エルザリートの護衛という名目で、キサラギは西方公フェスティアという人物を訪ねた。
 西方公とは、龍王から特別に賜った称号で、マイセンの公領を治めるような大公とは異なり、名誉号のようなものなのだそうだ。だから、実質的に領地を持っているわけではない。
「フェスティア公の息子は、その当時、最も強い騎士で、竜騎士になると言われていた。けれど、彼はその誘いを蹴って、代わりに自分の家を特別に保護するように申し出たのだそうよ」
 ごくわずかな土地を拝領したフェスティア家は、王宮では特別な地位もなく、騎士を戦わせることもないが、龍王に庇護されて暮らしている。どんな人物なのかは、到着した屋敷から見て取れた。
 かろうじて母屋に二階がある、平屋の建物。きらびやかでも、厳しくもない。前庭から緑があふれ、客人の訪れを歓迎している。
 建物に入ると、柔らかい空気が漂っている。飾られているのは、華麗な絵画ではなく、手編みの肩掛けだった。生成りの糸で丁寧に編み上げているそれは、そうして飾られているせいもあって一つの芸術作品だった。陶磁器の花瓶には、庭で咲いたのだろう花が、優しい色合いで活けられている。龍王に特別な配慮を受けているにしては、慎ましい暮らしぶりだ。
 前室に入って、キサラギは声をあげた。
「すごい量の本だ……!」
 壁にすべて棚を作り、そこに大量の本を詰め込んでいる。思い出したように小物や花が飾られているが、どうも持ち主はそれらを邪魔に思っている様子で、棚の隅などに追いやられてしまっていた。
(イサイ父さんもよく読む人だったけど、それ以上だなあ……)
「フェスティア公は、竜にまつわる神話、伝承の研究者。西方公の称号を賜るまでは、代々、下位の文官として王宮に勤めていたのですって。だから、彼の息子が竜騎士に手が届く登り詰めたことは、人々を驚嘆させ、龍王が願いを叶えるに至ったというわけ」
「お待たせいたしました」
 風、のようなものが香った。それは、その人の柔らかな声音が醸し出す空気だった。
 振り返ると、金の髪を軽く結わえた、穏やかな眼差しの男性が立っている。彼は、エルザリートに向かって、胸に手を当てて礼をした。エルザリートもまた、ドレスの裾をつまんで軽く膝を曲げる。
「ようこそ、ランジュ公爵令嬢エルザリート様。このように乱雑な我が家で申し訳ございません」
「こちらこそ、突然お手紙をして、失礼いたしました。わたくしの騎士を紹介します。この者はキサラギ。北方の草原地帯の出身です。この者が、竜に関することを色々調べたいと言っていて、すぐに浮かんだのがフェスティア公だったのです」
 優しい笑顔が向けられる。おや、と何かが引っかかった。
(なんだろう?)
 なんとなく、見覚えがある感じがする。知っている人に近いものがあるような。
「草原の民は、日常的に竜を狩るんでしたね。あなたもそうですか?」
「はい。組織に所属して、人に害をなす竜を狩っていました」
 フェスティア公は椅子を勧めたが、エルザリートは断った。
「立場上、わたくしは席を外した方がいいと思うわ。キサラギ。あなた一人で、聞きたいことをお聞きなさい」
 キサラギに囁いて、公には笑顔を向ける。
「フェスティア公、もし不都合がなければ、奥様にご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。部屋に案内させましょう」
 エルザリートは部屋を出て、キサラギはフェスティア公と二人きりになった。椅子を勧められたが、断ると、彼は苦笑した。
「私は、身分がどうのというのには疎い人間なので、お客様には椅子を勧めるべきだと思うのです。ですから、どうぞ、お掛けになってください。長い話になるでしょうから」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
 キサラギが座ると、公は目を細めた。すぐにお茶が運ばれてくる。
「それで、何を聞きたいと?」
「この王国地方における、竜について。伝承でも歴史でもなんでもいいんです。それから、龍王とはなんなのか。竜騎士はどういうものなのか……それから、この地方に、竜は現れるのか」
 フェスティア公の柔らかな笑みが、優しいけれどわずかに苦いものに変わった。
「エルザリート様は席を外されて正解でしたね。竜について語ることは、非常に微妙で繊細な問題です。あの方は約者候補でもありますから、私のような竜研究を行う者には近付かない方がいい」
「竜研究」
 これらの本がそうです、と彼は言った。この部屋の他に、図書室があり、自室にも、竜にまつわることを書いたものを保管しているという。
「竜にまつわる伝承は、非常に込み入っていて複雑です。草原と王国ではまったく違うものになっていますし、南の砂漠でもまた異なります。――王国の始まりは、人の王が竜王を倒し、すべての竜を統べるようになった、というものです」
 人の王は、竜を統べる自らを龍王と称した。これがルブリネルク龍王国の建国神話になっている。その血を継ぐ王族は、戴冠すると、代々龍王の称号を名乗るのだ。
「まあ、これは龍王家の威信のための物語なので……王は巨大竜を倒しただけで、竜のすべてを従えたのではなく人海戦術で狩りつくしたというのが実際のところでしょう。現に、今でも王国地方に竜は存在しています。不思議なことに首都には近づいてこないので、龍王の力が生きているという噂にもつながるのですが」
 竜が現れるかどうかを、彼は危険な真実とともに笑顔で話した。あまりにもさらりと事実を述べるので、最初からキサラギはうろたえてしまった。こんなこと、例えばマイセン公国の屋敷の者たちが聞いたら、青ざめて倒れるか逃げ出すにちがいない。
「……と、いうことで、私がお話しするのは、このように非常に危ういものです。西方公の称号を頂いていなければ、そのうち不敬罪か陰謀罪で死刑になっているでしょう。竜研究者が多くないのは、そのせいでもあります」
 こちらの反応を見て、公は明るく茶化した。
 キサラギは、お茶で喉を潤し、頷いた。
「私は、そういうことを聞きたかったんです」
 フェスティア公はにっこりした。
「ルブリネルクの初代王が自称した『龍王』ですが、これは南の砂漠地方に根拠があると考えられます。砂漠地方には、人と竜の間に立つ『王の柱』と呼ばれる者がいて、これを『竜王』とも呼んでいたようです。そして、その伴侶を『約者』と呼びました。現在のルブリネルクにおける、龍王と伴侶の関係と同一です」
「じゃあ、王国と砂漠は、同じものが元になっているということですか」
「ええ。ただ、砂漠において『約者』は特別な意味を持つ存在で、特殊な一族からしか輩出されないようです。これは秘義らしく、砂漠の民でも一部の者しか本当のところを知らないようですね」
 あの、とキサラギは問いを絞り出した。
「王国地方の出身の、ある人が言っていたんです……王国地方の人々は、ほぼすべての人が、竜の血を持った竜人だ……って」
 その瞬間、笑顔が消えた。
 書物に当たるときはこういう顔をするのだろう、難しい顔をして、彼はじっとキサラギを見た。
「……あなたにそれを教えた人は、ずいぶん竜の伝承に詳しい人のようですね。ええ、確かに、研究者の間ではそのように囁かれています」
「その竜の血は……」
 なんと続けていいのか分からなかった。
 竜の血は、人を狂わせる。人を変質させ、その姿と意識を奪い、狂った竜となって人を襲う衝動で支配する。――キサラギはそれを知っている。
 王国地方で過ごせば過ごすほど、まるで草原での出来事が夢であったように思われるのだ。あの場所ではずっと竜と戦い、竜を憎み、竜人の存在を追っていたのに、ここではまるでそれがない。草原という場所が、この世界から切り離された別のところにあるように感じられる。
 誰かがそのようにしたのか? それとも、何かが欠けているのか……。
 キサラギに渦巻く葛藤と迷いを、じっと見定めていたフェスティア公は、ゆっくりと息を吐き、外を気にした。そして「あなたは、もしかしたら世界の中心にいるのかもしれませんね」と呟いた。
「世界の中心……?」
「ルブリネルクが興る前、砂漠の民がその場所に王国を作る前の時代には、どうやら竜と人は共存していたらしい、という説があります」
 キサラギは息を飲んだ。

    



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