第7章 錯   
    


「これ、なに」と引きつった声でキサラギは尋ねたが、それに反して、エルザリートはこれまで見たことのないような笑顔だった。頬を紅潮させ、きらきらと喜びを光として振りまき、おねだりするように両手を合わせている。
「あなたの夜会服よ」
「女物じゃないか!」
 深紅のドレス。装飾はほとんどついていないことが救いだが、足元を完全に隠してしまう裾や、肩をむき出しにしたその衣服は、あまりに防御力が低すぎる。
「あなた、自分の性別がなんだと思っているの?」
「無理! こんなの似合わない!」
「わたくしの見立てを疑うの? 失礼な人ね。これを着て紅妃の夜会に行くのよ。田舎に住んでいる遠縁の娘を同伴するって、返事をしてしまったのだから」
「騎士としてでよかったのに!」
「あなたの目的の人物は、龍王の騎士なのよ。わたくしとあなたがそれをこそこそ嗅ぎ回っていると知られるのは得策ではないでしょう。それに竜騎士の方だって、同じ騎士が自分の周辺を探っていると分かったら、あなたのことをその場で斬るかもしれないわ」
 だからこその女装なのだ、と重々しくエルザリートは言った。
 彼女が調べたところによると、竜騎士は、龍王や紅妃の夜会に時々姿を見せ、女性に囲まれているという。しかし話しかけられても絶対に言葉を返さないらしく、いつも口々に話す女性たちの中で立っているだけなのだとか。
 それを「つまり女性はそれなりに近づけるってことでしょう」とエルザリートは言うのだった。
「け、剣も持てないし……」
 なおも拒否するキサラギに、エルザリートは飽きたようだ。「だったら皿でも投げればいいでしょう」とマイセン公領でのことを引き合いに出して、待機していた女官たちに、キサラギを着替えさせるよう命じたのだった。

 城の敷地内にある離宮で、キサラギはエルザリートの一歩後ろをついてきていた。いつもの歩幅は物理的に不可能で、小さくちょこちょことゆっくり歩く。
 踵のある靴に慣れていないわけではないのだが、あまりに頼りない可愛らしい靴だったので、歩き方はどこかぎこちなくなるのだ。ようやく、少し歩くのに慣れてきたという感じだった。
「お前でも苦手なものがあるんだな」
「エジェ。うるさい」
 キサラギが女装なので、護衛はエジェの役目になる。どこか感心したように「似合うじゃん」と言った彼もお仕着せを着ているが、会場に入ると別室で待機することになっていた。
 エルザリートが招待状を差し出すと、受け取った使用人は、キサラギの方をちらりと見やった。
「わたくしの同伴者です。名は、エリ」
 こんばんは、と笑みを貼り付ける。招待状を返した使用人は特に何も言わず、二人をそのまま奥へ通した。
「姓や家名を名乗らないことは、ここではよくあるのよ。同伴者は特にね。ほら、あの女性なんかはそうでしょう」
 と、エルザリートが示すのは、肉感的な肢体を金のドレスで包んだ、妖艶な美女だった。付き添いである男性の腕を、胸の谷間に埋めるようにして抱えていて、キサラギは目を見開く。エルザリートは、そういう仕事の方よ、と冷めた口調で言う。
「重そうな胸だね……いや、筋肉の方が重いかな?」
「……気になるのはそこなの?」
 以前のお披露目の会とは違って、もう少し砕けた雰囲気のある会のようだった。きらびやかなところも、明かりの眩さも同じくらいだが、恐らく緊張感がないのだろう。騎士を入室させないようにしていることからも分かる。自由に飲んで、食べて、踊って、話をしているようだ。
 ざわめきがひときわ強くなり、来たわよ、とエルザリートが囁いた。
 竜騎士だった。今夜も鈍色の兜を被り、簡易だが、戦闘時の装備を身にまとっている。腰に帯びている剣は、武器が預かられてしまうこの場所では唯一の武器だろう。彼は特例なのだ。
 しかし、そんな異様さを警戒することなく、さらさらと長い裾を引きずった女性たちが近付いていくのには、呆れてしまった。
(恐くないのかなあ……)
 様子を伺ってみるが、竜騎士はなかなか一人にならない。ほとんど動かないし、囲まれ続けている。女性たちが群がるのを、他の男性客もあまりよく思っていないようだ。
 その輪を遠巻きに眺めている、おとなしそうな女性たちがエルザリートのところへ挨拶にやってきた。
「ごきげんよう、エルザリート様」
「お隣の方は、ご友人ですか? まあ、なんて凛々しくてお綺麗な方……」
 いい子たちなんだなあ、とキサラギは遠い気持ちになった。こんなにごつごつした骨っぽい女が、似合わないドレスを着て立っているのに、うっとりした顔をしてくれる。
「ええ。遠縁ですの。こちらに旅行に来たので、せっかくですから紅妃様の夜会に連れてきたのです」
「絢爛で驚いたことでしょう」
「剣闘試合はご覧になりまして? 騎士たちの勇姿は、ぜひ見ておくべきものですよ」
「ええ、それで、竜騎士が来ないかと、この会に来たのですけれど……」
 エルザリートの濁した言葉に、彼女たちはああと納得したようだった。
「お強いですけれど、不思議な方ですね。お顔はいつも隠されていますし、声を出されたところを一度も見たことがありません」
「あっ! そう言っているうちに、移動されるようですわ」
 囲みを遠慮なく分けて、周囲を見向きもせずに動き出す。女性たちがそれを追おうとするが、お互いに足を引っ張りあったり、自身の付き添いに引き止められたりなどして、数が半分近く減った。いつもの光景ですね、と女性たちは苦笑いしている。
「追いかけるなら今のうちですわ」
「行ってきてよくってよ」
 背中を押されて、キサラギはお礼を言ってその場を離れた。竜騎士は、広間を抜けて、どこか外が見えるところに行ったらしい。けれど、すれ違うのは、彼を追っていったはずの女性たちばかりだ。困惑した顔で、きょろきょろしている。
(ん? 見失ったのかな)
「そこのあなた! 竜騎士をお見かけしませんでした?」
 キサラギは首を振った。いったいどこへ、と悔しそうに女性は広間へ戻っていく。
 去っていった女性たちの靴は土で汚れていたから、竜騎士は庭を突っ切っていったと思われた。煌々と明るい広間と違って、庭には暗闇が降りている。明るい場所に慣れた彼女たちは、きっと夜目が利かないし、闇が怖いのだ。
 もちろんキサラギはそんなことはないので、竜騎士を探して庭に降りた。そして、いつもと違う靴の感触に怯んだ。走ることは難しそうだ。久しぶりに、緑のある土に触れた気がする。
(いつもより緑が多くてほっとする)
 しかし、ここから離れた街では、まるで違う光景が広がっている。通ってきた街の風景を思い出し、気分が沈む。こ
 の場所は、富める者だけの世界なのだ。キサラギの着ているドレスも、身にまとうだけで良心の呵責を覚える、そんな世界が外には広がっている。
(そういうものがない国に……草原みたいな自由な場所にすることは、できないんだろうか……)
 異邦人だからこそ、想像することなのかもしれない。騎士というものに対する拒否反応も、戦うことについての意識の違いも、この国に生まれ育っていれば感じないものだったはずだ。
 自分が変えられると思うわけではないけれど、変わればいいと思う。少しずつ、人が尊重され、命が粗末に扱われず、人を傷つけることを厭う人々によって、優しい国になったら。
 茂る枝を避けて、道を開いた先は、小さな円形広場になっていた。
 そこに竜騎士がいた。しかし、一人ではなかった。
 目の前にいる女性が、爪先立ち、肩に手をかけて、顔を寄せる。そして、ふっと彼の背中越しに何かを見て笑うと、するりと離れていってしまう。
 その直後、別の気配が近づいてきた。足音高くやってきたのは、別の、先ほどの人物に比べて年下の少女だ。彼女はつかつかと竜騎士に近付くと、手に持っていた杯の中身を彼にぶちまけた。
 葡萄酒が、まるで血のように、彼の胸元へ滴り落ちる。
「この……この、冷血男! 女心を弄んで……何か言ったらどうなの!?」
 竜騎士は何も言わない。口付けられたことも、その弁解も、彼女に対する慰めも。すべて彼の世界に存在しないもののように、何も聞こえていないし見えていないようだ。
 少女は、杯を投げつけたが、彼に当たることなく茂みの暗闇の中へ消えた。涙目になって、彼女は踵を返して走り去る。
 一連の出来事を見ることになったキサラギは、はあ、と溜め息を零した。
(女の人同士で取り合いになってるじゃん……はっきりしないから……)
 その気配を感じ取って、竜騎士がこちらを振り向いた。キサラギは観念して姿を現した。
「追いかけなくていいの?」
 彼は答えない。
 果たして、この声は届いているのか。
 キサラギはドレスの隠しに入っていた手巾を取り出した。
「貸してあげるから、拭きなよ」
 しかし、やはり彼は受け取らない。仕方がないと思いながら、近付く。そして、どうどうと動物をなだめるように両手を前に出して言った。
「何もしないから。拭くだけだから。じっとしてて」
 彼の動きと剣に警戒しつつ、目の前に立って、襟元や胸元にこぼれた赤い染みを拭き取っていく。
「うっわ、もう染みてるじゃないか。着てるもの、全部高いだろうに、もったいない……」
 ちゃんと染み抜きをしなければ落ちないだろう。自業自得だ。拒絶すればいいものを、ただ黙っているだけだから、思い込まれて勝手に泣かれて勝手に怒られる。
「拒絶できないんなら、避ければ? あんたならそれくらいできるんじゃないの。泣かれたり殴られたり、……口づけされたりしたくないでしょう」
 それともされたいのだろうか。腹の底にふつりと沸くものを押さえつけて見上げるが、彼はキサラギに目を落としただけで、口を開く気配がなかった。
「あんたは、喋れないの。それとも、喋らないの?」
 答えはない。だから適当に聞いてみる。いずれかに返答があることを期待して。
「レイって名前は本名? どうして騎士になったの? 故郷はどこ?」
 こちらを見ている、と思う。果たして人間として認識されているのかは不明だが、キサラギが生き物であることは分かっているだろう。敵意がないこと、興味を抱いていること――求めていることを感じ取っているはず。
 ちゃんと、見て。私は、ここにいる。
「私は草原から来たんだけど……私のこと、見覚えがあったりしない?」
 夜風が裾を揺らし、肩が冷える感覚に、キサラギは我に返った。
 こんな格好をして、謎の男に近づいて、自分のことを尋ねているという光景が、そういう駆け引きを目的としたやり取りのように思えて、かっと首から血が上った。
「ごっ、ごめん! そういうつもりで聞いたんじゃなくて、あんたがいったい誰なのか気になって! 私の探してるやつによく似てるから……」
 飛び離れたキサラギを、視線が追う。やはり見えていないわけではないようだ。
 腰に帯びたものがない頼りなさに、両手を組み合わせ、息を吐く。
「……本当に、よく似てるんだ。銀の髪をして、とんでもなく強くて、人に対して冷たくて、あんたと、よく似てる。ねえ、どうして顔を隠してるんだ? それ……取ってくれないか」
 伸ばした手から、彼は逃れた。
 キサラギは弾かれたように手を引き、拳を握り締める。
「……何か、言ってよ」
 唇を噛み、感情を殺し、繰り返す。
「何か、言って」
 震える声で、顔を歪めて告げた言葉にも、彼は反応しなかった。
 掴みかかれば反撃されることも分かっていた。けれど、応答してくれないというのなら、どうやって彼から言葉を引き出せばいいのか。
「だったら、これだけいい、教えて。――あんたは、センなの? 白い竜の姿を持っていて、昔愛した人だった黒竜を追っていった、竜人のセンなのか?」
 それを確かめなければどこへも行けない。
 いつまでもこの国にしがみついて、つかめない影ばかりを追って生きてしまう。姉を追うことを決めた幼少期のように、周りが見えなくなるほど囚われる。
 だから、教えて。
「…………」
 かすかに、竜騎士が身じろぎをした。
 キサラギの言葉、表情に、何か感じるものがあったのか。
「……セ、」
「竜騎士殿」
 別の呼びかけが、その反応を消し去った。
 その女性には見覚えがあった。いつかキサラギを厳しく呼び止めた、紅妃のそば付き、ミハイラだった。
「紅妃様がお呼びです。お戻りください」
 身を引くようにして竜騎士はキサラギから離れると、二度と振り返ることなく去っていった。ミハイラは一瞬、キサラギに何かを感じたらしく、視線を注いだが、慌てて俯いて視線から逃れると、何も声をかけずに来た道を戻っていった。
 よかった。キサラギが、先日の騎士だとは気づかれなかったようだ。
 答えを聞けないまま、キサラギは遅れて、彼らが去っていった道を辿ることにした。
(みんなあっちに走っていくと思ったら、広間があそこの建物に続いてるのか)
 キサラギが来たのは通り道ではなかったようだ。そうすると、竜騎士は、自分を囲む女性たちを振り払いたくて、わざと道でないところを通ってきたということになる。
(彼は何に反応したんだろう。名前? 単語……竜? 竜人……?)
 あの時ミハイラが来なければと悔やまれる。せっかくの機会を逃してしまった。ミハイラはおそらくこちらを見覚えただろうし、今夜は二度とキサラギが竜騎士と二人きりにならないようにするだろう。
 彼を呼んでいる紅妃とはどんな人物なのだろう。それらしい女性は会場にいなかったけれど。そう思いながら、慣れない靴で歩いていると、前方から人が来るのが分かった。キサラギが警戒して歩調を緩めると、遅れて、向こうも気づいた。キサラギは、げっ、という声を押し殺した。

    



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