どれだけ拒もうと、時間は過ぎて、その日がやってくる。
 いつかの『岩』の闘技場で、キサラギはイルダスと対峙していた。
 観客が席を埋め尽くしている。誰も彼も身分が高いだろうが、年齢の幅が広い。それだけ、この試合に注目する者が多いのだと思われた。
 剣を抜き、構える。
 心の中には嵐が吹き荒れている。キサラギを焦らせ、こんなことはしたくないと叫ばせるのだ。けれど、足元を舞う砂埃のように、取るに足らないものとして聞き捨てられる。
 喉を枯らしても届かない声は、最初からなかったことと同じになる。
 試合開始が宣言され、観客が湧いた。
 キサラギとイルダスは、同時に走り出した。
 大振りでわざと隙を作ったところに、イルダスは飛び込んできたりしない。薄く笑いながら、突きを繰り出す。
「っ!」
 その剣がまるで鞭のようにしなった気がして、キサラギは飛び離れた。
 速い。傭兵だったという言葉通り、イルダスの剣は非常に柔軟だった。弱々しいわけではない。連撃が素早いせいで、別の角度から刃が来るように感じるのだ。
 そして、反応が早すぎる。精神的に追い詰められいるキサラギは、防ぐのが精一杯で、次の攻撃に転じることができずにいる。岩場である闘技場は、草原に限らず様々な場所で戦闘することの多かったキサラギにとって慣れない舞台でないことが、からがら命を救っている。
「はあ……っ、は……」
 息が、整わない。
 精神が弱っているせいだ。身体の芯が定まらずにぶれる。攻撃も弱い。力が入らないから。
「よろよろじゃねえか。戦う気がないならさっさと諦めな」
 笑いながら唾を吐くようにしてイルダスが言い捨てる。立ち上がる砂埃に咳き込みながら、キサラギは吐き気をこらえる。
(このままじゃ、殺される。……分かってるけど、でも!)
 戦いたくない――隣り合って食事をした相手を、傷つけることは。
 きっと蒼白な顔色をしていることだろう。平然としているイルダスが化け物のように見える。
 昨日仲間だった相手と殺しあうことができるというのは、本当に強さといえるのか。
 イルダスは、試合としての面白さに理解があるせいか、明らかに弱っているキサラギにすぐにとどめを刺すことはせず、軽く打ち合っている、必死にそれを受け流すことしかできない、泣きそうな顔をしているキサラギを、飄々とした笑顔の下で哀れんでいる。
「イルダスさん……!」
「本気でやれ、キサラギ。しがみつけ。死にたくなければ。生きて、お前の正しさを証明してみせろ」
 お前の勝つところを俺だって見てみたいさ。
 酒を飲みながら、イルダスはそう零した。キサラギの青さに目を細めるようにして、羨ましがるようにして。正義と情熱で世界が変えられるならそれがいいと思う、と、それが難しいことを理解してもいた。
 彼は、正義と情熱で世界と戦い、そして、負けたことがある。
 剣戟は火花のようだ。高らかに、赤く、血の色のように鮮やかで、命にしがみつく私たちの叫びに似ている。負けたくない。死にたくない。生きていたい。誰かを傷つけてまでも、守りたいものがある。
 綺麗事で世界は回らない。思いだけで守れるものは限られている。
 それでも殺したくないと叫ぶ自分を、キサラギは捨てられない。何故ならそれが最後のむき出しの自分だから。剣も戦い方も知らない、守られるだけの子どもだった自分が抱えている、絶対に譲ってはいけない心だと思うから。
 ああ、でも、このままでは、命もろともすべてを失ってしまう――。


 観客席から背を向けたエルザリートは靴音高く通路を行き、闘技場の兵士に「馬車を用意なさい」と命じた。
 城には、オーギュストがいる。彼ならば、この戦いに介入し、対戦相手であるイルダスを止めることができるはず。
「その馬車、待った」
 しかし、立ちふさがった男に、エルザリートは顔を歪めた。
「ブレイド……! お前」
「いけません、姫様。お席にお戻りください」
「お兄様に会うのよ! 城にいらっしゃるのでしょう!? この剣闘、なんとしても止めさせなくては」
「何故です?」
 無邪気なほど真っ直ぐな問いかけに、エルザリートは息を飲み込んだ。
「何故って、……」
「イルダスは自由を賭け、キサラギと戦っています。殿下がそのような条件を出されたからです。彼はそれに従ったまでです」
「キサラギは戦いたくないのよ!」
「けれど死にたくもない。だから彼女もまた、戦っています。勝ちたくもないでしょうが、勝利の報酬はきちんと用意されていますよ」
 望むもの、勝利の等価となるものが支払われる。だから抵抗する必要はないのだと、彼は言うのだ。怖気を振るったエルザリートは、最強の騎士たちの中に名を連ねる男の後ろから、こちらにやってくる元凶を凝視した。
 オーギュストは、こんな血生臭く、湿気た通路の薄闇の中でも、光り輝いて見える。
「エルザ、席へ戻りなさい」
「いやよ」
 その光が今は忌まわしい。彼は、周囲の光を奪って、自らの輝きを増すのだ。
 光の底に、無数の呻きや血や涙を押し込めて。
「……キサラギの、わたくしの騎士とのしての立場を磐石にするために、イルダスを生贄にしたのでしょう。そうなのでしょう!?」
 エルザリートの詰問の声は、石壁を殴り、鋭く響いた。
 騎士としてのキサラギは少しずつ名声を上げてはいるが、手っ取り早いのは位が高い者に勝利することだ。そして、騎士として古参であるイルダスはその条件に適しており、また、主人であるオーギュストも、決して忠実ではない彼のことを処分する機会だと考えたのだろう。
 オーギュストの、少しも動かない表情に、エルザリートは絶望した。彼の揺るぎなさ、隙のなさを頼もしく思ってきた自分は、なんて愚かなのだろうと思う。
 ずっと見ないふりをしてきた。自分を生かすために、彼が犠牲にしていくもののこと。そうしなければ壊れていただろう。今こうして、一秒ごとに息が止まりそうになるように。死にたい。こんな、自分のようなもののために、奪われるものがあってはならないのに、彼は、そうではないと甘く囁いて、奪い続けてきた。
 そこにキサラギが現れた。彼女は、この国のものは正しくないと、この瞬間にも葛藤し、抗っている。
 キサラギは、断罪者だ。わたくしたちの罪を裁く。その曇りない剣で。
「お兄様は、キサラギを汚したいのね……? 彼女をわたくしたちと同じところに貶めて、安心したいんだわ。彼女の主張が、正しいと分かっているから」
 オーギュストの表情が、わずかに陰る。
 エルザリートは突きつけるように言った。
「あなたはキサラギが欲しいと思っている」
 ――それは、汚したいという欲望だ。
 観客席からの声が、複雑に入り混じり、混沌としたものとなって、通路に響いてくる。何を言っているのかは聞き取れない。言葉をなくしたものたちのうめき声のようだった。
 少し間をおいて、彼は小さなため息を零した。
「本人にも言ったが、お前は彼女から悪い影響を受けすぎているようだね。彼女の主張は確かに正しいかもしれないが、それは振りかざせば自らをも傷つける諸刃だ。今、この時、この場所では、あまりにも扱いが難しい。現状では、折っておくべきものだ」
 嘘つき、と心の内で呟いて、エルザリートは目を細めた。
「だが、変革の時が来る。……それも、すぐに。代替わりが、近いからね」
 はっと顔を上げた。陽の光の届かぬ通路のはずなのに、世界が影を膨らませていく。
 静かな男の声は、甘くとろける蜜のよう。飲み込めば最後、手放せなくなる、その言葉の意味するところは。
「結婚しよう。エルザ」
 絶望の色は、石の色。
 血を吸い、涙を吸い、吐き戻したものを踏みつけた、くすみ割れた闘技場の壁と同じものだった。
 足元から震えがくる。嫌だ、と心の底から叫ぶものに支配されそうになった時、わあっと、ひときわ高い歓声が上がったことに我に返った。
(いけない――)
 今それに取り憑かれては、キサラギを失ってしまう。
「……お兄様。この剣闘を中止させてください。彼女に人殺しをさせないで」
「それは、私への『お願い』かな」
 青ざめながらも願うエルザリートに、オーギュストは薄く笑った。対価は知っているだろう、と囁きかける顔つきだった。「結婚を受け入れろ」ということだ。
(ここまで、か……)
 覚悟をし、その分かりきっている交換条件を聞こうとした。
 だが、その時、痛いほど肩を掴まれた。
 キサラギに代わって護衛についているエジェが、エルザリートの肩に無遠慮に触れているのだった。
(エジェ)
 憎悪の目だ。エルザリートとオーギュストに対して、忌まわしいものを見るかのように顔を歪めている。そんな顔をするくらいなら近付かなければいいのに、自分を醜いものとして正直に捉えるエジェに、今のエルザリートは、何故かどこかほっとするものを感じた。
「王太子に願うまでもない。俺を使えばいいんだ」
 彼が告げたのは、そんな言葉だった。
「試合に介入させればいい。二人でならあの騎士に勝てる。その後は」
「君がキサラギに殺されると?」
 面白い冗談でも聞いたかのように、オーギュストが嘲って言った。だが、エジェはそれを完全に聞こえていないものにした。
「その後は、俺がいなくなれば済むことだ。剣闘を汚した俺を処分すればいい」
「では、この先もキサラギが剣闘する度に誰かが介入して、彼女の代わりに戦うのか? それは問題を先延ばしにしているだけだろう。君は無駄死にするだけだ」
「なんとでも言え、呪われた龍の王子。あんたが罠にかけたのは、キサラギだけじゃない。あんたが大事にしてるこの女を、確実に自分のものにしたいんだろう」
 エジェ、と目を見開いたエルザリートの唇から、驚きの言葉が零れ落ちる。
 憎悪を抱いた騎士の言葉は、しかし、どこまでもまっすぐだ。エルザリートが惑う道を、開く。
「王子の思惑にはまることはない。俺を使え。キサラギのためくらいなら、使われてやる」
「いけない」
 今度はエジェの顔が驚きを浮かべる。
 肩にかかった彼の手をつかみ返し、引き寄せて呟く。
「許さないわ、エジェ・ロリアール。誰のためであっても、使われていい命はないのよ」
 食い入るように見つめるエジェの瞳は、薄い緑の色をしている。兄のクロエは、もっと深い、濡れたような緑の色だった。エジェの目は草の色だ。きっとキサラギの育った草原は、こんな色をしているに違いない。
 その目を見つめながら、エルザリートは死んだクロエの言葉を使っている。――誰のためであっても、犠牲になってはいけないんです。
『自らの意志で戦わなければならない。剣という力も、心という思いも、誰のものにもなってはいけないんですよ』
「――エジェ、……わたくしは、」
 その時、奥から歩んでくる何者かに、一同は口をつぐんだ。
 こつこつこつ、と直線的に歩いてくるだけの足音の持ち主は、漆黒をまとっていた。近付くにつれて、廊下に備え付けられた薄明かりに姿を表す。
「……竜騎士?」
 半ば呆然としたように、しかし警戒心を露わにして、オーギュストが呼ぶ。

    



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