「……なにが騎士だ。なにが誇りだ! 呪われろ、血をすする王家め」
 唾を撒き散らし、目を剥き出した様は、獣だった。
「俺の兄貴を返せ! お前らが殺した、兄貴を返せ!」
 すぐさま、男はルイズに殴られる。
「エルザ」
 オーギュストが制止を呼びかけるが、光景を覆い隠そうとした男たちの手をすり抜けて、エルザリートは進み出た。
 頬を青紫に腫らし、涙を浮かべた瞳に憎しみを込める男に、低い声が轟く。
 お前の。
「――お前の、兄が、弱かったからよ」
 男は目を見開いた。
 わなわなと震え、歯を噛み鳴らし、見開いた目に少女の冷酷な相貌を映して、「うわああああ!!」と吠え声を上げると飛びかかろうとした。これも、やはりルイズに封じられる。
「殺してやる、殺してやる! 俺がやらなくても、いつか誰かがお前たちを殺しに来る。いつかお前たちは殺しあうぞ!」
 男の呪いを背に、エルザリートは去った。
 黙れ、と言って別の者が男を殴り、そのまま猿轡を噛ませて連れ去っていく。
(……なんだ、これ)
 異様だ。何かが、変だ。
 立ち尽くしていたキサラギは、双方を見比べてそう思った。
 狙われたエルザリートの冷静さや、動いた者が自分たちしかいなかったこと、オーギュストとエルザリートの顔色を伺いながら男を早く黙らせるよう命じていたマイセン大公。霧散する緊張感の中に漂う、呆れや慣れを含んだ曖昧な不快感。
 あの男の呪詛と憎しみが、たった十六歳の少女になぜ向けられる?
「よくやった。いい動きだった」
 ルイズが褒めてくれるが、キサラギは黙って一礼し、少し席をはずすが構わないかと尋ねた。行き先を告げると、彼は快く了承してくれた。
 その途中、ヴォルスとすれ違った。彼はキサラギの目指すところから、こちらに戻ってくるところだったのだ。
「大丈夫か。お前」
「怪我はしてません」
「自分の顔を見てから言うんだな」
 息を吐いて、その強張りを少し緩めようと試みる。
「……エルザのところに行ってきます」
 その部屋の扉は、花と草が絡み合った装飾が施されていた。多分、この建物の中で一番か二番目に豪華で派手な部屋だろう。その扉を叩く。返事はなかった。
「エルザ」
「……来ないで。近づかないで」
 内から叩きつけるような声が来る。キサラギは、静かに言った。
「あんな顔をしていた子を一人にはできないよ」
 数秒が経ったあと、鍵の開く音がした。
 入るよ、と声をかけて、室内に入る。想像していた通り、豪華な部屋だ。どこもかしこも光を受ければ輝くだろう、飴色の家具ばかりだが、明かりが一つしか灯っていない部屋は薄暗く、重苦しい。
「……何をしているの?」
「暗いと気持ちが沈むからね。人の家だけど、いっぱい点けちゃおう」
 すべての燭台に火を灯すと、橙色の光で眩しすぎるくらいだった。そこで見たエルザリートの顔色が、はっきりと悪いと分かる。キサラギが動き回っていたのを見ることしかできなかった彼女に、にこりと笑いかけて、尋ねた。
「ねえ、エルザ。何と、戦ってるの?」
 キサラギに対する口調。可憐な容貌に似合わぬ冷徹な瞳。感情を殺した声と、他者を思いやらない傲慢な言葉。周囲の視線、恐れ、敵意。何故この子がそんなものを背負っているのだろう、とキサラギは不思議でならなかった。
 ちぐはぐだったのだ。エルザリートの優しい美しさに、王者の演技は似合わない。
 投げられた問いに、彼女は顎を引き、ふるり、と震えた。
「お、……お前は、何故そういつも偉そうなの! まるでなんでもお見通しみたいな態度で。わたくしを馬鹿にしているのね! 奴隷のくせに」
「エルザ」
「自分が、強いから。弱者を下に見ているのね。なんの力も持たない小娘だと、わたくしを見下している。わたくしの足掻く様を、必死に取り繕うことを、無様だと、嘲笑って」
「エルザ。それは、誰のこと?」
 途端、エルザリートは言葉を止めた。
「それは私のこと? それとも、……自分のこと?」
 揺れる瞳が、自らの手で隠される。顔を覆ったエルザリートは、そのままゆるゆると崩れ落ちた。細い肩は震え、項垂れる姿は花が萎れるようだった。張り詰めたものが弾けた、そんな憔悴した姿だった。
 見覚えがあった。一年ほど前のキサラギは、味方が少なくともそれでいいと思っていたし、反発するものは容赦なく切ってきた。自分だけを保っていられたらいい、見失わずにいたらそれでいいと思って、その先の、未来のことを見ていなかった。そうして、人の優しさを拒絶した。
 人は、ひとりでは、生きていけない。誰かと戦わなければならないこの世界では。
 この子は、いつかの自分と同じだ。
「エルザ……、っ!」
 膝をついたキサラギは、エルザリートの身体を受け止めた。首に腕が回される。震える息が何かを言おうとする。けれど、なんの言葉も紡げなかった。
 その細くて頼りない背中に、そっと手を置いた。
 エルザリートはこんなに小さい。力を込めれば潰れてしまう。折れそうなほど細い少女を抱きとめながら、キサラギは湧いた疑問を口にした。
「エルザ。あなたはいったい、誰?」
 目元を赤く腫らし、青い瞳に悲しみを宿した少女は、今度は雪の精のように儚く見えた。
「わたくしは知っていてよ。キサラギ、屋敷の者たちに話を聞いて回ったでしょう。その時に、皆が一様に言葉を濁したものがあったはず」
 異様な迫力でそれ以上口にするなと言ったもの。
「……『竜』?」
 エルザリートは慈愛の微笑みを浮かべていた。
「王国に竜はいない。いないことになっている。何故なら、この地を治める龍王が竜のすべてを従えたとされるから。従えたというのに、それが人を襲ってはおかしいでしょう?」
 だから竜も竜狩りも、存在しないように振舞っている。エルザリートは言った。
「実際、竜の数は減ったというわ。空を飛んでいるあれがそうだと言われただけで、わたくしもその一度しか見たことがない。都市部にはほとんど現れず、地方に行くほど目撃されているようね。だから、龍王などと持ち上げられるの」
 ――そのとき、ある推測がひらめき、すべての感覚が逆立つようにして鳥肌がたった。
 竜はほとんど目撃されていない、というのならば、それは。
 人に。
(人の中に、混じっている……まさか!?)
 だが、王国地方の人間は、薄くとも竜人としての因子を持っている、とキサラギは養父から聞いている。なんらかの形で混血化が進み、人も竜人も混ざり合って暮らしていく土地になっていったのかもしれない。
 その鍵を握るのは。
「古来から、龍王には、『約者』と呼ばれる者が捧げられる決まりになっている。ただの名前だけれど、これに選ばれれば龍王の妃の一人よ。それも、正妃とは別枠の、巫女のような役割をする絶対に揺るぎないもの。その名前を求めて皆が必死になっているわ」
 その鍵は――龍王。そして、約者。
 キサラギに与えられていく竜にまつわる言葉は、不意に、一つの映像を形作った。

 ――草原の中、一人の娘が空に手を述べる。草の海に大きな飛影が差して、娘が笑った。やがて、述べられた白い手に口づけるようにして、それが首を伸ばす。黒く輝く鱗、巨大な翼を持つ竜だった。直接触れ合ってはいない。だがそれぞれの目には慈しみといたわりがある。それは、互いの恵愛を示す光景だった……。

「わたくしを追い落とそうとする者たちや、王太子を邪魔に思う者たちが、刃と毒をどのように用いるか画策している。わたくしが、王太子に最も近いから。あの方が、最も王冠に近いから」
 エルザリートの声が、キサラギを現実に戻す。
「王太子……」
「もう分かっているでしょう?」
 そして、彼女はキサラギの問いの答えを口にした。

「わたくしは、エルザリート・ランジュ。ルブリネルク龍王家に連なるランジュ公爵家の娘。官等の低かったところを、王太子オーギュスト・イルの寵愛を受けて登城した者。いずれ龍王に捧げられる、ひとがた」

 零れ落ちる言葉は、乾いて、あっという間に消えた。

   *

「エルザリートは」
「お部屋に戻られました。誰も入るな、とのことです」
 元通りとはいかずとも、ある程度落ち着きを取り戻した広間を背にしつつ、オーギュストはヴォルスに尋ねた。広間から通じる廊下は、奥に行くほど明かりが絞られている。表層だけを取り繕おうとした結果だ。
「警護にはルイズが?」
「それから、新人がいます。年齢が近い分、エルザリート様は心を許しているようです」
 オーギュストは足を止めた。
「ヴォルス。あれは奴隷だと聞いていたが、どうやらそれだけではないようだな」
「ご報告申し上げたとおりです。奴隷の型にはまりません。ご覧になったのでお分かりかと思いますが、あれは戦士です」
 敵襲に瞬時に動いたのは三人。戦いに慣れたヴォルスとルイズは、主君の安全を第一にしたが、その二人に連携する形で、新入りがあそこまで動けるのは驚異なことだった。
 騎士を選べ、と命じたオーギュストに、エルザリートは騎士は持たない、としばらく抵抗した。だが、あの身分で騎士を持たないのはあり得ないことだ。騎士が決まっていないままで首都に滞在させるわけにはいかず、止むに止まれずマイセン公領に出したのだが、思いがけぬ拾い物をしたらしい。いったいどんな騎士を選んだのかと見に来たのだが、想像もしない若さと細さだった。
 振り向いて無事を確認した、黒の瞳の強さが思い出された。
 見たことのない輝きだった。その目だけが、銀の燐光を放っていた。
「名はキサラギといったか」
 馴染みのない音と響き。
「おめずらしい。興味をお持ちですか、王太子殿下」
「ヴォルス」
 からかうように言って笑うのを睨む。
「失礼いたしました。あれも殿下の寵愛を受けるに相当するのではないかと思いましたので」
「あれは奴隷だ。私が愛でるには泥臭すぎる」
 言いながら、そのはずだ、と念を押す己がいることにオーギュストは気づく。
 あの漆黒と燐光が、焼きついて離れなかった。

    



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