首の詰まる襟をなんとか緩まないかと触っていると、苦しいかと言ってヴォルスが笑った。キサラギには着慣れない黒い詰襟の衣服は、ヴォルスとルイズにはいつものことなのだろう。立ち方も所作も、自然体だ。
「髪を結んでおけ。長いと女性に見えるから」
 ルイズが髪紐を渡してくれる。一つに結んで襟足をさっぱりさせると、まじまじとヴォルスがキサラギの全身を眺めやった。
「そうしてると、どっかいいとこの坊ちゃんに見えるな、お前」
「あ、分かります? これでも遡っていけば古王国の王家にたどり着くんですよ」
「馬鹿」
 冗談と笑い飛ばしたヴォルスを、他の護衛が呼びに来た。行くか、の掛け声に、キサラギは頬を叩いて気合いを入れる。
 目標は、マイセン大公の夜会。エルザリートの護衛として、また、新任の騎士としてキサラギがお披露目される、重要な会だ。
 マイセン大公は、大陸東部の沿岸にある港街ジアルを中心とした土地を治めている。大公は五人いて、全員がルブリネルク龍王国から任命されるという。草原でいえば、街長の上に長がいる感覚だろうか。
「じゃあ、その夜会って、めちゃくちゃ格式高いやつじゃないですか」
「正直、そうでもない。港を持っているとはいえ、たかが地方領主だ。首都に家を持ってるやつの方が、派手だし凝ってる」
 首都――ルブリネルク龍王国の都、ルブルス。
 龍王と呼ばれる存在がいるところ。龍にまつわる土地の中心部。そして、最も危険な場所。
 そこに何かがある。竜と、竜人と、人間にまつわるものが。
「いつか私も行けますか」
「姫がその気になるか、上からのお許しが出なきゃ不可能だな」
 先日のサラも、ヴォルスも、ずっと含みのある言い方をする。その名前を出してはいけないかのように、明確な名称をぼかす。キサラギが想像できる名前は、今のところひとつしかないのだが、恐れているのか敬っているのか、まだ判断できない。
 エルザリートの部屋から、女中が現れて支度が終わったことを告げる。
 入室したキサラギは、わあっと歓声をあげた。
「エルザ、すっごく綺麗!」
 エルザリートは目を細めて顔を背けた。
 柔らかい金の髪は複雑に編み込んで、花びらがたくさん重なった青い花で飾っている。大きく開いた襟ぐり、細い首にかかるのは真珠の首飾り。同じ誂えの耳飾りは大ぶりで、エルザリートの小さい顔がますます強調されている。腰をぐっと絞りあげた青い衣装の裾は、薄いものをいくつも重ね、色彩の濃淡があちこちで違う。縫い付けられているのは真珠と宝石で、打ち寄せる波と輝く水面のように見える。
「すごく素敵だ! エルザは青が似合うね。でも、ちょっと動きづらくない? いつもより服が重そうだよ」
「こんなもの、いつものことよ。これを着て優雅に動くのが淑女というものでしょう」
「うん、私には絶対に無理だね」
 エルザリートが不機嫌になる。
「……ヴォルス。この調子で、外に出して大丈夫なの?」
「一通りのことは教えましたが、これは矯正できませんでした」
 馬車に乗り込み、マイセン大公の屋敷に向かう。
 エルザリートの屋敷からも見えていた、街を見下ろせる建物が、大公の屋敷だった。夕暮れの薄闇に、馬車に掲げられた洋燈が道に列をなしていた。人が建物の中へと次々に吸い込まれていく中、それらに道を譲られて、エルザリートの馬車が到着した。
 御者が扉を開けると、ヴォルスがエルザリートを先導する。その後ろにキサラギ、ルイズが続く。エルザリートが現れると、そこにいたすべての人が足を止め、頭を下げた。
 視線が突き刺さったのを感じた。
「……ルイズさん、もしかして、私のことってもう噂になってるんでしょうか」
「当然だ。エルザリート様のお屋敷に新しい人間が入るなんて、そうあることじゃない。お前がどうやって屋敷に来たのか、ここにいる全員が知ってるだろう」
 こそこそと囁くと、黙って澄ましていろと叱られる。
 進んでいくと、甘い香りが漂ってきた。花と、食材に使う香料だ。長くいると気分が悪くなりそうなほど濃い。
 やがて、大きな部屋にたどり着く。
「この部屋は帯剣が禁じられております。武器はこちらにお預けください」
 護衛である二人があっさり預けてしまうので従うしかないが、なんだか心細くなってきた。王国地方の人々は、時々、キサラギが驚くほど無防備だ。これが伝統やしきたりというものなのだろうか。
 扉が開かれる。
(眩しい)
 キサラギがこれまで見てきたもの、想像していたもののどれとも違う。きらきらと金色が輝き、宝石があちこちで光っていて、火は夜を照らすけれど決して恐ろしいものではないように思える。
 人々の服装は、みんな決して身動きしやすいとは言えないし、女性などは胸元が心もとない。式典にしか身につけない帯や羽織で囲まれているかのように、絢爛だ。目がちかちかする。
 だが、部屋の片隅には暗く沈むような地味な一団がいた。
 目つきの鋭い男女が五人。キサラギが身につけているようなかっちりした衣服の、装飾や裾を動きやすいように最低限にした格好をしている。鋭くなった彼らの目は、キサラギには感じ慣れたものだった。
(……竜狩りに、似てる)
 気づけば、室内は静まり返っていた。
 後ろから見ていたエルザリートの背中が、硬いものになった。彼女のまとう空気が変わり、表情が一変する。
 視線が集中し、時々迷うように揺れる。注目の主は、エルザリート。そしてキサラギのようだ。
 エルザリートが目を動かすと、人々の視線が逃げた。顔を向けると、面を伏せる。
 けれどその中に、一人だけ堂々としている人物がいた。
 エルザリートの動きを追っていたキサラギは、その視線の先を何気なく見やった。
 そして、近づいてくる人影しか見えなくなった。
 ――あの表情がずっと忘れられなかった。
 人外の美貌にいつも冷徹を浮かべていた。他者を遠ざけ、近づいてくる者を傷つけるために。残酷なことを言うくせに、気まぐれに触れてきては慰める。手が届かないところを見つめている銀色の目が、まるで何もかも知っているかのよういたわった。
 別れのとき。その美貌は苦々しくて、くすぐったいものを浮かべていた。決して触れられないと思っていた神様の創造物が、キサラギの手が届くものになった。
 だからかもしれない。もう二度と会えないかもしれないなんて、許せないと思ってしまったのは。
 人が近づいてくる。
 探していた。会いたかった。もう一度。
(セン――!)
「お兄様」
 胸の内でその名を叫んだとき、エルザリートが彼に向かって呼びかけた。
 夢から覚めたように、見えていたものが変質する。
 銀の髪は金色に。瞳は青に。着ている衣服は彼が身につけることを嫌うであろう宝石で飾られた壮麗なもの。そして、最も異なる、その表情に浮かんでいる微笑。
「エルザ」
 キサラギの耳が痺れたようになった。
 笑みを含んでいるその声は、同じものに聞こえる、なのに。
(違う……センじゃ、ない……)
 けれど、そっくりだった。鏡に写したのではないかと思えるほど。髪の色と目の色が違うだけで、姿形も声もよく似ている。
 だが、決定的に違うのは雰囲気と表情だ。センは、誰かに愛想笑うような性格ではなかった。
「まさか、こちらにいらっしゃっているなんて思わなかったわ。お忙しいと聞いていたのに」
「お前に会いに来た。元気そうだね。顔色がいい。騎士を選んだと聞いたが、そのせいか?」
 言って、キサラギを見る。違うと分かっていても、探している男と同じ顔を持つ人物が、そんな風に探るように見てくるのは、居心地が悪い。
 突然、エルザリートが腕を絡めてきた。
「エルザ?」
「キサラギというの。キサラギ、この方はわたくしの敬愛する、オーギュストお兄様」
「兄といっても従兄だがな。エルザ、ずいぶん親しくなったようだね」
(オーギュスト……)
 呆然と見入っていた時だった。ざあっと、首の後ろが粟立つ。キサラギは顎を引いた。
(この人、私のことを警戒してる)
 いかにも嬉しそうに笑っているが、彼も、キサラギの素性をすでに知っているのだろう。異邦人で、買われてきた奴隷で、素性が知れない者が、身を守らねばならない少女のそばにいるのなら、警戒しない方がおかしい。
「ヴォルス。ルイズ。久しぶりだな」
 控えていた二人は無言で一礼した。
「お兄様。踊ってくださる?」
「ああ。もちろんだ」
 手を取り合った二人が中央に進み出る。それだけで異世界の風景だった。光の階段を登っていくように見える。二人に場を譲るようにして、踊っていた人々が輪を解いた。
 緩やかな調べに乗って、二人が踊る。見たことのない足運びだが、いくつか決まっているふりを組み合わせているようだ。
 エルザリートの言葉は虚勢ではなかったらしい。あんなに身動きしづらい服だというのに、彼女の動きはまるで魚のように優雅だ。注目を浴びているというのに、ごく柔らかな微笑を浮かべている。
 彼女の周りで、光が踊る。息を詰めて見ていたのを、側に来たヴォルスが笑った。
「エルザリート姫は、あの人の前でだけ年相応の顔をする」
 あれは演技じゃねえぞ、と彼は囁いた。エルザリートは、相手が違えば、素直に嬉しい気持ちを表現できるのだ。
「いつもああなら可愛いんだけどな」
「あのオーギュストという人は誰なんですか」
 違うと分かっていても、聞かずにはいられなかった、細い希望に縋った問いかけだった。ヴォルスは顔をしかめた。
「間違っても人前でそんな口の利き方をするな。不敬罪で首が落ちる。あの方は……」
 派手に物が倒れる音がした。
 硝子が砕ける音がし、女性の悲鳴が上がる。広間の隅から何かが素早く走ってきた。汚れた黒い塊は、やつれた男だ。鈍く光るものを手に、まっすぐ中央へ駆けてくる。
 その進行方向に、ヴォルスとルイズが立ちふさがり、エルザリートを守る。
 キサラギはさらに前に出た。男の剣が、盾となったキサラギを狙う。
 武器はない。ここに入るときに預けたからだ。
「っ!」
「きゃあ!?」
 キサラギは近くにあったものを投擲した。かしゃんかしゃん、と続けざまに投げたのは銀製の食器、最後に投げたのは料理の乗った皿。粉々に砕けた皿が男の剣の切っ先を反らす。それを狙って、キサラギは肘を振り上げた。
「ぐっ!」
 顎に入った。続けざまにもう一方の手で拳を作り、頬に叩き込む。最後に、思いきり腹部を蹴り飛ばした。ひっくり返った男に、ルイズがのしかかる。吐くように呻いて、男は手足を投げ出した。
 それで、襲撃は終わったようだった。
「怪我はない!?」
 鋭く聞くと、呆然としていたエルザリートが、急いで頷いた。
 キサラギはほっと息をついた。さすがに顔色が悪いが、怪我がなくてよかった。
 押さえつけられた男が、大公の屋敷の警備たちに縄をかけられる。だが、その血走った叫び声をあげた。

    



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