戦士たちが短い休息を得る間、シャルガの使命は、自身の体調を整えることと、部下たちの様子を見守ること、そして、王の求めに応じることと、王子の剣舞の指導を行うことだった。
 王子の宮殿に向かうと、そこにはリュイナ王妃とまだ歩くこともできない幼い王女、そして、リリスがいた。
 リリスは王妃と並んで座り、書物を開いて文字を追っているようだったが、シャルガの訪れに顔を上げ、わずかに目を細めながら頭を下げた。シャルガも目礼で返すと、王子とともに庭へ行き、真剣ではなく模造剣を用いて、剣舞の稽古を始める。
 慣れないうちは、派手な動きは危険なため、一つ一つの型を研ぎ澄ますようにしていくことから始める。王子はまだ十二歳、身体が出来上がっていないので、一つの型を留め続けるのは難しいようだ。
「うう、腕が震えるよ」
「これをぴたりと止められるようになれば達人です。剣術の腕も上がります」
「シャルガは出来るんだよね?」
 はい、と肯定すれば、もちろん「やってみて!」と要求される。それを「いけません」とたしなめるのは、それを離れたところで見守っていた王妃だ。
「剣を使うことを、そう気安く願ってはなりません」
「でも、剣舞です。戦うわけではありません」
「けれど剣舞は神を讃えるための舞ですよ。あなたも舞を神に捧げるからこそ、戦士長に指導を頼んだのでしょう?」
「妃陛下。お気遣いありがとうございます。見本を見せられずに指導されるのは、殿下も納得がいかぬでしょう。僭越ですが、ひとさし舞わせていただきます」
 むっと押し黙ってしまっていた王子だったが、シャルガの言葉に、でも、と後ろめたそうにして止めようとする。シャルガは明るく笑って、腰に帯びた剣に手をかけた。
 シャルガは、ゆっくりと息を吐いた。頭の中に楽の音を呼び起こし、呼吸を整えて、意識を研ぐ。そして、大気へと溶かしていく。
 ふっと息を吐いた。
 腕を回し、天へ高く突き上げると、腕を回しながら半回転する。
 その腕を横に凪ながら、もう一方の腕で円をを抱くようにし、ゆっくりと足を擦らせて回る。剣の塚に手を伸ばし、回転しながら鞘を抜く。
 あとは、一つ一つの動作を止めていったり、大きく振り回したりという動作が繰り返される。白刃が空を裂き、ふおん、と鳴る。足を踏み鳴らし、大地を蹴り上げて、自らも鼓を打つように、跳び、回る。
 ザウ一族は家系として戦士であるため、生まれた男の子は武術の他に舞踊の鍛錬も課される。そして、戦士長の位をもらっているシャルガは、祭事には舞手として参加することが多かった。自身としては、腕前はまあまあだが、失敗もないので重宝されているようだという認識だ。
 速度が上がる山場を過ぎて、舞は静かになる。舞の序盤は挨拶であり、中盤は雄々しさを讃えるもの、そして終盤は神を慰め癒すためのものだ。
 剣を収め、膝をつき、拳を大地に当てる。舞の締めだった。
 王妃が拍手をし、王子が興奮した様子で駆け寄ってくる。
「すごい! すごい、シャルガ!」
「お褒めに預かり光栄です。もう少し調子を整えていれば、もっとお褒めいただけたと思うのですが」
「今でも十分すごいよ! 祭りのたびに思ってたけど、シャルガはすごい。踊っていると、別の雰囲気に変わるんだ。今は静かにかっこいいけれど、舞っている時は鋭くてどこか遠いところにいるみたいなんだよ」
「本当に、素晴らしい舞でした。ザウ戦士長」
 シャルガは膝をついた。リュイナ妃は、傍らの娘を笑いながら振り返る。
「リリスも目を奪われていたようですよ」
 言葉通り、娘は目を大きくしていたが、やがて笑って頷いた。
 爽やかな風のようなものを感じた。甘い、緑と水のような。
(なんの香りだろう)
 異国の香りだろうか。そう思いながらシャルガは頭を垂れ、練習を続けたいと告げる王子の望みのまま、再び舞の稽古を再開した。
 予定が詰まっているためあまり長居はできず、リュイナ妃やユン王子たちに暇を告げて、日が落ちる前に宮殿を辞した。しばらく廊下を行くと、軽やかな足音が後ろから来る。何気なく振り返って、驚いた。
 女物の柔らかい衣が、さらさらと揺れる。
 肩を越す長さの髪をわずかに乱し、異邦の娘がシャルガを追ってきていた。
「これは……、どうかされましたか」
「……これを」
 リリスが差し出したのは、布に包まれた湿布薬だった。
「……右手首を痛めているでしょう? どうかご無理なさらずに。薬は私がいただいているものです。出処は、リュイナ様の御典医です。毒なのかお疑いなら、どうぞ、問い合わせてください」
 シャルガは二度、驚きを飲み込んだ。
 第一に、手首を痛めているのは本当だ。だが、誰にも気取られぬよう、治療するつもりでいた。普段手を使う分にはさほど痛まないが、やはり舞のように全身を使うものになると調子が悪い。だが、それはリュイナ妃もユン王子も見ていて分からなかったはずだ。
 第二に、この娘は、自分が疑わしい人物であることを理解した上で、それでも薬を持ってきたということだった。普段、物憂げにして、密やかに暮らしている様子なので、他人に興味がないのかと思いきや、そうでもないらしい。
 よく見ている、とシャルガは彼女に対する評価を改めた。この様子なら、自分が周囲にどのように言われているかも理解しているのだろう。
 暗く沈んでいただけの瞳に、わずかな熱が宿っている。それは、きちんとシャルガを映していた。
「……ありがたく、いただいておく。だが、これはあなたに処方された薬ではないのか?」
 シャルガが薬の包みを受け取ると、リリスはほっと表情のこわばりを解いた。
「たくさん、いただきすぎているんです。けれど、もう快くなってきたので」
 ぎこちないが、笑える娘だったのかとこの時もまた、シャルガは認識を新たにした。言葉少なな様子から、年上に見えていたのだが、こうしてみるとまったく若いと気付く。二十歳にもなっていないのではないだろうか。それにしては、妙に老成した空気を持っていた。過去にまつわる何かが理由なのだろう。
 例えば、起き上がることのできないほどの――命に関わる傷の、理由。
「怪我はよろしいのですか」
「元々、治りは早いんです。医師の皆様もよくしてくださって、驚くほど回復が早く、ここまで動けるようになりました。いただいた湿布薬を無駄にするよりかは、使っていただける方がいいと思ったので、お持ちしたんです。よかったら、お使いください」
 ならば受け取っておこう。礼を言って立ち去ろうとすると、彼女が呼び止めた。
「何か?」
「剣舞、素晴らしかったです。ぜひとも、万全の状態での舞を拝見させていただきたいです」
 決して嫌味ではない、静かな賞賛と、期待の言葉だった。思わず、ならばぜひとも、と言ってしまいたくなるような。だが、ルブリネルクの侵攻とこの世界情勢では、例年通りに祭りを行うのは難しい。
「機会があれば」とだけシャルガは答えた。しかし心の中では、必ずその機会を作ることのできるようにしなければ、と楽しみに思う気持ちがかすかに生まれつつあった。

 不思議なことに、それ以来、リリスの姿が目につくようになった。王妃と並んで王子を見守っている姿、王子にせがまれて何かを読み聞かせていたり、幼い王女を膝に抱いて聞いたことのない異国の歌を口ずさんでいるところ、そして、王の付き添いで現れるシャルガに、知り合いに対する好意を示して目礼をする。そのようにして、顔を合わせば、挨拶をしたりするようになった。
 そうして接してみると、リリスは本当に、ごく普通の娘のようだった。ただ頭の回転が早く、相手の話に合わせることができる。周囲をよく見ており、特に予想外の動きをする王女からは意識を決して逸らさない。王子の話を、子どもの話すことだからと流すことはなく、真剣に聞いている姿勢が、王子が彼女に懐く理由だと分かった。そして、そんな彼女の真摯な姿勢を、王妃も教育係の女たちも、信頼しているのだった。
 王子に誘われて、リリスが庭に出ている。あまり早く走ることはできないようだが、そうやって動き回れるくらいには回復しているようだ。王子に向ける笑顔に、痛みを堪えている様子はない。
 彼女が、こちらに気付いた。王に向かって軽く頭を下げ、王子を呼んで、手を振るように言う。王が手を振り返すと、王子の「父上」と呼ぶ声が明るく弾けた。
「リリスが来てから、王子はよく笑うようになった。いつもわがまま放題で、しかめつらをしていたというのに、今ではごく普通の、遊びたい盛りの子どもだ」
 王はそれを責めているのではなく、息子の心を堅く縛っていたものを解いてしまった娘に、感謝と敬意を覚えているらしかった。
「この情勢では、王子の笑顔が救いだ」
「我が王……」
 ルブリネルクによって、大陸北部の国がほとんど飲み込まれてしまった。残っているのは、西方の片隅に位置する、戦士たちの国、騎士領国だけだ。国とも呼べないささやかな領地にいる戦士たちは、ルブリネルクに対して必死の抵抗を続けている。
 この世界の真実の歴史と姿をとどめる、この砂漠の王国が、最後の砦だ。ここが陥落すれば、世界は過去を永遠に失うことになる。
 竜と人。神と呼ばれた者たちと、彼らに守護されてきた一族が、本来の姿を取り戻すことは不可能だと思われたが、それでも、かつての出来事を失わせてはならないのだ。同じ過ちを繰り返してはならないのだから。
「風は、まだ濁っていない。世界は、救われるはず」
 王が呟いた時、後ろから「陛下」と侍従が呼んだ。
「騎士領国のマーシャル殿がお越しです」
「通せ。……シャルガ、お前も同席してくれるか」
「御意」
 しばらくして通されてきたのは、この砂漠の気候にはまったく向かない、重装備の三人組だった。中央に立つ若い娘が、拳を胸に当てて顎を引いた。
「お久しぶりです、ゼルム陛下」
「元気そうだな、アリス。供の騎士たちも、壮健で何よりだ」
 背後に控えた二人が、嬉しそうに顔を輝かせて拳に胸を当てる。
 彼らは騎士領国の戦士たち。アリスと呼ばれた金の髪の娘は、彼らによって旗頭にいただかれている女騎士だ。彼女の父がゼルムと旧知の仲だったことから、両国には以前から密かに親交があった。少数精鋭で行動する騎士領国の戦士たちは、ルブリネルクの監視の目をかいくぐり、密かに砂漠を移動して、現在の状況を細かく知らせていた。
「こちらに来る途中、竜の飛影を見ました。やはり、砂漠の出方を伺っているようですね」
「ルブリネルクの状況は如何か?」
「竜人と呼ばれる者たちが地位を得て、執政に介入しています。彼らの命令で、王国地方の北部の遺跡は、すべて破壊されたようです。草原地帯にも手を伸ばすのではないかと監視を続けていましたが、今のところ、その気配はないようです。砂漠と同じく、草原にも、彼らが手を出せない要素があるのかもしれません」
 王は頷いた。
「守護者の力が、まだ残っているのだろう。砂漠も同じだ。遺跡を破壊されるわけにはいかぬ」
「それを悪神信仰だとし、罪のない者たちが捕らえられ、処刑されています。オーギュスト王の様子も確認するつもりでいたのですが、竜人たちにすぐさま察知されるため、近づくことが叶いませんでした」
「それでいい。無用な犠牲は出すべきではない。オーギュスト王が竜たちの傀儡となっていなければよいとは思うが、この状況では、彼を救い出せたとしても、彼が元どおりに生きていくことは難しかろう」
「しかし、ルブリネルクの一部の貴族たちの間で、新たな象徴を掲げるべきだという動きが生まれているようです」
「内乱が起こるか」
「分かりません。なにせ、その掲げられている者は、オーギュスト王の婚約者とされている公爵令嬢なのです」
 しばらく報告と意見交換が行われ、そろそろ攻戦に転じるべきではないかという意見も出た。それはラク王国での戦略会議ですでに提案されていることでもあった。防戦一方である現状をよく思わない者たちが、本格的に軍を組織し、ルブリネルクに攻め入るべきだといっているのだ。
 根元を断たねば、戦いは永遠に続くだろう。ラク王国の守護も、いつまでも続かない。決断の時が迫りつつあるということを、アリスは知らせに来たのだった。
「……それで、預けたものはいかがです?」
 話題が一度落ち着いて、間を置いた後、アリスはそう尋ねた。王は頷き、外に目をやった。アリスは黙って窓に近づき、露台に出ると、そこから何かを見下ろした。後ろから続いたシャルガは、建物を挟んだ向こうの庭に、ユン王子が舞の稽古をしているのを見た。
 その傍らには、リリスがいる。
 シャルガが目を細めたから、というわけではないだろうが、リリスはふっと顔を上げ、離れた高い位置にある塔の露台に、人がいることを察知したらしい。動きを止め、そして、まるで逃げ出すようにそそくさと建物の中に入っていった。彼女を呼ぶユン王子の、不思議そうな呼び声が聞こえてくる。
 同じくして、露台に出ていたアリスも室内に戻っていく。
(……なんだ?)
 アリスは、リリスの姿を確認したのか。そしてリリスは、その視線から逃れたのか。そうとしか思えない二人の行動だった。
(この二人の関係は、なんだ?)
 アリスは、しばらくこちらに滞在したいと、王に願い出ていた。王は、快くそれを了承した。ただ、騎士領国の戦士たちの手が欲しいというだけではない、何かがあるように、シャルガには思えた。

    



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