キサラギを迎えに来るのは、だいたいルイズだ。
 彼女に呼び出され、彼女の騎士が全員集合した。そして、彼女は言った。
「首都に戻ることになったわ」

 ルブリネルク龍王国首都ルブルス。王国地方の中央部に位置するのだと、ヴォルスに地図を見せてもらった。このマイセン公領からは、街道を通っていけば、二日ほどで到着するのだそうだ。広い草原を抜け、途中、大きな街が一つあるらしい。
 旅か、とキサラギの心は躍った。
(どんな風景が見られるだろう)
 草原から王国地方へ渡った時は船旅で、しかも行動が制限されていた。マイセンに到着してからも自由はないに等しい。だから、これが初めて見る王国地方の景色ということになる。
 出発は一週間後だと告げられ、キサラギは手早く荷物をまとめた。私物など、武器や装備以外に持っていないので、あっという間に終わってしまったが、エルザリートはもちろん、ヴォルスたちもそうはいかなかったらしい。キサラギは、エルザリートの支度を手伝うことになった。
 しかし、動き回っているのは屋敷の使用人の女性たちで、本人は優雅にお茶を飲みながら、時折この品を荷物にするのかどうかという質問に答えを返すだけだ。
「ああ、もういいわ。お前たちで適当になさい。しばらく入ってこないで」
 あまりにも頻繁に人の出入りがあったのが、相当気に食わなかったらしい。ぴしゃりと言ってのけると追いやってしまう。そうして、キサラギには「お座りなさいな」と向かいの椅子を示した。
「護衛をおろそかにしちゃ、意味ないよ」
「騎士は増えたし、今はお兄様の騎士もいるわ。少しくらい大丈夫よ。それとも、わたくしのお茶が飲めないの」
 酒飲みみたいな絡み方をするなあ、と苦笑しながら応じた。手ずから淹れてもらったお茶を一口飲み、目を見張る。
「甘い! 美味しい!」
「西の方のお茶よ。上手く熟成させると甘みが増すの。これは十年もの」
「それにいいにおい。香ばしくって、でも花の香りがする。お菓子みたいな」
「お茶だけだと淡白だから、わたくしは春薔薇を混ぜるの。ふうん、あなた、なかなか味がわかるじゃないの」
 皮肉っぽい微笑を浮かべて言う。それを聞きながら、薔薇のお茶は、エルザリートによく似合うな、と思った。本当に、見た目も、高慢なしゃべり方も、華やかな花のような女の子なのだ。
「何か話したいことがあったんじゃないの?」
 エルザリートの鼻の頭に皺が寄る。
「あなたの、そういうところが嫌いだわ」
 ごめんね。言って笑い、茶椀を置く。見つめたエルザリートは、以前と違って少しだけ明るい光をまとっていた。それでも、雲の晴れ間、程度の淡いものだったけれど。
 エリザリートは少し目を伏せた。
「……先日の剣闘試合、よくやったわ。実際にどのくらい戦えるか分からなかったからどうなるものかと思ったけれど、ああいうことに慣れているのね」
「二度とやりたいとは思わないけどね」
 笑って言うと、棘を感じたエルザリートは少しだけ笑っていた。それはこの先避けられないとキサラギは分かっていたし、そのつもりで言ったと彼女も分かったのだ。
「でも、戦うことは本当に必要? 私は、殺し合いで何かを決めるのは、間違っていると思う」
 雲が途切れ、再び流れてきたのが分かるほど、長い沈黙があった。
 深いため息が吐き出された。
「それを主張するのは危険だと、分かっているんでしょうね?」
「言わなきゃ、受け入れたと思われる。それは嫌だ」
「けれどこれから、わたくしたちは首都に行く。剣闘は、一度や二度では済まないわ」
「私は竜狩りだから、人狩りはしない」
 エルザリートは少し後ろに身を引いた。
「……相手を殺さずに勝とうというの?」
 達成できる可能性は低い、と思う。
 相手がエジェのように何としても勝利を、と望むのなら足掻くだろう。その時、その意思を奪わなければならない。ただ傷つけるよりもずっと嫌な方法で、キサラギは相手の強い心を奪わなくてはならない。
「……必要なんだ。私が、人殺しじゃなく、竜狩りを名乗るために」
 誇りと魂を守るために。
 見つめ合う。エルザリートの青い瞳の中には、悲しみと疑いと、わずかなきらめきが揺れる。
「だからといって、自分の思い通りに人が動くのだとは、思わないことね」
 キサラギは首を振る。
「そうなってほしいとは思ったけど、思い通りにしたかったわけじゃない。選んだのはエルザやエジェだ。私は、エルザがエジェを許せばいいと思ったけど、騎士にするとは思わなかったよ」
 他の者たちにも言われたわ、とエルザリートは嘲るように言って自分の唇をなぞった。
「自分の命を狙った者を抱え込まなくても、とね。けれど、ただ許すだけでは意味がないわ。だって、わたくしは許されてはいないもの」
 彼女はエジェの兄を騎士として抱えていたことがあり、その騎士は剣闘で死んだという。
 それ以上のことは、誰も話してくれない。エジェは自分が聞いたものがすべてだと言って、真相の在処も知ろうとしない。でもキサラギは、別の何かがあると思うのだ。
 話してくれるだろうかと期待したけれど、エルザリートは首を振ってその話題を払った。
「あなたの望みはなに?」
 鋭く問われた。
「人殺しはしない。けれど戦う。竜狩りを名乗り、龍王家に反抗の意思を持つ。それでもなお、逃げようとせず、わたくしを動かそうとする目的が分からないわ。わたくしに権力を握れということではないのでしょう?」
 もしそうなら消費し尽くすことも辞さないという言い方だった。
「龍王国の首都へ行きたい」
 キサラギは言った。
「知りたいことがある。……知らなくちゃならないことがある。エルザの側にいることが、私の知りたいことを知るための、一番の近道だと思ってる」
 竜と竜人。
 センを探すためにここまできた。だが、草原の竜をこの土地に持ち込む者がいる。彼は何を企んでいる? ルブリネルクという国の中心で、いったい何が行われているのか。
 もしそれが、いつかの街のようにおぞましいことなら。
 行かなければならない。
(竜によって不幸にされるものがあってはならない!)
「……戻ってこれなくなるわ。いいえ、命を落とす方が早いかもしれない。戦いの中ではなく、別の形で死ぬわ。それは恐らく、触れてはいけないものよ」
「だって、私は竜狩りだから」
 人に害を為す竜は、狩らなければならない。
 けれど、握りしめた手の中には、冷たい恐れが凝っている。
 竜狩りの仲間はいない。自分を守ってくれる人も、自分のために戦ってくれる人もいない。異邦人としての感覚の違いや、違和を話し合える人は、誰も。
(私は、これから、たった一人で戦いに行くんだ……)
「庇護してあげることくらいはできる、と思うわ」
 キサラギが素早く顔を上げると、怯んだようにエルザリートは椅子に座り直し、語調を乱した。
「あなたが勝ち続けた場合の話よ! 貴族の地位とはそういうものなの。騎士は主人の立場を守る代わりに、主人は騎士の一切を引き受ける。それは、言うなれば、共闘するということでしょう」
「…………」
 キサラギの目には、疑いながらわずかな光を抱きかかえて強くあろうとする、感情の揺らぎが浮かんでいるのかもしれない。エルザリートはわずかに笑ったようだった。
「――もう何も望まないでいようと思った。他者を犠牲にして守るようなものは、わたくしにはないと思ったから。十六まで生きた、この先も、誰かを削り取って自分だけ生きることを許せるほど、わたくしは強くはない。……けれど、そうして生き続けていくことで、犠牲になってしまう者たちに報いる方法があると……報いようと思ったの」
 エルザリートの眼差しは外へ。ここにはいない、エジェのことを思っているのだろう。
 彼女の権力や立場は、犠牲によって成り立っている。そのことに甘んじるだけではないよう、エルザリートは動き始めた。
 苦しく困難な道だ。
「一緒に、行こう」キサラギは言った。
「一緒に戦おう。私たちは一人じゃない。こうして出会ったことに、私は大きな意味を感じてるんだ。エルザリートが私を助けてくれたことには、絶対に、意味がある」
 馬鹿ね、とエルザリートは笑い、嘲った。優しい、穏やかな嘲笑だった。
「いつか道は分かたれる」
 強い口調でエルザリートは言い、けれど、笑みを浮かべた。
「それでもあなたと戦うのは悪くないと思うわ。わたくしを守りなさい、キサラギ。わたくしがあなたを守ってあげるから」
 キサラギはやっと気づいた。エルザリートが自分を呼ぶ時の名称が「お前」から「あなた」に変わっていた。


   *


 アクジルは項垂れた。何の申し開きもできなかった。王太子の船をみすみす襲撃させ、あまつさえ積荷が外に出てしまい、そのすべてが殺されてしまった、などと、どう取り繕うこともできない。
「公は自らの進退をすでにご存知のようだ」
 笑み含んだ一声に、汗が滝のように流れ落ちた。
 名を呼ぶことも許されない。アクジルはオーギュストの私兵に引きずられ、強制的に退室させられた。もう二度と自分は庇護される立場にはないことを思い知った。


 処分を終えたオーギュストは、馬車を走らせ、エルザリートの元へと向かった。
 新しい住人を迎えた屋敷は、前回よりも空気が浮ついている。ヴォルスとルイズが警戒しているからだ。その渦中の人物は、どうやら中庭で訓練の最中らしい。
「エジェ! また肩が下がってる!」
「うるせえ!」
 明るい掛け声は今までこの屋敷にはなかったものだ。オーギュストはそれを聞きながらエルザリートの部屋に行くが、部屋の主は留守だった。見ると、窓の外にその姿がある。
(庭にすら出ない娘だったのに)
 椅子と傘を出し、離れたところで、稽古を見ている。視線の先には、自分の騎士。キサラギと、新しく騎士に任命したエジェだ。二人が動き回っているのを見る顔は平坦だが、オーギュストには、彼女がこの時間を穏やかに過ごしているのが感じ取れた。
「踏み込みが甘いよ! もっと瞬発的に動かなきゃ!」
 声の主を見下ろし、目を細めた。
(騎士としての実力もあり、まあまあ頭も回るようだ。上手く動かさねば、厄介ごとを持ち込んでくる)
 剣闘試合による混乱は予想していた。幾つかの類型を思い浮かべ、その対処の手を思うように打ったはずだが、エジェ・ロリアールを騎士として登用することは計算していなかった。エルザリートがそこまで動くと想定しなかったのだ。
 騎士を忌避する少女は、あの青年が暗殺をもくろむに至った、彼の兄の喪失を傷にしている。だがそうして騎士を持たずに首都で生きていくことはできない。だから無理矢理にでも一人騎士を連れてこいと言ったのだが。
 頑張れ、と笑い声が聞こえてくる。
 そのとき、窓とは真逆にある扉が叩かれた。応答すると、久しぶりに聞く声がした。
「お前か、ブレイド」
「お久しぶりです、殿下。そろそろかと思ってお迎えにあがりました」
 短くした黒髪に、生き生きと青い目を輝かせた男は、オーギュストの第一の騎士だった。様々な武器の扱いに長け、性格や人脈も優良。その腕を信頼して首都に留守番をさせていた。
「首都ではどうだった。陛下の御前試合は無事に終わったか」
 お前の勝利で。そう言うと、ブレイドは短い黒髪をがしがしと掻いた。
「いいえ。それが、負けましてね」
 オーギュストは驚き、思わず視線をブレイドに投げた。
「お前が負けた? どこの誰に」
「ぽっと出の新人です。どこから来たのかも分からないんですが、噂では、龍王陛下ご自身が試合に投げ入れたとか。確かに見たことのない使い手でした。そもそも顔を仮面と兜で隠してるんですが、こいつが、恐ろしいほどの強さでしてね。最終的に、そいつが竜騎士を拝命しました」
 龍王の騎士に、出自の知れない者が選ばれた?
 自分の手のうちで、最も強いブレイドを龍王の騎士の一人として送り込むことを考えて、彼に御前試合の出場を命じたのだが、どうやらここでも計算が狂ったらしい。
 それも龍王の伝手だとブレイドは言う。そんな繋がりは把握していない。
「どうやら、早々に首都に戻らねばならんようだな」
「そういえば、姫様が騎士を選ばれたとか。下に見えるのがそうですか」
 窓を半分譲ると、ブレイドが庭を覗き込んだ。ははあ、と顎を撫でる。
「片方はまあまあですが、黒髪の方はかなり使えますね? 動きに無駄がない。いや、無駄っていうより、あれは……」
 細いが、決してやわではない手足が、伸びやかに動く。その動きに翻弄されて、もう一人は受けるのに必死だ。
「……うーん? 変な動きだな。あんまり見ない身体の使い方をしますね」
「草原の人間だ」
 脳裏に浮かぶ。
 竜を斬った姿と眼差し。
 胸がざわつく。忘れたものをなぞられているような、遠い昔に見知っていたような感覚がある。それは自分が龍王子を呼ばれ仰がれるとき、古神殿の竜の像を見上げたときに覚えるものに似ていた。
 自分が、その血を引くものだと実感するとき。この、呪いにも似た王家の血が続いてきたのだと思うとき。懐かしさと忌わしさ。
「へえ、草原地方? そりゃ、変わったやつだなあ。名前はなんていうんです?」
 聞こえていた笑い声が収まり、ふと、地上の者が頭上を仰ぐ。
 ――あの、稚拙な策。一度は、どこまで姑息に動くのかを見極めるために許そうと決めていた。だが、その結果、あの船の荷をすべて殺し尽くされるとは想像もしていなかった。
 黒い目がこちらを捉えた。
 その目は笑わず、こちらを見据えている。
 オーギュストは答えた。

「名は、キサラギ。竜狩りのキサラギ」

    



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