第8章 沌   
    


 騎士の正装をまとったキサラギは、同じく謁見のための壮麗な衣装に身を包んだエルザリートとともに、指定された謁見の間へ向かうことになっていた。
 エルザリートは、キサラギを一目見た瞬間に、悲しげに眉尻を下げ、そっと腕に触れる。
 その手に触れ返しながら、キサラギはなんとか笑顔を作って見せた。大丈夫だよ、と言える精神状態ではなかったけれど、人が案じてくれるのを受け入れられるくらいには回復していた。
「もう行くの? 呼び出しの時間には早すぎるんじゃない?」
「先に行きたいところがあるの。付き合ってちょうだい」
 付き添いはいない。二人だけでの登城だった。すれ違う人が誰しも、キサラギを見て、目や声に意味ありげなものを浮かべる。複数人で交わされる言葉には、キサラギの性別についての話題が含まれているのだった。
 女騎士は、法律や規則に反しているわけではない。ただ、騎士であることは過酷であるため、これまで女性がいなかったというだけなのだ。女なのにという好奇心と賞賛、女のくせにという嫌悪と拒否感、貴族たちは二つの立場に分かれ、やがてはキサラギを騎士としたエルザリートの批判へと向かうだろうと思われた。
 エルザリートは、まるでその視線を避けるかのように、人のいない奥へと進んでいく。「この先は」と口を開いたのは、ここからは誰もいないことを確信してのことだった。
「わたくしの秘密の場所。誰でも入ることができるのだけれど、あまり人は来ないようね。密会するにも、壁に目があるから薄気味悪いと評判なのよ」
 扉を開く兵士すらいない。キサラギがエルザリートに代わって扉を押し開けると、その先は、天井の高い、長方形の部屋になっている。
 がらんどうの部屋に首をかしげたのもつかの間、中に入ってその意味を知る。
 壁には、無数の絵がかけられていた。描かれているのは、壮麗な衣装をまとった男女だ。
「歴代の王族の肖像画が、すべてここに集められているのよ。こんなところで密談などすると、何があるか分からない目の数でしょう」
「すごい数だね……というか、すごいよ、まるで本人が額の中に閉じ込められているみたいに上手な絵ばっかりだ」
「宮廷画家の絵を『上手』と評価するのはあなたくらいよ」とエルザリートの笑い声が軽やかにこだまする。
 キサラギの知る絵というのは淡墨や淡色の色使いで描かれたものばかりで、見ただけで重量感を感じるような王国地方の絵は、何か別のもののように感じられた。本物そっくりを写し取り、そこに閉じ込めようとするような描き手の鬼気迫るものに加え、描かれた人物の見せつけるような威厳と迫力がある。
「あなたは以前、わたくしに『この絵が好きか』と、壁にかかった絵を見せて尋ねたけれど、ここにはわたくしが好きだと言える絵が一枚だけあるの」
 これが先代国王、これが嫁いだ姫君、と肖像の人々をすべて記憶しているらしいエルザリートは教えてくれるが、さっぱり覚えられない。しかも、みんなどこか似たような顔をしているのだ。キサラギがそういう反応になると見越して、エルザリートは歌でも歌うかのように、名前と立場を紡いでいく。
 キサラギは、一つの絵の前で立ち止まった。
「ああ、それは、龍王オルゲールと妾妃ユートピアの肖像よ」
「なんだか、この女の人の目、怖いね」
 赤い髪と琥珀の瞳が美しいというのに、今にも唇を噛み切って血が滴りそうなほど、その内側に激しい感情を秘めているような目をしている。
「画家もそれを汲んで、そのように描いたんでしょうね。このユートピア妃は、もとは公爵夫人であったところを、夫と子どもと引き離されて、王に召されたの。彼女は激しく抵抗したけれど、心残りであった子どもが王の手のものによって殺された。夫を守るために王に恭順の意を示したけれど、内心は、激しく憎んだでしょうね」
「ユートピア……アレイアール家の?」
「よく知っているわね。誰が話したの?」
 オーギュストが、というと、納得したようだった。
 やがて自ら死を選び、彼女が生き、愛した痕跡をすべて消し去られた女性の目は、画面の外側でこれを見る者に、憎しみと呪いを訴えるかのような暗闇に塗りつぶされていた。
「あの竜騎士は、アレイアールを名乗っていたわね。ユートピア妃も赤い髪をしているし、竜騎士を連れてきたという紅妃は、もしかしたらその子孫やその関係者なのかもしれないわ」
 その前を通り過ぎて、少ししたところで「この絵よ」とエルザリートは立ち止まった。
「この絵が好きなの。アゼスレイタ王妃と、シリウスレイ王子の肖像画。もう三百年以上前のものよ」
 椅子に座った、柔らかそうな金の髪の女性が、微笑みながら息子の手を取っていた。母親のそばに立つ十二、三歳くらいの少年は、、大人びた眼差しでこちらを見つめ返している。
「対照的でしょう。王妃の金の髪と瞳、王子の、銀の髪と銀の瞳。薄気味悪い肖像画の中で、この一枚だけが光を放っているように見えるの。穏やかな表情をしていると思わない?」
 エルザリートの楽しそうな声が言う。
「王子は、どことなくオーギュストに似ていると思っているの」
 キサラギは唇を震わせて、うん、と頷いた。
 ――ここにいた。
 ここに、手がかりがあったのだ。
「そっくりだ、彼に……」
 センとオーギュストは、そっくりの顔をしている。
 つまり、オーギュストに似た王子ということは、この少年は幼い頃のセンとそっくりだということ。
 そして、髪や瞳の色、実際の年齢を推測すれば、この絵の少年は――。
「……この、王子様は、どうなったの?」
「政変が起こり、王も王妃も殺され、王子だけが逃がされた。結局王子も殺されたという発表があったにも関わらず、亡骸は見つからなかった。これ以降、シリウスレイ王子の子孫だという輩が現れたりしたけれど、本当にそうなのかは誰にも分からないまま。だから、彼は幻の王子とも呼ばれているわ」
 キサラギはその三百年後の物語を知っている。
 彼は竜人の力を得て生き延び、一人の少女を愛する。そして狂った少女を追って旅をする中で、灰色竜を狩り、復讐心にとらわれた竜狩りに出会うのだ。
 そしてその先の物語は、まだ誰も知らない。
「……さあ、気晴らしはもうおしまい。そろそろ行きましょう。いったい何を言われるか、覚悟しておかなければね」
 部屋を去る間際、もう一度振り返る。
 シリウスレイ王子も、この場所を歩いたのだろうか。
 あの強い眼差しを持った少年なら、一人になるために、城中の静かな場所を把握していそうだった。

 謁見の間の控え室に入ると、時間の進みが遅く感じられた。あまりにも静かだったせいもあるだろう。息を殺さなければ、聞きとがめられるような、緊張感に満ちた静寂で息が詰まる。煙のように漂う薬めいた香のにおいも、かすかな頭痛に変わりつつあった。
 だというのに、無数の人の気配があるのだった。風の音が聞こえる度、窓や扉をかすかに揺らすのは、風ではなく、見えない誰かなのではないか。
 キサラギがその度に警戒して視線を動かしたり、そちらに意識を向けたりすることに、エルザリートが気付いて薄気味悪そうにしていた。だが、何も言わないのは、彼女もまた、この場所の不思議な気配を感じ取っていたからだろう。
 案内役が呼ぶ。エルザリートが立ち上がり、キサラギを連れて、奥の間へと進んだ。
 灯りが絞られている。周囲が見えにくい。窓にも帳が下りて、香の煙で白く霞んでいる。
(嫌な場所だ)
 段上の椅子を見上げるところに跪き、訪れを待つ。
 椅子の奥の幕が引かれ、足を引きずるようにして、龍王が現れた。キサラギは、床に視線をやりながら歩き方に耳を澄ました。以前より、歩みも遅く、足を上げることができず、ずるずるという音が続いている。足が萎えているのか。椅子に座るのも、まるで荷物を投げるように、どすん、と重い音がした。
「……面を上げよ」
 ささやき声は病人のようだった。声を発する力がないのだ。
(弱ってる……)
 座っているのも億劫そうだ。呼吸が乱れ、ひゅうひゅうという音が混じっている。椅子の肘掛にかかる手は、骨がむき出しになっているのかと思うくらいに細く、皺としみで黒ずんでいた。
 声を発することの困難な王に代わって、現れた男が滔々と述べた。
 曰く、先日の剣闘試合は見事であった。王太子の騎士相手にいい勝負をした。先日からお前の名は聞いていたが、その腕は確かなようだ。性別が女であると聞いたが、それは確かか。それを知って、騎士に選んだのか、ランジュ公爵家のエルザリート。
「はい」と淑やかにエルザリートは答えたが、何のために呼ばれたのかを推測し、その答えを頭の中で巡らせている様子だった。
「龍王陛下は、そなたの騎士をお召しである」
「恐れながら、陛下。それは、」
 ここから駆け引きが始まるはずだった。エルザリートは譲らない気でいたし、龍王の言葉を代弁するはずの男も、王の命令を断るなどもってのほかという態度を崩さないでいただろう。
 その当事者である龍王が、ゆっくりと手を挙げてそのやりとりを遮らなければ。
「…………」
「……陛下? いかがなさいましたか」
 ゆるゆると手が揺れる。
 息ばかりのかすれた声が、告げた。
「……騎士よ。そなたを……」
 その言葉よりも、キサラギは、相手の目を注視していた。爛々と光っているそれを、見たことがある。
 暗がりに潜む竜の目だ。
「――我が、妃に」
 そう、男は言った。
 その場にいた者は、王の言葉を聞き流そうと必死だった。だが、代弁師は真っ青な顔を引きつらせ、騎士たちはキサラギを凝視し、エルザリートは凍りついていた。
(妃に?)
 キサラギが顔をしかめた時、言葉を奪われていたエルザリートがようやく声を上げた。
「この者はわたくしの唯一の騎士でございます! そのご命令は、果たすことができません」
「陛下! なんということを。この者は騎士であっても、異邦人であり元奴隷でございます! それを龍王の妃に召されるなど」
 二人の必死さに、キサラギもようやくことの重大さを理解し始めた。
 王の命令が絶対だということは、嫌というほど沁みている。その王がキサラギに宣言した、ということは――自分は、この男と結婚させられる?
「……血族の……宿願を……果たさねば、ならぬ…………約さねば……ならぬ……」
 うわ言のように何かを言いながら、じっとキサラギを見ている。時々、眩しそうに顔を歪める。この男には、いったい何が見えているのか。
 龍王の不意の気まぐれは、よくあったことなのだろう。それが弱っている状態で口にするとは思っていなかったのか、代弁者の男は戸惑っていたが、主君の意志に従うことにしたらしい。エルザリートに向かって、再び横柄な口を聞いた。
「え、エルザリート・ランジュ。……陛下はこのように仰せだ。そなたの騎士を、龍王のものとして召し上げる」
 是と答える以外の選択肢がない。分かっているが、エルザリートもキサラギも抵抗するつもりでいた。
 ただ、エルザリートとは異なり、キサラギは、早めに見切りをつけて、龍王に従おうと思っていた。今度は、イルダスの時のように迷わず、素早く決断すべきだと考えていたのだ。
 エルザリートがどのような手を使うのか。その動向を見てからと思っていたキサラギは、跪いていた彼女が立ち上がり、隠し持っていた何かを投げ捨てたのを見て、叫んだ。
「エルザ!?」
「公爵令嬢! なんの真似だ!?」
 床を滑ったのは短刀の鞘。刃をむき出した武器が、彼女の手の中にある。
 控えていた龍王の他の騎士たちが立ちはだかる。エルザリートは切っ先を彼らに向け、にっこりと笑った。
「キサラギはわたくしの騎士です。それを奪うというのならば、例え龍王と呼ばれる方でも、許すわけにはまいりません」
「エルザ!」
 キサラギは横から彼女の手首を掴み、ひねり上げた。あっさりと短刀が落ちる。
「何してるの、エルザ! こんなことして、無事じゃすまないでしょう!?」
 振り仰いだ彼女の表情に、キサラギは言葉を失った。
 静かだった。笑っていた。晴れやかだった。こうすると、最初から決めていたのだ。
「あなたのせいではない」とエルザリートは囁いた。
「このままではわたくしは逃げられないから。逃げるためにこうするの。言ったでしょう、いつか道は分かたれると。今が、その時なのよ」
「死刑だ!」代弁者が引きつった声で叫んだ。
「龍王陛下に刃を向けた愚か者を処刑せよ!」
「待ってください! 王の妃になります! エルザリートは関係がありません!」
「黙れ! お前のように汚れた者を王家に関わらせるわけにはいかん! 捕えよ!」
 騎士たちがキサラギとエルザリートを手を後ろに回す。突き飛ばされて再び膝をつかされながら、玉座の王をエルザリートは優しい眼差しで見上げた。
「陛下。あなたのお目は正しい。王太子ですら、彼女には目を奪われました」
「黙らせろ!」
 だが公爵令嬢を殴るほど、龍王の騎士は格が低くない。拘束を強くして、痛みで黙らせることを選んだが、エルザリートはそれで心を折られるほどか弱くはなかった。
「ですが、キサラギは渡せません。彼女を渡せば、あなた方に汚されるからです」
 無理やり立ち上がらせられて、連れて行かれる。
 キサラギはエルザリートと引き離され、地下に降りると、黴臭い牢獄に押し込められた。
(なんてことを、エルザ……!)
 王に剣を向けた者の末路など、簡単に想像がつく。キサラギが要求を呑んだとしても、なかったことにされて二人とも罰を受けるか、エルザリートだけが見殺しにされるかだ。
 どちらにしろ、彼女は全て奪われる。彼女に庇護される立場であるキサラギとエジェは、自由になればそれぞれでやっていけると思ったのだろう。遺される者がないと思うからこそ、あんな無茶な行動をした。
 牢獄に囚われて、ここから出たとしても出来ることはない。もしエルザリートを助けられるとしたら、オーギュスト以外にはいないだろう。彼女のために罠を張り巡らせていた彼ならば。
 唇を噛む。ここに至って、また他人の力を頼りにしている。
(剣ってなんだ)
 キサラギは考える。
(剣って、戦うって、どういうことなんだ)
 息を切らし、傷をつけ、自らも傷つくことで、得られるものがある。けれど、それだけではないのだ。そうでなければ、エルザリートの強さが分からない。
 重なるのは、故郷の親友。自らを捨てて、キサラギを守ろうとしてくれた。
 その時、彼女はなんと言ったのだったか――。
「…………」
 顔を上げる。
(……この国の流儀で、私にできることが、ある)
 だがそれは、必ず果たせるとは限らない。
(いつも勝てるとは限らない。生き残れるとは限らない。ただ、可能性を高い方を選んできただけ)
 そして今回は、その可能性がとても低いというだけなのだ。
 もう迷うことはできなかった。迷うたび、揺れるたび、取りこぼしていく、失われてしまうものがある。ならば、もうなりふり構わず、先のことも考えず、賭けなければならない時がある。
 キサラギは目を閉じ、じっと覚悟を固めていく。
(もう十分、助けてもらった)
 心の中に浮かぶものたちに、謝罪と感謝を述べて、目を開いた。
「――誰か。誰か、いるか!」
 光のない通路に向けて声を放つ。

「騎士キサラギが剣闘を申し込む。賭けるものはランジュ公爵令嬢エルザリートの永久の自由。――相手は龍王、そして、竜騎士だ……!」

    



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