――風が吹いている。
 砂の混じる乾いたものではない。雨の匂いがする、波の音のようなさざめきを伴っている、草原の風だ。
 内側で、弾むように心臓が鳴っていた。地平まで続く緑の大地に、気持ちが高揚し、胸がいっぱいだった。涙がこみ上げるくらいに溢れる思いに、息を吸い込んだ時、空の高みから声が降ってきた。
 雷のような獣の声。
 呼び声は、祝福を、と言った。
 そして、彼女は手を伸ばす。白い指先が、天に届くその瞬間――。

『約せ』

「……っ!!」
 息を詰めて飛び起きる。
 夢の中で甘く高鳴っていた心臓は、急な覚醒と恐怖に乱れ打っていた。
「は……っ、は……」
 砂漠の夜は気温が下がる。肩の辺りが冷たくなり、古傷が引きしぼられるように痛んだ。仕方がない。まだ完全には癒えていないのだ。本当なら、完治まで数ヶ月はかかるだろう。それが、こんなにも早く、動けるようになっている。
 不可思議な力が、自分を繋ぎ止めようとしている。
「…………ぅ」
 耳の奥に彼の声が残っている。
 背を丸めて、我が身を抱いた。
 まだ、傷は癒えない。身体も、心も貫く痛みは、誰も救えず、何も変えることのできなかった自分自身への罰は、ここで立ち止まっているべきではないと教えている。


   *


 王宮に住む女性たちの間で流行しているのは、刺繍だ。
 これは、リュイナ妃の出身である一族が、刺繍業を生業とするためで、リュイナ妃は、婚礼の際、一族総出で手がけた豪奢な刺繍が施された衣装をまとい、人々の注目と感嘆を集めた。宝石や金銀で飾ることの多かったそれまでの王国の人々は、自らの手で作り出す美しさに夢中になって、貴重な糸を集めて、様々なものに刺繍をするようになった。そして、それにも増して、建築や彫金の分野は、緻密で繊細な意匠のものが流行していった。
 王宮勤めの女性たちが男に贈るものといえば、そうした刺繍を施した手巾や帯だ。中には相当な達人もおり、リュイナ妃はそうした有志を集めて、作品展覧会を開くこともある。
 王子の様子を見に、王子宮を訪れたシャルガは、ふと、見覚えのない刺繍作品が壁に掛けられているのに目を留めた。不思議な図案だったせいもある。同じ文様を繰り返す刺繍が多い中、それは、様々な色糸で草を描いていたのだ。
 何種類もの草が生えた、茂みのようにも見える。薄墨で描いた絵のようだ。はるか異国の国では、砂漠ではすぐに色あせてしまうような色彩で、このように淡い絵を描くこともあるという。
「シャルガ。お待たせ」
 ユン王子が、リリスを伴って現れる。前の時間に割り振られている、歴史の学習時間が少し伸びてしまったのだという。真面目なのは良いことだと思いながら、シャルガは王子の剣の稽古を見た。
 sその間、リリスは、庭を眺められる窓辺に座ることにしたようだ。庭に出ると、王子は彼女に向かって手を振った。
 シャルガは基礎の指導を繰り返し、身体を作っていくように説きながら、王子の世間話に耳を傾け、求められるままに話した。
「シャルガは、金砂遺跡の一族のことを知っている?」
「はい。古い時代から続く、神官の一族ですね。リュイナ妃陛下も、金砂一族の出身でしょう」
「うん。でも、私はその遺跡の場所を知らない。王にしか知らされないし、向こうからやってくるのを待つしかないって」
 シャルガは内心で首を傾げ、問いかけた。
「殿下、何故、金砂一族のことを?」
「情勢が悪いと聞いたから。……父上にもしものことがあれば、その時は私が、王国と遺跡を守らなければならないと」
 内心で舌打ちする思いだった。家族の安寧を誰よりも望んでいる王、平和の象徴である王子に、こうしたことを吹き込む輩がいるのだ。
 だが、本心ではその覚悟は持っておくべきだとも感じている。十二歳にもなれば、砂漠の民の間では、もう十分に働け、結婚もできる。王に万が一のことがあれば、王子の言う通り、彼が砂漠を背負わねばならない。
「金砂一族は、昔々から、砂漠を守っている。街が竜に襲われないのも、彼らの不思議な力が土地を守っているから。さだめられた時にしか姿を見せない彼らが現れる時こそ、世界の変わる時なんだってね」
 言外に、今がその時なのだろうか、と問うていた。
 王子は心の奥底で知っている。その時、多くのもの、そして身近で大切なものたちが失われること。心に傷を作り、その痛みとともに、未来へ進んでいかねばならないと。
 稽古を終えて、部屋に戻ってくると、侍女が汗を拭うための布と、檸檬水を用意して待っていた。窓辺のリリスは手元に目を落としてたが、こちらの姿を認めて「おかえりなさい」と微笑んだ。
「今日の稽古はどうでしたか?」
「うまくいかない。なんだか、自分の思う通りに身体が動かないんだ」
 その落胆ぶりに、何か思うところがあったのだろうか。
 リリスは手を揃え、どこか真剣な声音で言い聞かせるように言った。
「指の先、髪の一筋まで感覚を張るのは、達人でも難しいことです。まずは見えるところから。そして、触れられるところ、耳で聞けるところに、感覚が行き渡っていくのです。肌が気配を感じ取るようになるまでには、何十年もの訓練が必要になりますが、毎日少しずつ積み重ねていけば、自分のことはもちろん、誰かを守ることもできるようになります。諦めないでください」
 ここまで饒舌になる彼女を見るのは初めてだったので、シャルガも、王子も驚いた。これではまるで、剣を生業にしてきた者の言葉ではないか、と思った。
 しかし、王子は真っ直ぐな目で「うん」と頷いた。
「諦めれば、積み上がるものなんてないもの。刺繍と同じだって、母上が言っていた」
 その言葉に、リリスがどこか傷ついた顔をしたのは気のせいだったろうか。
 シャルガはそれを確かめたくて、あの壁の、と先ほど見ていた刺繍作品を指した。
「あれは、どなたの手なのですか」
「リリスだよ」
 答えたのは王子だ。シャルガはリリスを見た。彼女は、笑うのをこらえるかのような、難しい顔をしている。
 そう言われてみると、彼女の膝の上にあるのは、刺繍を施している途中の布だった。ずっと手を動かしていたのは、そういうことだったらしい。
「お恥ずかしいです。飾っていただくようなものではないのに」
「もっとちゃんとしたのを作るからって、ずっと刺繍してるんだよね」
 リリスの顔に、脆い笑みが浮かんだ。集中して手を動かしているのは、別の理由があるようだ。
「戦士長様。国王陛下がお呼びでございます」
 侍女が知らせに現れる。シャルガは王子とリリスに辞去を告げると、王の待つ宮殿へと向かう。
 その道すがら、リリスの様子がいつもと異なっていたことを考えた。
 寝不足なのだろうか、目の当たりに影があり、どこかぼんやりしていた。しかし意識をここに繋ぎとめるかのように、刺繍に集中しようとしているらしかった。何か、悪い夢でも見てしまっているのだろうか。
 思い出したくないのであろう過去の色が、リリスの周りを薄衣のように取り巻いている。窓辺に座り、時折外を見ては、王子に手を振る彼女。微笑みには優しさとともに影が、言葉には気遣いの裏に傷ついたものが滲み、喜びはいつも自制という穏やかさで包まれてしまう。
 王は何か知っているのだろうか。彼女がここに来なければならなかった理由や、その過去について。
 知りたい、と思い始めている自分に、シャルガは驚いた。自分はそれほどまでに詮索好きだったのだろうか。ただ単に、彼女が異邦人であり、守るべき王家の方々に害をなす可能性を考えて警戒しているだけではないことは、彼女に対する親しみから分かっている。
 リリスには、大樹のような芯があるように思うのだ。確かなものに裏付けされた、羅針のような。今はそれが、何らかの事情で狂わされている。
 彼女の、本来の姿が見てみたい。リリスという名に隠された、本当の彼女は、いったいどんな娘なのだろう。
 侍従が扉を押し開く。室内には、ゼルム王と、騎士領国の騎士姫アリス・マーシャルが待っていた。
「参りました」
 王は頷いた。アリスの表情は硬い。何か、状況が動き始めたことを意味している。
 シャルガが到着して早々、王は「ルブリネルクが動いた」と告げた。
「砂漠と王国の境に、軍が集まりつつある」
 総攻撃か、と思ったシャルガに、王は首を振る。
「進軍する様子はない。ただ、砂漠を取り囲もうとしている。その代わりに竜が飛び、こちらの様子をうかがっているようだ。砂漠から何かが逃げ出せないよう、あるいは、入ることのできないようにしている、と考えられる」
 シャルガは暗いものが満ちるのを感じた。
(……砂漠の者を、皆殺しにしようとしているのか)
「時機ではないのですか」
 アリスが不意に言った。
「お預けしているものを、お使いになるべきでは」
 なんのことだ、と思うシャルガだったが、王はすべてを承知しているようだった。
「友との約束だ。本人が望まない限り、私が使うことはない」
 そう言い切って、王はシャルガに命じた。
「シャルガ。準備をせよ。砂漠を侵すものを許してはならぬ」
 頭を垂れながら、シャルガは考える。
 リリスだ。
 王と騎士姫が指しているのは、明らかにリリスだった。そしてこの会話の流れは、彼女がルブリネルクに関わるものだと示していた。
(いったい、彼女は何者なのだ?)

    



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