「覚悟なさい。ここにいるのは、すべて敵よ」
 キサラギの姿を見て、エルザリートは言った。そして、エジェに向かってはわずかに唇の端を持ち上げる。
「お前は、そんなこと、とっくに知っているでしょうけどね」
 答えがないと思ったエルザリートはさっさと正面を向いたが、キサラギはもったいないと思った。エジェの視線が少しだけ色を変えたことに、どちらも気づいていない。
 彼女もまた、彼の憎しみを恐れて、これ以上踏み込めずにいるのだった。
 大広間は、光と人の海だった。色彩が、鮮やかな光となって、動いて、ひとところにとどまらない。マイセン公の夜会のように、静まり返るほど注目を浴びることはなかったが、擦れ違う人々がさりげなくこちらを視認していくのが分かった。ここにいる人たちは、自分の思っていること、考えていることを、完璧に覆い隠す技術を持っているのだ。
「何言われても真に受けるな。へらへら笑ってろ。得意だろ」
 エジェが囁き、ヴォルスは真面目に頷いている。
「今日は、竜騎士のお披露目の会だからな。出席者も、騎士も、かなり多い」
「竜騎士?」
「龍王陛下に侍る騎士だ。その地位に登りたい騎士が、一年に一度行われる御前試合で競い合い、優勝者が竜騎士の称号を賜る。つまり、王国最強の剣士だな」
「あんたの弟だろう、それ」
 エジェが言うと、ふんとヴォルスは口の端を持ち上げた。
「ブレイドのことを言ってるなら、違う。あいつは準優勝」
 驚くエジェに、してやったりの顔をしているヴォルスに、キサラギは尋ねた。
「弟がいるんですか?」
「腹違いのな。俺より顔も出来もよくて、オーギュスト殿下の一の騎士をしている」
 目を離すなと言われ、キサラギは、エジェと二人、エルザリートの側につく。
「ああ言ってるが、あの人もあれで相当だぜ。王太子は何人もの騎士を抱えてるが、ランザー家の兄弟は両の剣とも呼ばれる。兄のヴォルスはエルザリートについてるが、あいつの騎士というわけじゃない。護衛として王太子が寄越してるんだろう。それほどあの女は王太子の寵愛が深いってことだ」
 囁くエジェは、やはりキサラギなどとは比べものにならないくらい事情通のようだ。格好も立ち居振る舞いも様になっている。その話を「ふーん」で適当に記憶して流してしまうキサラギは、こういう場所に向いていないということだろう。
 キサラギの気持ちは、この場にいる何人が有力な情報を持っているか、味方になってくれるだろうかということで占められている。とにかく今は、エルザリートについていくしかない。
 ざわめきの質が変わった。人の視線が一箇所に集まる。
 最奥の、一段高くなったところに、オーギュストが立った。その隣にいる黒髪の男が、さきほどの話に出たブレイドという騎士だろう。
 さらに高くなったところに、人の姿が現れた。
 薄い帳に透ける影は、年老いた男のようだ。居並ぶ人々が、一斉に膝を落とす。
「龍王陛下のおでましである!」
 キサラギは顔を伏せるふりをしながら、素早く周囲を見回した。誰もが丁寧に頭を下げている中、ただ一人、同じように動きながらも彼をまっすぐ見つめている者がいる。
 オーギュストだった。
 キサラギは思わず鼻で息を吸い込んでから、素早く視線を床へと向けた。
 何か、血なまぐさいものを嗅いだような気がしたのは、きっとあの目が笑っていなかったから。
「そして今宵、龍王陛下が、ルブリネルクの竜騎士を任命する。騎士よ、前へ」
 司会が告げると、どこかから、闇がひとつ、姿を現した。
 それほどに唐突だった。空の闇が急に降って形を現したように、光の広間にその存在が鮮やかに浮かび上がった。
 かしゃり、と黒鈍の鎧が鳴る。
 この時に、その男は戦士の装束を身にまとっていた。鎧を、肩当を、籠手を、鉄靴を身にまとい、その顔の上半分を仮面の形をした兜で覆っている。身につけているものはすべて黒。だから、短くとも、髪の銀色がまるで刃のように輝いて見えた。
 キサラギの肌は、粟立った。
 遠目からもわかる、鼻梁の鋭さと肌の輝き。薄い唇から、生まれ出でる硬い声を想像する。すべてを見下す目の冷たさも、見守る穏やかさも、キサラギの脳裏に蘇って、今見ているものが確かなのか分からない。
 この、男は。
「――汝を竜騎士に任命す」
 帳に向かってまっすぐに立った騎士に、しわがれた男の声がそう言った瞬間、人々の間から拍手と歓声が沸き上がった。
「どんな方なのかしら。お顔を隠すなんて残念だわ」
「『レイ・アレイアール』というのは本名? アレイアール家というのは聞いたことがないわね」
「偽名かもしれないわ。でも、本当に闇夜の『光』を思わせる方ね」
 女性たちが楽しげに言葉を交わしている。
 レイ・アレイアール。
(――セン、じゃない……?)
「……おい、キサラギ。お前真っ青だぞ。どうした」
 竜騎士を見るオーギュストが、センとまったく同じ顔をしているせいで、余計にめまいがしてきた。息が苦しい。うまく、吸い込めない。
「ごめ、……エ、ジェ……エルザを……」
 頼む、と切れ切れに断って、流れに逆らっていくキサラギは、竜騎士という名の誉れの高さの前には目もくれられず、まるで敗残者のように逃げていた。
 入り口を出て、人の気配の少ない、暗い方へと進んで行くと、中庭に出た。
 回廊が取り巻いているが、周囲は仄明るい程度で、キサラギはどっと息を吐いた。冷たい夜気が目に滲み、熱いものがこみ上げた。
「う……」
 自分の弱さが、惨めだった。
 ずっとあの影を追いかけている。かけらを辿って、妄想などする。少し似ているかもしれないからといって、彼ではないかと。
 これではまるでただの娘だ。恋に身をよじって、涙するだけの。それだけの女には、絶対にならないと決めていたのに。
 影を追う愚かさは、もう身にしみて知っているはずだった。毎日の息苦しさのことも、ひとり眠る夜によみがえる悲しみも、馴染むくらいに日常だった。それから解放されたと思ったのに、本当は自分は、囚われたいと思っていたのだろうか。
 ――生きる意味を、彼にしている。
 稲妻のようにひらめいた思いに、息を詰める。
(……そうだよ。それの、何が悪いっていうんだ!)
 生きるために戦ってきた。望むもののために竜狩りになった。
 その願いを叶えたとき、次の約束をした。
 連綿と続く、願いと誓いと約束が、人を生かすのだと思う。そうであってほしいと、思っている。
 大きく息を吸い込んだ。
 たとえ、あの竜騎士が誰であろうと、歩みを止めることはないし、旅は続く。この世界のどこかにいる、センを探すために。
(まだまだ、だな。心が弱いや)
 強くなりたい。まだ強くなれることを知っているから。
 この暗い都で得られるものが何なのかは分からないけれど、見上げた空の黒の中に、光を見ることができる、強い心を持とうと思った。
 戻らなきゃ、と腰をあげる。エルザリートとエジェが、人前で険悪になっていなければいいのだが、横から見ていると、二人は早く本音でぶつかるべきだと思う。
「…………」
 大広間への道を思い出しながら、少し考えた。
(もしかして、今、うろうろするいい機会かも?)
 武器は広間に入るときに預けてしまっていたが、着ているものは正装だし、普段のように浮かずに済んでいるはずだ。
 大広間のように、人の出入りがある場所はひとところに固められているようだ。廊下が幾筋もあるが、お客同士が顔を合わせないように、部屋が配分されているのだろう。誰ともすれ違わないし、それらしい気配は、淡々と遠ざかっていく。
 しかし、奥に進むにつれて、空気が変化していく。明かりの数はほとんど変わらないはずなのに、視界が薄暗くなり、静寂が何かを警告するような甲高い音を交えているような気がする。
 鼻を鳴らす。匂いがする。
(花……香水かな。この季節の花じゃない、強いにおいだ)
 でも、どこかでこの香りを嗅いだことがある気がした。
「お前! そこで何をしているのです!」
 後ろから声をかけられた。気づかなかったのは、足音がしなかったからだ。だが、その相手が制服を着た使用人の女性だと気付き、驚いた。
「何者です。その先が、紅妃様のお部屋だと知って、ここにいるのですか」
 もともときつい顔立ちで、さらに目を吊り上げて誰何する。キサラギは、首をすくめ、怯えた風を見せておずおずと尋ねた。
「紅妃様、って……」
「龍王陛下に一番の寵愛を受けていらっしゃる御方です。用がないなら立ち去りなさい。知らぬようだったので今回は見逃しますが、紅妃様の邪魔をすれば、この城で居場所を失うことになると心得なさい」
 キサラギが見ない顔だということに気づいたのか、語調を和らげて、そう言った。キサラギは頭を下げた。
「すみませんでした、ええっと……」
「ミハイラです」
「キサラギです。失礼しました、ミハイラさん。忠告、ありがとうございます」
 頭を下げると、重々しく頷いて、キサラギが行くまで見守っている。角を曲がり際にもう一度頭を下げて、そこから離れた。
 この城には、どうやら権力者が何人もいるらしい。一枚岩ではないのだ。
 だから剣で決めるのか。直接的で分かりやすい方法だが、あまり現代的ではないように思える。
 考え事をしながら歩いているのが悪かった。よく知らない道を、感覚のままに戻っていたせいもある。前方から集団が近づいているのに気づかず、行きあう寸前でキサラギは立ち止まり、息を飲んだ。相手が視界に入らない、曲がり角の隅で立ち止まり、頭をさげる。
 するすると歩いてくる、先頭の二人は剣を履いた護衛。その次は世話係か。そうした人々の中央に挟まれて、被り物をした男が、おぼつかない足取りで廊下の中央を歩み進めていく。キサラギなど小虫のごとく目もくれず、去っていく――はずだった。

    



>>  HOME  <<