第2章 貴   
    


 キサラギがあの男を追うということは、故郷に別れを告げなければならないということだった。
 地平線からやってくる夜明けが、空を染め、星を隠していく。ほんの少し、みんなと話をして、騒いで、頑張れと応援されて、とりとめのないやりとりを繰り返していただけなのに、あっという間に朝がやってくる。
 快く出発を許してくれた竜狩りの仲間たち。キサラギのことを姫だとかひよこだとか呼びながら見守ってくれた。女親がいないからと、女衆はみんなしてキサラギの日々の生活のことに気を配ってくれた。同年代の友人たち。親友のユキ。そして、たった一人の家族である養父イサイ。
 門の上の見張り塔に出ていると、下の道を、その父イサイが歩いてくるのが見えた。ここにいると分かっていたのだろう、キサラギと目が合うと、手を振り、梯子を登ってやってくる。キサラギが手を貸すと、「すみません」と微笑みながら引き上げられた。
 硬い手のひら。剣を握って、それが馴染んでしまった感触だった。
 涼しく鋭い、水と光を含んだ風が吹く。まだ酔いの醒めきらない頬には心地いい。
「ゴウガ隊長たちと呑んでたんじゃないんですか」
「呑んでましたよ。でも、みんなすっかり寝入ってしまって、一人でいるのもつまらないので、散歩に出たんです」
 キサラギの直属の上司であるゴウガとその周りは、セノオでも酒豪の集まりだった。その彼らとずっと一緒にいたのに、この人は涼やかな微笑みを浮かべている。我が養父ながら、恐ろしい体質だった。
「休まなくて大丈夫ですか。じきに出発でしょう」
「実は、早々に引き上げてユキのところにいたんです。あそこなら誰も邪魔しに来ないから。二人で話をして、ゆっくり寝てきました」
 それはよかった、とイサイは笑った。街にいるときはとにかく飲めるときに飲む、騒ぐときに騒ぐ、という竜狩りたちの狂乱ぶりをよく知っているからだ。
 穏やかな白皙に太陽の光が当たる。そうすると、この人が草原の人々とは違う肌の色を持っていることが分かる。キサラギのように黄色ではなく、白く輝くのだ。
 イサイは、王国地方から海を渡って草原に来た人だ。王国での本名があるはずだが、彼は『異彩』という意味の通称を名乗っている。その場所がどんなところなのか、どのように旅をすればいいのかを聞かせてもらいはしたものの、捨て去った故郷にどんな思いを持っているかは聞いたことがない。触れてはいけないところだと、幼い頃から思っていたから、この時も深く聞いていなかった。
「この前、あなたがセノオを出た時にも思いましたが、やはり、寂しいですね。しかも、今度はもう一度会えるかどうか分からない」
 イサイは目を落とす。
「王国地方の在り方を、きっとあなたは嫌悪する。誇りが踏みにじられ、命をないがしろにする所業に怒るでしょう。それが正しいのです。けれど、その思いを折ろうとする者たちが、あそこには蠢いている」
「そんなに嫌なところなんですか。ルブリネルクって国は」
「草原地帯では重要視されなくなった、王という権力者を戴いている土地です。王の気質で、国と民の在り方が変わります。私が出てくるときはひどかった。今もそれが継続されているかもしれませんから、本当は、あなたを行かせたくないのです」
 気をつけてください、とイサイは言った。
「ルブリネルクは、王と貴族、騎士と民と奴隷という身分に分かれています。あなたは稀有な使い手ですから、それに目をつける輩が現れるでしょう。自分の剣を、決して利用されないでください」
 風が、止んだ。
 そして、と少し間をおいて、彼は慎重に忠告した。
「絶対に、王侯貴族には近づかないように。……あの国の民は、すべて、弱くとも竜人なのですから」
 キサラギの内側でいくつもの景色がひらめく。巨大竜。人を襲う竜たち。自我を保てなくなった竜。山奥の隠れ郷。銀の色を持つ男。
 ――竜人。
 竜と人の間の存在。竜に変じる力を持ち、人の姿をも持つはざまの生き物。
 竜の血に触れたとき、人間はその姿を失い、竜に姿を変え、見境なく人を襲うものに成り果てる。人を食らうのは彼らの本能だ。血を欲して、人を狙う。
 キサラギは、人を竜に変えるのは本当は竜人の血だということを知っているし、その竜人たちには自我を保つ個体があって、郷を作り、普通の人々のように暮らしていることも知っている。そして、竜人はある日突然何がしかの要因で自我を失って狂う。これを『失竜人』という。
 草原地帯の人々に、この竜人の真実は知られていない。竜の血が危険だということだけが広く伝わっている。草原地帯の子どもたちが教えられる『竜の血に触れてはならない』という言葉の由来はここにある。
 そして、ある竜人は『人間の血が竜人の願いを叶える』と言ったが、それが真に何を意味するのか、キサラギも、誰も、分かっていない……。
「…………」
 キサラギは、イサイたち王国地方の人間は、竜人と人間の混血化が進み、ほとんどの者が竜人としての潜在的なものを持っているのだと聞かされていた。イサイの言うように王侯貴族に気をつけねばならないのだとしたら、王家にまつわる者たちは人間よりも竜人に近いということになる。王国地方の竜人たちの中にただの人間のキサラギが現れれば、その血を目指して集まってくることは予想できた。
(でも、それがあいつを引き寄せてくれるかもしれない)
 考えていることが分かったのだろう、イサイが小さく笑った。
「あなたは、きっとどこにいてもあなたですね」
 剣を握る者の手は、優しさも知っている。
 キサラギの頭を撫でるその手は、慈しみに満ちている。
「どうか、私たちが愛した、あなたのままであってください」
 キサラギも笑った。
「帰ってきます。必ず。ここが、私の故郷ですから」

   *

 約束の夜会の日までに、キサラギはエルザリートの護衛を務めた。と言っても、ヴォルスとルイズのどちらかと組んで、部屋の前に立ったり、移動の際に付き添うだけだ。
 エルザリートは一人でいることを好んだ。何度か話しかけてみたが、静かにしてと注意されてばかりだった。その態度がなんだか不思議だったので、屋敷にいる人たちにエルザリートのことを聞いて回った。
 彼女は、そんなに難しい子には見えないけれど、と言うと、若い女性たちは困ったように笑っていつもああだと言ったが、長く勤めているらしい炊事場のサラという女性が、水路のそばで忙しそうに洗い物をしながら話してくれた。
「仕方がないんですよ。難しいお立場ですからね。ご自分の安全を優先するなら、ここに来るしかなかったんです」
「だから外に出ないんですか? エルザはヴォルスさんとルイズさんに警護されてるけど、どこかに行くわけでもなく、本を読むか手芸をするかでしょう。誰かに狙われてるんですか」
「私はこのお屋敷から出たことがないから、あちらでどのように過ごされていたかは知らないけれど、エルザリート様のお世話をするのは、全員身元のはっきりした人間ばかりです。高貴な方々は、下働きに奴隷を使うことはありません」
 ふうん、と言いながら、そうして区別することでいいことがあるんだろうかと考える。そうやって生まれ持って身分の低い人は、虐げられて当然だと思うようになるのだろうか。嫌な感じだ。
 今度こそ、サラは声を立てて笑う。
「あなたは本当に素直な人ね。草原出身の奴隷が騎士、それも女の子だと聞いて驚いたけれど、少しもへこたれた様子がないって表に出ている娘たちが噂していたから、どんな変わり者かと思っていましたよ」
「変でしたか?」
「いいえ。草原の人でも、ごく普通の子だったわ。ちょっと怖いもの知らずのようだけれど」
 洗った鍋をすすぎ、それで話を戻すけれど、とサラは言った。
「姫様と親しくなりたい気持ちは汲んであげたいけれど、止めておきなさい。あの方々に関わると、深みにはまって戻れなくなります」
 汚れた水を水路に捨てる。暗く澱んだ流れの行く先は、この街の片隅。キサラギが連れてこられた、あの奴隷市のような場所だろう。
 同じものを見つめたサラの呟きは、誰に聞かせるともなく遠い。
「首都は澱んだところよ。何が本当かも分からない。自分自身ですら見えなくなる」
「そういう場所、知ってます」
 セノオは、小さな竜狩りの街だった。十七歳になってから、そこを出て少しだけ旅をした。その時訪れたマミヤという街は、古王国の遺跡が残っている大きな都市で、隠されていた人の薄暗い願いや執着は、命を奪って誰かを苦しめていた。
 多分、それよりもずっと広く、大きく、暗い場所が、首都なのだ。
「知ってるから、放っておけないんです」
 そう、と言って、サラは早くヴォルス様のところへ戻りなさいとキサラギを促した。非番とはいえ、新人が他の人の仕事の邪魔をしてぶらぶらしているのはよくない。
 この街の空は、ずいぶん狭い。あちこちに高い建物があるからだ。港の周りも家々が密集していた。竜が大群で押し寄せるようなことがないのかもしれない。街が大きくなればなるほど、竜狩りの組織は大きくなるものだが、こちらに来てからそれらしい人を見ていなかった。
「そういえば、騎士って、竜を狩るものなんですか? こっちに来てから、一度も竜狩りを見てない気がするんです。みんな、どうやって竜から身を守ってるんですか?」
 途端、サラの顔が、白く強張った。
「サラさん?」
「静かに! それ以上言わないで!」
 押し殺した声でキサラギに詰め寄る。目だけが釣りあがっているのに、感情を抑えようとして、さらに恐い顔になっている。キサラギは驚きのあまり何も言えない。
「いい、生きていたいなら、そのことを絶対に口にしてはいけない。この国に『それ』はいない。『それ』にまつわるものもいない。龍王陛下がいるかぎり、そんなことは絶対にあり得ない」
 その目の中に、恐怖を見て取った。
 分かったわね、とキサラギが頷くまで念を押したサラは、最後まで青ざめた顔をしていた。その場を離れたキサラギは、彼女が何をそんなに怯えているのかを考えた。
(……『龍王』)
 そして、竜と竜狩り。
 疑問が形を得ていく。大きな街、防御壁らしいものが見えない街の周囲、自衛の手段を持たないらしい普通の人々――王国地方に竜人がいるのなら。
(……どうして、竜がいないんだ?)
 誰に聞いても同じだった。その話題を耳にしたり口にすると、心臓が止まるかのような顔色になって、キサラギの口を塞ごうとしたり、逃げたりする。
 答えを得られぬまま、夜会の日はやってきた。

    



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