今から剣闘に挑むかのような装備をし、剣を帯びた竜騎士は、こちらから少し離れたところで立ち止まった。声をかけるでもなく、兜のせいでこちらを見ているのかも分からない様子を、オーギュストもブレイドも警戒した。ブレイドが一歩前に出て、竜騎士との間に立ちふさがる。
「なんだ、竜騎士。誰かからの言伝でも持ってきたか」
彼は答えない。だが、何らかの意思でもって、こちらに近付いてきたのだろうと思われた。意思らしい意思を示したことのない彼が、何のためにここに立っているのか……。
エルザリートははっとした。
「キサラギを助けて!」
叫んだ内容に、他の者たちもぎょっとなった。
「竜騎士、あなた、キサラギのことで来たんでしょう? あなたが戦いに介入すれば、それは龍王陛下の意志になる。この戦いを止めさせることができるわ!」
「エルザ、なんてことを言うんだ」
よりにもよって竜騎士だぞ、と続けたかったのだろう。しかしオーギュストには目もくれず、エジェを押しのけてエルザリートは叫んだ。
「あなたならキサラギを助けられる。この戦いを無効にして――!」
その声は届いたのか。
竜騎士はわずかに首を傾け、覗き込むような素振りを見せた。その視線を受けようと、身を乗り出したのを阻んだのはオーギュストだ。阻まれ、後ろから見ることになったエルザリートには、交わった二人の視線が、糸のように結び合わされたように思った。
「なんだ……?」と不審そうに呟くオーギュストの声を聞く。
そして、突然、彼は何かにぶつかられたようによろめいた。
「お兄様!?」
「殿下!」
その場にいた者たちが頭を押さえたオーギュストに気を取られた時、竜騎士は来た道を去っていた。
世界から切り離されたかのような後姿だ。拒絶しているわけではない。見えない。聞こえない。それが生きているのかどうか、色があるのどうか分からない、五感をすべて失い、感情すらも消している。
けれど彼はキサラギのために来た。エルザリートはそう直感していた。
「お兄様、どうなさったの」
竜騎士が去って抱き起こしたオーギュストだが、彼は答えない。視線が定まらないのは、何か別のものを見ているからだ。呼吸を見出し、眩暈を起こしたように瞳を揺らして、かすかな声で何かを呟いている。
「……やくス……『約す』……? 役目……?」
「殿下、どうなさいました」
どおっと、声が大気を揺らした。
オーギュストを支えながら、ブレイドが警戒するように辺りを見回した。
外で、別の場所、恐らく闘技場で、何かが起こっている。
「エジェ! 戻りましょう!」
ドレスの裾を持ち上げたエルザリートを、待て、と痛みを堪える様子でオーギュストが呼び止めた。
「待ち、なさい……あの騎士が来て、いる、ということは、龍王がいる、はずだ……」
「十分に気をつけますわ。お兄様は休んでいらして」
観客席へと駆け戻る。
ふと、以前ならきっとオーギュストの側にいることを選んだだろうに、こうして息を切らせて走り戻る自分は、すっかり変わってしまったのだと思った。そしてそのことを、彼は許さないであろうことが、息苦しさと寒気となって感じられるのだった。
「……殿下、本当に大丈夫ですか。竜騎士が何か」
「いや……分からない。目が合ったような気がした瞬間、凄まじい頭痛がした」
そして、声が聞こえた。何十人もの人間が大声で喋るただ中に突き飛ばされたような、吐き気を催すほどの痛みになった。
しかし一つの声だけが、静かに、耳元で囁きかけるように言ったのだ。
そのすべてを聞き取ることはできなかったが、男の声だった。低く掠れていて、言葉を発しづらそうにざらついていた。それは明確な意思を持った強さで『約す』と告げ、その他に拾うことができたのは『役目』『果たす』『王』など断絶的な単語ばかりだった。
そしてオーギュストは、以前にも同じような感覚を覚えたことがあった。
(何かを約す……役目がある……王に?)
そこから想像するのは、古い伝承だ。王と約者、そしてそこからさらに過去へと遡った、竜とルブリネルクの王のいわく。
あの不思議な感覚を呼び起こす、紅妃と竜騎士は何者なのか。
そして、エルザリートが行動したように、本当に竜騎士がキサラギのことでここに現れたのだとしたら、キサラギはいったいどういう存在なのか――。
*
剣に破られた岩が、破片となって飛び散り、キサラギの額を掠めた。鋭い痛みが走り、こめかみから、髪の間を伝って血が滴り落ちたのを感じる。汗に混じって、鉄の臭気が鼻をついた。
汚れを気にする暇もない。キサラギは剣を打ち返すと、距離を取ろうとするが、追いつかれて連撃される。受けるのがやっとの重さに、どんどん腕が下がってきた。
「はっ……はっ……」
「俺は、お前と遊びたいわけじゃねえんだよ。やるならやる、諦めるなら諦める、さっさと決めろ。でないと首を落っことすぞ」
剣が、重い。
このままでは、覚悟を決めたとしても、勝てる可能性が低くなる。
(もう、殺したくないなんて、言ってられないのか……)
視界が黒く塗りつぶされていく。
自身の呼吸が、乱れて引きつっている。
耳鳴りがする。イルダスが何を言っているのか、うまく聞き取れない。
「剣を持った瞬間に、傷付き傷付けられることは決まってるんだ。それが人間かそうでないかの違いじゃねえのか、竜狩りさんよ」
(…………けて……)
焦っているのとは違う。恐れでもない。ただ、無意識の望みが、心を殺すための準備をしている。
私は、生きる。そのためには。
でも私は、そんなこと。
(……助けて……誰か……!)
そんな奇跡は起こりうるとは思っていなかったはずなのに。
しかし、鈍い音がして割れた石が、キサラギとイルダスの間に落ち、進路を塞ぐ。砂埃が立ち、石つぶてが飛んできた。
場内がどよめいていた。キサラギも、呆然としていた。救いを求めたはずなのに、それが叶えられるとは思ってもみなかった。
そしてそれが、あの竜騎士だとは。
彼は、キサラギの無事を確かめるようにこちらに半身を向けていた。切りそろえられた銀の髪が、風になびく様に、面影が重なる。つまらなさそうに安全を確かめて、キサラギの不注意を咎めるように眉を潜めている。
「…………セン……?」
困惑が観客席で交わされている。
「龍王陛下の竜騎士……?」
「この試合……どうなるの。国王陛下が中止を宣言なさったってこと?」
そして彼らは席上に高貴な集団が現れたのを認め、一斉に立ち上がり、礼をした。人の壁に囲まれた龍王は、最上段の席に座り、じっと下方の闘技場を見下ろしているようだった。
(エルザは?)
怯えて縮こまる観客席には、あの頑ななほど凜とした立ち姿はなかった。この剣闘に憤っていたから、オーギュストのところへ行ったのかもしれない。
オーギュスト本人に中止を依頼するより、龍王の立場から中止を宣言される方が確実だった。だが、依頼したのがエルザリートやオーギュストだとしたなら、彼女たちはいったい何を交換条件にしたのか。
だが、キサラギは寒気を覚えた。嫌な予感がしたというのに、反応が遅れた。
すとん、と落ちるようにして、防具の前が開かれた。
「――ぁっ!?」
斬られた肩、素肌が外気に触れる。服の下に隠していた護符が落ちそうになったのを一緒に抱え込んだ。
竜騎士の剣が、キサラギの防具を斬り落としたのだった。
波のように会場がざわついた。
「――女?」
信じられない、という呟きが、まるで大波になってキサラギに押し寄せる。
とっさに隠したものの、胸元が晒されたのを、多くの者が見たのだ。こんなことで立ち上がれないようではいけないのに、キサラギは膝をつき、青ざめて震えていた。圧倒的な数の視線が、自分に注がれ、それを咎めているのだと思うと、足が動かない。
龍王が手を振った。竜騎士が、それに従って剣を閃かせる。
何をするのかが分かって、キサラギは絶叫した。
「だめ、だ……、だめだ、セン! やめて!」
イルダスは、竜騎士が現れた時点でこうなることを予測していたのだろう。竜騎士に向けて噛み付く寸前の獣のように、緊張の面持ちで剣を構えた。
「イルダスさん! 逃げて!」
だが、彼は動かない。キサラギは胸を押さえていた手を離して、剣を片手に竜騎士に向かう。
だが、振り返りざまに剣が打ち払われる。
「ぅ……!」と、反撃のあまりの強さにキサラギは姿勢を保つことができず、後ろへ倒れた。不自然に手をついたために、手首を痛めた。剣がうまく持てない。防具ごと切られた胸元から、血が滴り落ちるのが分かる。
その隙に迫ったイルダスは攻撃を仕掛けたものの、これも竜騎士は払った。
そして、それが最後だった。岩が深紅の飛沫で彩られる。
竜騎士の二撃目は、イルダスの肩から脇腹にかけてを斬り捨てた。
傷は、深かった。自らの血だまりの中にイルダスが倒れる。その目は、まるで自らを哀れむかのように笑っていた。
「あ……あ、あ……!」
戦意を失い、守れなかった後悔で膝をつき呻くキサラギを、竜騎士は見下ろしていた。彼の血に濡れた剣は、キサラギに振り上げられることはない。いっそそうしてくれたなら、自分は戦おうと思えたのに。
どうして、と呻きの合間にキサラギは問うた。
「どうして、殺したんだ……!」
答えは返らないと知りながら、それでも問わずにはいられなかった。
センは強かった。人を傷つけることを厭わない性格をしていた。けれど、誰彼構わずに命を奪うほど無情でもなかった。
「答えろ、セン!」
顔を歪めて睨み上げたが、竜騎士は微動だにしなかった。やがて、何かに呼ばれるようにして、ふらりとその場を立ち去った。
エルザリートが外套を抱えて走ってくる。ドレスの汚れを厭うことなく、まっすぐに。
未だざわめきの止まない中、唇を噛み締め、ちくしょう、と呻くキサラギは彼女に抱かれながら、その場を立ち去ることしかできなかった。
キサラギとエルザリートに、龍王からの呼び出しがあったのは、その翌日のことだった。
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