フェスティア公夫妻は、屋敷を後にするキサラギとエルザリートを、門のところまで出て見送ってくれた。エルザリートに対する敬意もあるが、なんとなく、自分を見送ってくれたのではないか、と思うキサラギだった。
 竜研究の話だけでなく、もっと夫妻や家族について聞いてみたかったけれど、望まれないことだろうかという迷いが結局何も言わせなかった。キサラギの想像の中で、養父は終わったことだからと優しく首を振る姿しか浮かばなかったのだ。
(……そのことは、ひとまず、置いておこう)
 馬車の中でエルザリートと二人きりになったのを見計らって、彼女に尋ねた。
「エルザ。竜騎士に近付く手段って、何かある?」
「あの竜騎士?」
 エルザリートの反応は芳しくなかった。かなり難易度が高いお願いだったらしい。
「あの騎士は陛下のもので、普段どこにいるかも分からないそうよ。噂では、竜王陛下の寵愛深い、紅妃の関係者で、彼女の近くにいるらしいということだけれど」
「じゃあ、紅妃に近付いたら、会えるかな」
 エルザリートは眉間に皺を刻んだ。
「説明もしないまま、お願いなんて、いいご身分ね」
「ごめん。……竜騎士に会って、確かめたいことがあるんだ。彼のこと、いろいろと妙なところが多いと思わない?」
 異常な強さ。感情を失ったかのような態度。仮面で顔を隠していること。普段の所在が分からないというのもそうだろう。
 確かに、とエルザリートは納得した。
「……紅妃主催の夜会が近々開かれるようだったわ。招待状が来ていたけれど、あの方のことが好きじゃなくて、断るつもりでいたのよ。でも、そこに竜騎士が出てくるかもしれないわね。毎回というわけではないけれど、ごく稀に姿があるそうだから」
「もぐりこめない?」
「……出来ないことはないと思うわ。その確かめたいことってなんなの?」
 キサラギは首を振った。
「フェスティア公と話した内容に関わるんだ。知ればエルザリートは危険だろうって言ってた。それと、これは私の思い込みかもしれないんだけど……もしかしたら、その竜騎士が、私の探してる人物かもしれない」
 エルザリートは目を見開いた。そして、頷いた。
「だったら、手を貸さないわけにはいかないわね。分かったわ。伝手を辿ってみましょう」
 そこまで言って、少し笑った。
「元気が出たようでよかったわ。あなたが落ち込んでいると、わたくしも落ち着かなくてしょうがないのよ。あなたには、馬鹿みたいに能天気でいてもらわなくては」
「なにそれ。けなしてる?」
「明るいのがあなたのいいところだと言っているのよ」
 エルザリートを城で待機していたエジェに託し、キサラギは騎士舎に戻った。エルザリートの言葉通り、確かに気力が回復していた。謎だったところに少しだけ手がかりを得たし、しなければならないことが見定まったからかもしれない。
 竜と竜人と人間が、共存していた時代があったこと。
 人間が竜を狩って、自らの文明を築いたこと。
 竜の力を得るために、その血を取り入れた人間たちがいたこと。それが龍王国という土地の歴史であること。
(竜と竜人と人間が、もう一度、一緒に暮らす時代がくることはあるんだろうか)
 キサラギが、かつて竜人(セン)を許したように。
 ――もしそんな時代が来るのなら、キサラギは剣を手放すことができるかもしれない。
 遠そうだな、と笑った。そうなるまでに、一体どのくらい生きればいいのやら。
 寿命の少ない人間であるキサラギが、まずできることは、竜騎士について調べ、その正体を暴くこと。彼が竜人ならば、その狂気から解き放たなければならない。このまま、人を殺し続けて、何も起こらないわけがないからだ。
「……おっ、いたいた。戻ってきたか」
「イルダスさん」
 部屋に戻ろうと演習場を突っ切るところで、声をかけてきたのは、不良騎士のイルダスだった。
「お前、いま暇か?」
「暇じゃありません」
「即答すんなよ。別に何もしねえよ。晩飯奢ってやるよって言おうと思っただけだ」
 食事? とキサラギは目を瞬かせた。
「毎日辛気臭え顔してるからな。ずーっと頭の上に黒雲背負って、話しかけると笑いもしないどころか軽蔑の目をしやがる。お前、そのままじゃ深みに突き落とされるぜ。例えば、あの腹黒王太子とかな」
 どうやら、それなりに心配してくれていたらしい。二人だけで話すのも、彼がこうして砕けた口調をオーギュストを揶揄するのも初めてだ。イルダスは、態度は軽薄だが、足元をすくわれないよう、言動には気をつけている節があった。
「そういうおおっぴらにできねえ話をしようや、ってことだ。お前んとこの姫さんに外出許可もらってこい。夕刻の鐘が鳴る頃、この騎士宿舎に集合。いいな?」
「分かりました。……気遣ってくださって、ありがとうございます」
 ふん、と鼻で笑ったのは、照れ隠しだろうと思われた。
 エルザリートに許可をもらい、キサラギは騎士宿舎で、イルダスと待ち合わせた。二人で城下町へ向かう。
 華やかな喧騒で、夜の街は明るく、馬車も頻繁に行き交っていた。身分の高そうな人々が、煌々と明るい大きな店の中に吸い込まれていく。
「お貴族様ご用達の酒場に、劇場に、宿。ああいう身分のやつらってのは、夜の方が活発なんだよ。で、朝は起きてこねえ。朝から勤勉な王太子殿下は変態だな」
 だが、彼はそういった店には入らず、明かりの少ない路地に入っていく。すると、歩いている人の身分層が変わり、どこにでもいるような普通の目つきや服装の、親しみやすそうな人々になった。
 こっちだ、と誘われるままにやってきたのは、『月の湖亭』と看板のかかった大衆酒場だった。
「いらっしゃい!」とお下げの売り子が振り返る。奥の席に着くと、同じものでいいかと尋ねられたので、頷く。イルダスはいつものを二つと注文を告げた。
 一階は、大小の机が置かれ、店主の元に一人がけ用の長机が伸びている酒場。二階は個室宿になっているようだ。床は何度も磨かれ、落ち切らない汚れと磨き剤が混ざり合った飴色をしていて、机は倒されたり酔っ払いがつけた傷でくたびれている。そこへもってこられた器は、小さな樽型で、濃い色の麦酒が入っていた。
「とりあえず、乾杯」
「いただきます」
 しっかりした甘みの中に、爽やかな苦味が広がる。美味しい酒だ。キサラギはほっと息をついた。突き出しの豆に手を伸ばし、殻をむく。
(なんか、落ち着く)
「上は堅苦しくっていけねえや。お前は騎士に向いてねえな。どっちかっていうと俺みたいな、傭兵向きだ」
「傭兵……だったんですか?」
 キサラギの知る傭兵とは、組織に所属しない旅の竜狩りだが、所属を持たないという点では同じだとイルダスは説明した。
「こっちの傭兵ってのは、いわゆる戦闘に関する何でも屋だよ。国軍の一員として戦争をすることもあるし、金で買われて騎士ごっこをすることもある。割に合わねえと思ったら辞める。で、次の金回りのいいところに雇われる。だから、騎士ごっこをしてると、前の勤め先の同僚とやりあうっていうのも珍しくねえな」
 心なし、麦酒が苦くなる。
「……辛くないんですか」
「知り合いと戦うことが? 傭兵ってのはそういうもんだ。昨日の味方が、次の日は敵になることはよくある」
 キサラギの内側から、深いため息が溢れた。
(どうして、誰も彼も、悟りきったようなことばっかり言うんだ)
 許せないことがある。認めたくないことが。誰かの命をおもちゃのようにやりくりしたり、落とさずにいい命を散らしたり、遊戯のために剣を振るうことを嫌だと思う自分は、柔軟でないということなのだろうか。
(認めてしまえば、楽になれる。この国はそういうものなんだと、私がやってきた場所の規則はそれだからって、従えば、私が罪の意識を感じる必要はないのかもしれない)
 でも、それは違うと、魂が叫ぶから。
「諦めちまった方がいい」
 波打つ水面に、大石を投げ込むようにして、イルダスは言った。
 杯を干して、彼は笑う。まるで、キサラギを世話の焼ける妹とでも思っているかのように。居心地が悪くてキサラギは身じろぎし、器に口をつけた。
 それでも、と思いが溢れた。
「それでも、負けたくないと思うのは、私が若いからですか」
 イルダスは鼻で笑った。けれど、それはキサラギを笑ったのではない。
「お前が勝つところを俺だって見てみたいさ。正義と情熱で世界が変えられるんなら、それがいいと俺も思う。だが、ここはそうじゃない」
 イルダスは奇妙に饒舌だった。キサラギが目を伏せながら抗う言葉を、静かに聞いて、諭そうとする。
「あなたは私のことを嫌っていると思ってました。尻の青いガキが、青臭いことを言っていて鬱陶しいって」
「よく分かってるじゃねえか。その通りだよ。だが、俺は見所のあるやつをそうそう殺したくはないって情も持ち合わせてるんだ」
「自慢げに言うことですか」
「お前の腕は惜しい。この前の闘技で、お前に目をつけたやつが何人かいるだろう。引き抜きにくるか、これ以上出てこられると邪魔だから始末するか、どっちになるかは分からねえが、すぐにまた騒ぎの方がやってくるぜ」
 また戦うのか。キサラギの眉が寄った。
 今度こそ、自分の手で始末をつけろと言われるだろう。それ以前に、自分が命を落とす可能性だってあるのだ。
「嫌なら逃げるこった。俺も、稼ぎが悪いと思ったら見限るつもりでいる。正直、最近の王子周りはきな臭い。龍王の具合も悪いと聞くし、政変があるかもしれん。エルザ姫も巻き込まれるだろうな」
「エルザも?」
「エルザ姫は次期龍王の約者候補……つって分かるか? 龍王の妃は、実権を握る正妃と、象徴である約者っていう二人分の枠がある。エルザ姫はその約者になる予定だ。順当にいけばオーギュスト王子の約者だが、姫さんの方が嫌がってるとか、ヴォルスに聞いたな」
 イルダスは、ブレイドと同僚であるため、彼の兄であるヴォルスとも顔見知りらしい。確かに、あの兄弟のどちらかといえば、ヴォルスとの方が気が合いそうな気がした。
 だが、エルザリートが嫌がっている、とは。
「実の兄さんじゃないけど『お兄様』って呼んで慕ってるのに?」
「あの二人に関する噂話は山ほどある。――ある日、王子はランジュ公爵家のエルザリートを庇護することを決めた。これに王子の実母である王妃と、姫の実母であるランジュ公爵夫人がひどく反発した。この女二人はもともと犬猿の仲だった。だが、この二人が仲良く、といってもいいほど、同じ頃に死んだ。王子は、なんの障害もなくエルザ姫を手に入れた」
 嚥下した麦酒の味が変わった気がした。
「それって……」
「公爵家じゃ籠の鳥だったエルザ姫は、新しい籠に移されはしたものの、新しい籠は広くて、なんでも望みが叶えられる場所だった。王子の庇護を受けるということは、立場が保証されたということ。次期龍王の約者候補として、エルザ姫は美しく、奔放で傲慢に振舞うことができた」
 本当に、普通の貴族の女だった、とイルダスは述懐する。
 棘を包んだ柔らかい憐れみと侮蔑。
 様子が変わったのはほんの半年前、と彼は言う。
「そんな姫に騎士を選ぶというので、クロエ・ロリアールという男がやってきた。真面目だけどひょうきんな、前向きで明るい男だった。わがまま放題のエルザ姫を上手に扱って、あの姫さんをただの女にした。ただの、十六の小娘に」
 そして、彼は死んだ。エルザリートのために戦って。
 エルザリートは、そうして長く、新しい騎士を選ばなかった。キサラギとエジェがやってくるまで、彼女の側についていたのは、オーギュストの息がかかったヴォルスとルイズだけ。
 一人にして、と騎士になったキサラギを遠ざけていたあの頃、エルザリートは、クロエの死を抱いていた。
「そして今はまた、妙なことになってる。お姫様に余計なことを吹き込んだのはお前だな?」
 イルダスが苦々しく笑いながら、杯を煽った。
 クロエの死は、エルザリートの世界から輝きを奪い、同時に、目を覚まさせる警笛でもあったのだろう。でなければ、彼女はキサラギの言葉に耳を貸すことはなかったはずだ。
 優雅な仕草。傲慢な物の言い方。美しい声。発音。立ち居振る舞い。それらすべてを許されるような、甘やかな美しさ。儚さ。青白い肌に透ける、守ってやりたいと思う悲しみの影。――キサラギは、とてもああはなれない。
「私は、自分の言いたいことだけを言っているだけです。エルザの中にはたくさんの言葉や思いが眠ってる。それが表面に現れているだけですよ」
「少なくとも、その言動に注目が集まってる。王子の庇護者でありながら、その権力を極力奮ってこなかったお姫様だ。だいたい、生家であるランジュ公爵家は王家筋、オーギュスト王子に万が一のことがあれば、エルザ姫は担ぎ出される人間の一人になる」
 ルブリネルク王家の直系は、現在、オーギュスト一人なのだという。龍王には妾妃がいるが、その誰とも子どもがいない。そもそも、王が寝所に行っているかも怪しいと、きわどいことまで言う。
「夜な夜な、地下に潜って怪しげな儀式をしているらしい。紅妃が吹き込んだとか。夜中じゅう儀式をやって、夜が明けるんだとよ」
「……竜騎士も、一緒に?」
「それは知らん。そもそも、あの竜騎士の住処すら分からん。どこで生活しているのか、普段どこにいるのか、誰も見たことがないんだとよ。なんだ、あいつのことが気になるのか」
 年頃の娘に向けるような笑い方をするので、そんなんじゃない、とキサラギは首を振った。心の深い場所で、もう一人の自分が囁くのだ。
(この国で私が死ぬのだとしたら、きっと、殺すのは彼だろう)
 首が飛ぶのか、胸を貫かれるのかは、分からないが。
 黙って豆を剥くキサラギに「まあ飲め」とさらに酒の注文をして、イルダスは無理やり飲ませようとする。こういう風景には覚えがある。世話焼きの親父どもが、思いがけず落ち込んでいるキサラギを、自分なりのやり方で慰めてやろう、という。
「……本当に、今日は色々喋ってくれますね」
「俺もそう長くはないってことさ。伝えるべきだと焦るのは、命数が少ないことを感じてるからだよ」
「……不吉なこと言わないでください」
 覚えがあるだけに寒気がした。竜狩りでも、それまであまり話さなかったような人が突然、堰を切ったように語り出すことがあった。まるで、この世界に、誰かに、自分を残していこうと焦るような行動だった。今夜のイルダスは、それに近い。
「私の辛気臭いのを解消するために連れ出してくれたんですよね。だったら、もっと暗くなるようなことを言わないでください」
 ふふふ、とイルダスは笑った。ずいぶんと気持ちよさそうに酔っている。しかし、笑う瞳の奥は乾いていて、キサラギは焦るようにして、酒場から彼を連れ出し、部屋に送っていった。

    



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