第3章 意   
    


 アクジルは、ルブリネルク龍王国において公爵家に生まれた。そして、多くの貴族がそうであるように、騎士を持ち、同じ貴族たちと競い合った。貴族の明暗が、血と勝利によって決まるものであるために、彼は敗北し、王国の東の果てのマイセン公領を治めるよう命じられた。
 大公と呼ばれるようになったものの、これは一時的な措置だった。何故なら、五つある大公の領地は、王家の関係者の所有地であり、このうち、マイセンを継ぐべき者がまだ成人していなかったというだけだったからだ。統治せよとの命を受けたものの、ここは決してアクジルの領地にはならない。来るべくして、自分は追い出される。
 ――あの小娘。騎士も持たぬ、王族でもない、あの娘さえいなければ。
 そう思ったことが災いしたのだろうか?
 周期的に開かれる夜会で、暴漢の侵入を許すとは。あまつさえ、それがその娘、将来のマイセン大公エルザリート・ランジュを狙うとは。
 そしてアクジルの不幸は、その場に、王太子オーギュスト・イル・ルブリネルクがいたことだった。
 蝋燭が立てる、じりじりという音が響くほどの静寂。
 ごくりと唾を飲み込み、アクジルは声が震えぬよう必死に押さえつけて、告げる。
「お……お言葉通りに、不埒者は地下牢に捕らえてございます。尋問の結果、本人の言うように、あれの兄は、先日ルブリネルクで死んだ騎士だったようです」
 首都の動向をアクジルは知らない。ただ収集した情報によると、あの娘は首都で騎士を失い、次の騎士を選ばぬままマイセンに流れてきたらしい。襲撃者は、死んだその騎士の弟だろうというのが調査の結果だった。
「ご命令とあらば、こちらで処分を」
「それはいい。用途がある。しばらくそのまま捕らえておけ」
 命じる声に、怒りがないことに幾分かほっとする。
 しかし、人外な容貌に穏やかな微笑みがあるのが常態だが、苛烈な側面を持たなければ、王太子と呼ばれるには至らないのだ。
「もう一つ、依頼していたものはどうなっている?」
 背筋が総毛立ったのは、その依頼を忌まわしいと感じていたせいだ。だがそれをおくびに出しては、何をされるか分からない。
 ――彼は一言で、命を含めたすべてを奪うことができる。
「……無事に、港に到着しております」
「管理には気をつけたまえ。あれは猛毒にもなりうる」
 生唾を飲み込み、頷いた。あんなものが、自分の領地の中にあるのかと思うと、何か不幸を呼びそうな気がするのだ。そして、はたと気づく。さきほどの言い方は、「誤って毒で死んでしまえばいいものを」と言ったのではないか。
「……殿下……」
「近日中に、運び人を寄越す。それまでよろしく頼む」
 笑みは美しかったが、まるで薄い刃物のようだった。アクジルの額に、どっと汗が噴いた。


   *


 エルザリートに呼ばれたキサラギがそのまま行こうとすると「身支度をしろ」とルイズに引っ張り戻された。
 その真面目な顔に、引っ掛かりを覚えた。
 小綺麗な上着に袖を通し、髪を縛ると、応接室へ行く。エルザリートの部屋ではない。ますます嫌な予感がした。
「失礼いたします。キサラギを連れてまいりました」
(やっぱり……)
 果たしてそこにいたのは、エルザリートと、彼女が兄と呼ぶ、王太子オーギュストだった。
 長い髪をゆるくまとめ、刃のような美貌に穏やかな笑みを浮かべている。キサラギは一瞬顔をしかめた。やはり、最初の数秒は、彼がセンに見えてしまって、あの時よくしていた仏頂面を思い出してしまう。
(彼は龍王国の、王族。次の王になる人)
 気をつけろ、と養父に言われたというのに関わってしまっている。首都にも入っていない状態で遭遇するとは思わなかった。海を渡った途端にこうなるなんて、まるで、引き合うことが決められていたみたいだ。
 ルイズが下がると、オーギュストが「かけなさい」と椅子を勧めた。キサラギはそれを断って、出口に近いところに立った。扉の向こうに気配があったが、おそらくヴォルスだろう。
 逃げられない、と直感した。竜狩りの長たちに囲まれた時の緊張に似ている。
「ご用と伺いました」
「君は、エルザリートの騎士になったんだったな」
 そのエルザリートは、昨夜のように悄然と項垂れている。
「エルザを守るという意味でなら、そうです」
「ならば、その義務を理解しているものと考える。昨夜の襲撃者は、エルザリートの騎士だった男の弟だ」
 エルザリートの肩が揺れた。
 確か、本人はそう言っていた。だが、不穏なことも叫んでいた。
「兄だというその騎士は死んだ。剣闘に負け、その打ち所が悪かったために命を落とした」
 キサラギはしばし迷い、言った。
「エルザを外してください」
「何故」
「彼女がいる前で話すことではないでしょう。彼女の負担になります」
「許さない。これは事実だ。エルザリートは逃げている。騎士を持つということは、それを失う可能性もあるということ。そして、この子は失った」
 オーギュストは笑みを深めた。
「騎士は主人の階級だ。騎士が勝てば、栄光と名誉が手に入り、主人の地位が向上する。敗北は社会的な死と同義であり、勝ち続ければ上り詰め、負け続ければすべてを失う。これがルブリネルクの掟だ」
 呆気にとられるキサラギに、王太子は薄い笑みをはく。
「あの男の兄は、その戦いに敗れた。そして、運が悪かったために命も落とした」
「ちょっと待ってください」とキサラギは声をあげた。思考が回る。何を言っていいのか分からない。オーギュストの華やかな笑みが、仮面のように薄気味悪い影をともなっている。

 騎士は剣。騎士は階級。
 勝利は栄光を、敗北は死を意味する。
 騎士たちは戦い、主人はそれを見ているだけ。

(何のために?)
 分からないなりに、腰にある剣が叫んでいる。
 竜狩りの魂が叫んでいる。
「ならその剣は何のためにあるの?」
「勝利と名誉を主人にもたらすために」
 キサラギは、よどみなくそう言ったオーギュストを信じられない気持ちで見つめた。
 周囲が、暗くなっていく。
「あの男はエルザを狙った。処刑されて然るべきだが、汚名をそそぐ機会を与えようと思う。君がエルザリートの騎士だというのならば、主人の命を狙った兇徒を処分しろ。君が負ければ、彼は無罪放免だ」
「戦うんですか、剣で――人と人が?」
「そのための騎士だ」
 今度こそ目の前が真っ暗になった。
「――っ!!」
 柄に手をかけた瞬間、背後から二本の剣がキサラギを狙う。一つは背中、もう一つは首を狙っていた。キサラギの手は未だ衝動が止まずぶるぶると震え、柄を握りしめたまま離れようとしない。だが、抜けば確実に殺されるだろう。
 オーギュストは泰然とその様子を眺め、そしてエルザリートもまた、真っ白の顔色をしながらも、今にも溢れてしまいそうな目でキサラギを見つめていた。
「手を下ろせ、キサラギ。今ならまだ許してもらえる」
 ヴォルスが言う。
(『許してもらえる』?)
 懇願めいた響きがあるのが癇に障った。
「私の、剣は」
 剣を持ったことがない人間に、その態度が許されると、ヴォルスは本気で思っているのか。
「私の剣は、私だけのものだ! それをどう使うのかも、何を奪って、何を守るかも。決めるのは、私だ」
「それは君の故郷での論法だ。ここは王国、君は、奴隷としてエルザに買われた」
 キサラギはますます自分の思考がそぎ落とされ、透明になっていくのを感じた。何も考えられない。煮えた湯で水面が波打ち、何も見えなくなるように。一方で、これがイサイの言っていたことなのだろうとも理解していた。
 怒っている。間違いなく自分は、この傲慢な人間を憎んでいる。
「だから、人殺しをしろと?」
 オーギュストはこの後に及んで、椅子に深く座したまま、キサラギを睥睨し、笑う。

「恭順か、死か。好きな方を選べ」

 キサラギは、柄を握った。
「キサラギ!」
 エルザリートが悲痛な叫び声を上げる。ヴォルスとルイズの刃の軌道がキサラギの急所を狙った。
 キサラギは、もう一方の手で剣を鞘ごと持ち上げると、それを床に叩きつけた。
 鈍い音が響き、悲鳴の余韻が消えていく。
 肩で息をしながら、自分が粗末に扱った剣を呆然と見た。
 オーギュストは立ち上がり、キサラギのそばにやってくると、肩に手を置き、囁いた。
「いい子だ。君の働きに期待している」
「……っ」
 涙が滲んだ。
 悔しい。誇りだ、なんだと言いながら、結局選んだのは自分の命だった。
(ここで死んで……何もできずに、殺されるだけなんて、そんなのは)
 そうしなければ、センともう一度会うことができないから――。
 キサラギは踵を返し、部屋を出ると、屋敷の扉を押し開けた。外に飛び出す寸前、ヴォルスの声が聞こえた。
「必ず帰ってこい! いいな!?」
 その時思い出されたのは、キサラギの怒りに怯えながらも受け止めようとする、エルザリートの悲しい青い瞳だった。

    



>>  HOME  <<