キサラギの初手は、意外にも逃げることだった。橋を駆け上がった竜騎士の攻撃を真正面から受けることなく、細い橋を一飛びで渡り、足場に着地すると反転、迫ってきた攻撃を払う。
 竜騎士は、やはり速い。無駄のない動きで相手を一撃で屠ろうとする。彼は、人間がどのようにすれば一度で息の根を止められるのか知り尽くしているのだろう。武器のあまりの切れ味の鋭さに特別なものかと疑う者もいたが、どこででも手に入るものだと知って落胆したようだ。
 そうすると、やはり彼の出自が気になった。オーギュストは、眼下で繰り広げられる鬼ごっこめいた剣闘を見つめる。
『水』の闘技場を選んだのは、竜騎士の機動力を下げるためだろう。竜騎士と接近する機会をなるべく減らすために、自身の退路を削ってまで、水に囲まれ橋と足場しかないこの場所を選んだのだ。それだけ、キサラギには、竜騎士の剣を受けられる自信があったにちがいない。
 確かに、退避も、攻撃を受け流す技量も備わっているようだ。ただ、激しい打ち合いにならないために観戦者からは不満の声が上がっている。
「ああ、まだ終わっていなかったの。さすがだわ」
 声とともに香りがオーギュストを取り巻いた。どこか異国の雰囲気がある、煙のような花の香りだ。
「彼女との剣闘が最長記録なのではありませんか、殿下?」
「紅妃」
 お隣よろしい? と尋ねられたが、答えを返さないうちに、彼女はオーギュストの隣に座った。
「陛下の隣でなくてよろしいのですか」
「あなたと観戦した方が面白そうなのだもの。陛下は、ずっとうわごとを繰り返していて、つまらない」
 扇の内側に笑う口元を隠す。
 観客がどよめく。キサラギが足場から落下した。だが、すぐさま水のたたえられた地表を蹴り、降ってきた竜騎士の剣から逃れる。
「殿下はどう思いまして? あのキサラギという少女」
「どう思うか、ですか」
「わざわざこんな遠いところまでやってきて、いったい何を望むというのかしら? 思えば、彼女は自分のために戦ったことはないのではないのでしょう。止むに止まれず、誰かのために、戦っているのではなくて?」
 オーギュストは眉根を寄せた。キサラギが何故王国地方へやってきたか、だと?
 だが、新しい騎士について尋ねた時、エルザリートが言っていた。
「人を探しに来た、と……恋人か、それに近しい存在を」
 それをエルザリートに語ったということと、今戦っている娘の姿が重ならない。水路を避けて水の溜まる、最も低い足場を踏み、飛沫を散らしながら鬼気迫る表情で剣を振るうキサラギは、まるでお伽話の戦士だ。清廉潔白な心で、守るべきもののために戦っている。
 何を守ろうというのか。この、血だまりの中に死が蔓延し、腐臭に満ちたこの国で。
「ふうん、人探し……。だとすれば、よほどの想いなのね」
 紅妃がそう笑み含んだ瞬間、オーギュストの内側で何かざらついたものが焦げた。なんだ、と思う間もなく、竜騎士の剣がキサラギの肩を掠める。流れた血が、水の中にぽたりぽたりと滴った。
 ぞくり、と背筋が総毛立った。
「――飢えていますわね、殿下?」
 紅妃はそう笑った。
「キサラギに、あなたは飢えを感じている。同時に、あなたの大事なエルザリートを惑わした彼女を憎んでもいる。彼女を欲する気持ちと、憎悪が、内側で揺れ動いているのが見えるわ。けれど何故そう感じるのか、自分では分かっていない」
 そうでしょう、と視線を向けて凝視するオーギュストに、身体をくねらせて女は笑っている。
「さすが腐っていても竜の血。約者たりうるものの気配をきちんと感じ取っている」
 オーギュストは息を飲み下し、その困難さに顎を引いた。
 確かに、乾きを覚えていた。
「……何の話だ、紅妃」
「あなたは資格の持ち主であり、そしてその約者であるのは、ランジュ公爵家のエルザリートとさだめている。けれどもっと高位の約者の力の持ち主がいるのです。あそこで戦っている娘……」
 歓声とどよめき、そして、キサラギの身体に剣が埋まる音が、どん、と衝撃となって響いたように思えた。
 紅妃の声は、麗らかで歌うようだ。そうして、憐れんでいる。
「愚かな子……。こんなところまでやってきて、この地に、そして己が最も憎む竜人たちによって、命を散らされるなんて」

   *

 イサイがいつか言っていた。「剣に思いを乗せなさい」と。
「戦うのに必死で、何かを考えている暇なんてありません」
 キサラギがそう答えると、彼は静かに笑いながらそうではないと首を振った。
「心の中にいつも据えておくのです。自分が何のために戦っているのか。譲れないものは何なのかを。そうすれば、何も考えられなくなったとしても、身体が勝手に動くのです。そして、それは力となって剣に宿る」
 斬れないものも斬れるようになる、と言うので、キサラギは怪しんだ。この人は嘘を言うことはないが、冗談を口にすることは時々あったからだ。
 心が刃を鋭くするなら、いくらでも気持ちを乗せよう。しかし本当にそうだとしたら、この世は凄腕の戦士で溢れていることになる。
 キサラギが疑っているのを見抜いて、イサイは少し声を立てて笑った。
「なんで笑うんですか」
「真面目だなと思ったんですよ。あなたは自分の力を頼りにして、生きていこうと思っているんですね。戦いの中で、優しさは何も救わないと、そう考えている」
「普段はともかく、戦いでの優しさは、どちらかというとよくないように思います」
 この頃、キサラギは自分の中でどちらともつかないものを抱えていた。同年代の少女たちが恋をし、娘らしい装いをする中、自分はそうではないと遠ざかりつつも羨む気持ちは消えず、また親友のユキのように強く優しい女性でありたいと、愛した姉の姿を重ね合わせて憧れてもいた。一方で、少年たちよりも抜きん出た自身の戦闘能力を自負してもいて、そういった中では『優しさ』とは甘さや弱さやなよっちいものと忌避されていた。
 誰よりも、強く。早く、竜狩りになるために。キサラギにあったのは、それだけだった。
「どんなに力を手に入れたとしても、どれだけ強くなったとしても、最後に残るのは心の中にあるものです。強くなるだけではいけません。心を磨いておきなさい。健やかに、伸びやかに、広い心を持った人間になっておきなさい」
 そのことが、いつかあなたを助けてくれるでしょう。
 キサラギはその言葉を聞きながらも、真剣になったわけではなかった。ただ、記憶として残っただけで、それきり忘れてしまった。

 そして、今になって思う――どんなに強くなったとしても、誰かを傷つけることを、戦うことを厭わなくなったとしても、その力だけではどうにもならないことがこの世界にはある。
 戦い続けたその果てにあるはずの未来が見えなかった、かつての自分。それから解き放たれることで、キサラギは草原から旅立つことができたように、力にしがみつくことで見えなくなってしまうものがあるから、心を磨けと言われたのだ。
 最後に救いとなるのは自分の心。自身を救い、守りたいものを守る。
 だから、今、すべきことが分かる。
「っ!」
 ぬめる足場に足を取られる。姿勢を崩したことによって剣を受け損ねる。肩に入った刃が滑らかに肉を断った。致命傷となる前に逃れたものの、どっと血が噴いたのが分かった。じわじわと、濡れた感触が下衣を伝ってくる。
 時間がかかりすぎていた。キサラギの技量では、長時間戦うのは不利だ。最初の一撃をしのげば、あとは慣れるかと思ったが、相手は疲れ知らずのようで、息が上がっている様子もない。それとも、そういう苦しみや痛みの感覚が失われているのか。
 ぽたり、と溢れた血の雫が水の中に落ちる。自分の身体が、香水をまとうように血臭をまとっていた。
 竜騎士の動きが、ぎこちなくなる。わずかに口が開いていた。乾きを癒そうとするかのように。
「……セン……」
 激しい打ち合いが止み、どちらとも動きを止めて相手の出方をうかがっていた。動き続けていた身体が、小休止を得たことで、一気に疲労を叫び始める。身体のあちこちが軋んだ。斬られた肩は熱く、きりきりとした痛みが走る。腕が、上がらなくなってきた。
「セン……」
 呼びかけても戦意を失わない様子を見て、キサラギは剣を握り直す。乾いた笑いが漏れた。
「……あれだけ我を失うことを嫌がってたくせに、こうなってるんじゃざまあないね。無駄なことはしないんじゃなかったの?」
 彼が本人でなくともいい。言ってやりたいことがたくさんあるのを、この際だからとぶつけてやる。
「かっこつけて、一人で戦って、その結果がこれなのか。自分を失って、誰かの言いなりになって、あんなに嫌っていた血を浴びて。言っておくけど、今のあんたは、私が狩らなきゃならない竜人だよ。それとも、私に狩られたいの?」
 寒気を覚えて震えた。血の気が引いていた。肩の傷の血が、止まらないのだ。
 覚えがある感覚だった。これほど死にかけたことは、あの時の一度しかない。
 おあつらえ向きにそろそろ雨が降るだろう。冷たく細い、銀の光を帯びた雫が、天地を繋ぐだろう。
「でも、いいよ。どうしてそうなったのか、なんとなく、分かるから」
 空と風の雰囲気が変わった。重く、湿り始めている。たゆたう水の揺れが、大きくうねりだした。水が流れ込み始めて、水面がせり上がってきている。
「セン。――黒竜は、どうしたの」
 キサラギと出会った時、彼は自らも竜を追っていた。
 黒い竜、それは、彼が竜人に変えた少女であり、短い時間を共に過ごした恋人でもあった。
 自我をなくして狂った彼女は、竜としての衝動のままに人を襲っていた。センは彼女を殺すために旅をし、その最中にキサラギと関わることになったのだ。彼は、その黒竜を追うために、草原から去っていった。
 もしセンが、一箇所にとどまり、一人でいるとしたら、それは目的を果たしたということではないのか。
「――黒竜を、狩ったんだね」
 かつて愛した者を手にかけた、自責と後悔。
 そしてこの場所。ルブリネルクという、血と死に満ちたこの場所に囚われた。彼は、そのことによって自我をなくし、飢えた獣のように戦い続けるものになったのだと、キサラギは考えたのだった。
「…………」
 竜騎士が、口を開く気配を見せた。だが、そこから言葉が出てくることはない。
 しかし視線が、キサラギの足元に、水に溶けずに溜まり始めた血の色に注がれている。
 ざわり、と周囲の空気が波打った。キサラギは剣を構えなおした。
 次の瞬間、竜騎士が吠えた。人間の声とは似つかない、血の底から響く声だ。キサラギはその中に、意思めいたものを聞き取った。
『欲しい欲しい欲しいその血が血の血を約せ約す手に入れる欲しいすべてが』
 竜騎士が、動く。内側に渦巻く嵐のような望みに走らされた。
 その刹那に、キサラギは目を閉じる。
 この場所で、自分は何を得たのだろう。自身の力のなさを思い知り、どうにもならない状況に憤り、それでも支え守りたいと思う少女に出会った。そうしてそのすべてを賭けて戦っている。けれど、どうやら守りきることは叶わないようだ。

 竜騎士と戦うことを宣言した直後、キサラギは、囚われているエルザリートに会っていた。彼女は「馬鹿なことを言ったものね」と肩をすくめ、そして言った。
「これは、わたくしが選んだこと。わたくしはあなたを守りたかった。そして、わたくし自身を守るためにこの選択をしたの」
「……どういうこと?」
「このままでは、近いうちにわたくしはオーギュストに召し上げられる。それは、何としても避けなければいけない。だから、龍王陛下の怒りを買うことにしたの。いくらお兄様でも、陛下に逆らってまでわたくしを無傷のまま助けることはできないでしょうから」
「でも、エルザ」
 首を振る。これから来るもの、死、あるいは、地の底へ落とされ死んだほうがましだと思えるような場所に行くかもしれないというのに、エルザリートは清々しかった。いつも陰鬱に彼女を覆っていたものが、まったく取り払われていた。
 これまで持っていたすべてを無くすというのに、解放されたかのように身軽に笑う彼女は、綺麗だった。
「この今が、わたくしたちの道の分かたれる瞬間なのよ。キサラギ、あなたの望むことをなさい。わたくしは、わたくしの力で、なんとしても生き続けてみせる」
 足掻いてみせるわ、と、これから戦いに臨む強さでエルザリートはしばしの別れを告げた。
「次に会うときは、以前のわたくしとは違ってよ」
 でもキサラギは分かっていた。もう自分たちは、二度と会うことはない。それを、お互いに知っていると。

    



>>  HOME  <<