?」
 エジェの目は、キサラギを通して別のものに向けられる。
「…………」
「目的を果たすためなら、どんなことをしてもいいと思える?」
「殺せ!」
「早く、やってしまえぇっ!」
「殺せ、殺せ! 殺せ!」
 周囲は沸く。勝手に。自身の興奮を満足させたいという欲望のままに。
 やがて、絞り出すような肯定が聞こえた。
「……ああ。どんな手を使っても、例えお前を殺しても、俺は生きて、あの女どもを斬り殺してやりたい」
 キサラギは剣を構える。
 視界の端で、エルザリートが視線を注いでいるのが感じられる。
 囁いた。
「だったら、エジェ・ロリアール。汚名を啜っても、あなたは生きるんだ。掴める物が、どんなものであってもしがみつけ」
 ――それがあなたの望むものでなかったとしても。
 キサラギの剣は、まっすぐに男の首を狙う。
 観客の熱狂が、歓声に変わる。
 その時だった。

「――そこまで……っ!」

 凛とした、澄んだ一声は、色をつけるとしたら少しだけ青い。
 キサラギの剣はエジェの首を前に静止し、エジェの手は、どこに隠し持っていたのか研いだらしい金物の匙で、キサラギの装備の隙間である膝と脛の間を狙っていた。
 ここに来てなお、エジェはキサラギに報いることを選んだ。
 だから、彼女は動いたのだ。
 すべての視線が、貴賓席にあった少女に注がれる。
 白い顔をしたエルザリートが、キサラギとエジェを見下ろしていた。
 だが、そのまま黙り込んでしまったので、人々が不審がり、ざわめきが広がっていく。彼女自身、どのように切り出していいのか分からないのだろう。これまで、こんな風に自分の力を使ったことがないから。
 隣にいるオーギュストが、エルザリートを見ている。多分、これまで見たこともないような冷たく凍れる眼差しだ。
(負けるな、エルザ!)
 そのキサラギの心の叫びに応じるように、エルザリートがきっと顔を上げた。不満と疑いの聴衆を睨み据え、声を張り上げる。
「この試合、見るに耐えぬものであることは、各々方、ご覧のとおりでしょう。わたくしの騎士は強く、対戦相手とは、比べ物にならない力量です。この戦いは、わたくしの命を狙った者へ、相応の罰を下すものだったはずですが、これでは罰になりません」
 一声が聴衆を打つ。
「首を落とすだけでは、ぬるい」
 続けられた声は力強く、晴れた空に響き渡った。
「よって、わたくしは、わたくしの考える相応の罰をその男に与えます。エジェ・ロリアール。お前を、わたくしの騎士に任命します。命を狙った者に命を救われるという汚名を被り、生きなさい。それが、わたくしの裁きです」
 ぞおっ、と闘技場が揺れた。エルザリートの振る舞いが、恩情なのか厳罰なのか判断がつかないからだろう。高貴な少女が、気まぐれに命を拾った、酔狂な、と思っている者もいるはずだ。
 けれど、キサラギは知っている。何故なら、ずっとそれを待っていたからだ。
 この試合はエルザリートのためのものだ。彼女の進退を決めるためにキサラギが戦っている。だから、彼女が望むなら、キサラギは剣を収めることもできるし、エジェの命を救うことだってできる。
 それでもエルザリートがそれをしないでいたのは、傍らにいるオーギュストのことや、自分の立場、そして行動することによって背負うものを考えてのことだろう。今回の場合、エルザリートはエジェを騎士にすることによって、憎悪される相手を側に置かなければならないという危険を負うことになる。彼女はそこまで決意して、立ち上がり、声を放ったのだ。
「服従なら栄光を。それ以外には死を。お前に与えましょう」
 傲慢に選択肢を投げ出すその姿は誰よりも眩しく美しい。
 キサラギは目を細め、笑みを浮かべた。
「……お前、もしかして、これを狙っていたのか?」
 エジェの顔色は屈辱に、白く青く赤くと落ち着きなく変化している。キサラギは、太陽の光を受けて睥睨する少女を見ながら、彼に言った。
「何をしても生きたいと思うのなら、もう、答えは決まってるよね」
 何度も尋ねた。覚悟はあるのかと。
 エジェが、ゆっくりと力を失って、武器を下ろす。背負っていたものを突如削がれたような呆然とした様子で、エルザリートを仰いだ。
 その時、いずこからか悲鳴が上がる。異変を感じて、キサラギがとっさに見たのは頭上だった。ひさしになった屋根から、何かがぼとぼとと落下してくる。それは観客席に落ち、のたうつと、席をまたぎ壁を越えて、試合場に降りてきた。
 ――キシャアッ!
 異形の群れを前に悲鳴が上がる。蛙と蜥蜴を混ぜ合わせて、醜悪なところだけを取り出し、気色の悪い突起やいぼを持たせて、土と生き物の生臭さを合わせると、こういう生き物になる。三匹、四匹と集まってくるそれらを前に、キサラギは思わず笑い出しそうになっていた。
 剣を振り、構える。
「なんだ、これは!?」
「戦う体力がないなら下がってて。絶対に傷を作ったり、こいつらの血に触ったりしないで」
 飛びかかってきた一匹を横薙ぎにする。鋭く研がれた刃は、空気を切る軽さでそれを真っ二つに分けた。どす黒い血が飛び散り、分かれた肉片が飛び跳ねて動かなくなる。
 キサラギは、深く息を吐いた。
「やっぱり、私にはこっちの方が合ってるなあ……」
「キサラギ!」
 エルザリートが、ヴォルスに促されながらも逃げる合間に遠くから呼んでくる。
「大丈夫! 私は慣れてるから! 早く逃げて!」
 叫び返す声もつい笑ってしまう。その隙に迫ってきたものを軽く切り捨てながら、キサラギはエジェを背後に庇う。
「ほら、あなたもさっさと立ちな。『私たち』の流儀じゃあ、戦う意思のないやつは餌にするしかないんだからね」
「……『私たち』?」
 お前は誰だ、という響きがそこにはあった。
 獲物と向かい合っていたキサラギの右耳に、金の耳飾りが光る。
「私はセノオの竜狩り。名を、キサラギ」
 地を踏み、剣を手に、名乗りを上げる。
 心を研げ。意識を澄まし、広げていくのだ。生きていくために戦う私たちは、何よりも己の体と魂を活かさなければならない。
 竜の群れは、キサラギを目指して、粘ついた唾液をこぼしながら口を開けた。
「私がどうしてあなたを殺さないのかってずっと疑問に思ってたと思うけど――……竜狩りはね、人狩りなんてしないんだ」
 小竜どもが次々と鳴き始めた。
 来い! とキサラギは叫ぶ。それを皮切りに、竜が一斉に飛びかかった。


 積荷が、竜だったとしたら、どうだ?
 龍王子に一泡吹かせてやりたい、と言った彼らに、しばらく時間を置き、キサラギは答えた。
「……協力は、できない。でも、きっかけなら、あげられると思う」
 キサラギはエルザリートに抱えられている身だ。味方もいない、自分を守ることで精一杯である今の状況で、オーギュストや龍王家に反旗を翻すのは無謀だった。相手がどれだけ巨大で強大かも知らないのだから。
 だが、このままではキサラギは、この男たちに口封じに殺されるだろう。キサラギがオーギュストに情報を持っていけば、彼らの身が危うくなるからだ。
 そして、正直に自分の心を明かすならば、オーギュストの目にものを見せてやりたい、という気持ちは確かにあった。
「私は、その積荷を廃棄したい。その手助けをしてくれるんなら、王子の目をこちらに引きつけておいてあげる」
 オーギュストはキサラギを量っている。エルザリートの側に置くに値するか。キサラギ自身が、彼らに対して服従するか反抗するか。試合をしろと命じたのも、キサラギがどう動くかを知りたかったから。そして今、一人で街に降りることを許されているのもそうだと、分かっている。
 だから、多分、この一回は許されるはずだ、と直感があった。
(あの人には敵が多いんだ。エルザリートも似たような状況なんだろう)
 彼らの味方になるべきだろうか?
 考えたが、そのときよぎったのは、エルザリートの虚ろな姿だった。
 ――あのままでは、死んでしまう。
 殺されてしまう。世界に。他者に。自分自身に。
 少なくとも、キサラギは彼女の味方にはなりたいと思う。手を伸ばして、顔を上げさせて、前を向いてほしいと願ってしまう。
(私も、少しだけ、エルザを試してみようか……?)
 キサラギは、恐らく近日中に、自分とエルザリートを襲った男が戦わせられることを教えた。龍王子の息がかかった処刑試合に、反王子派の彼らは嫌悪を露わにした。キサラギが続けて、恐らくその試合にはオーギュストも観覧するだろうと言うと、彼らはそうだろうと頷いた。エルザリートへの溺愛は有名らしい。
 そして、もし船を襲撃するなら、ある準備をしてほしい、と依頼した。
「準備?」
「動物の血を用意して、それを、船から試合が行われる場所に向かって撒いてほしい。目印を、道筋をつけるように」
 その後の混乱は自分が引き受ける、とキサラギは言った。


 そしてキサラギは、防具の裏側に縫い付けていた、血糊で汚れた布をちぎり捨てた。血の匂いに惹かれて数匹がそれに飛びかかったところを串刺していく。生き物の血に引きつけられるのは竜の特性だ。港からここへ血で道筋をつけてくれと頼んでいたが、どうか途中で街の人間を襲っていないようにと祈った。
 そんな身勝手な祈りを唱えようにも、竜は己の本能のままに動く。片端から切り、最後の一匹の頭を貫いた。

    



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