「何を縫っているの?」
 シャルガが立ち去った後、他の講義の課題として出された本を読みながら、ユンが尋ねる。リリスは彼の側に座りながら、細々と針を動かしていた。
「リュイナ様に、聖句を教えていただいたので、それを図案にしたものを縫っています」
「この前、母上に見せていたもの?」
 そうです、と頷いた。こういうものを縫ってみたいのだが、と文字を文様に変えて、絵を描いてみせると、リュイナは是非頑張ってみてほしいと言って、布と糸を与えてくれたのだ。
「どんな聖句?」
 リリスは一瞬、正直に話すことをためらった。
「……『わたしは光、わたしは闇。あなたのすべてをつつむもの。恐れるものなどありはしない。わたしがあなたを救うから』……本当は、もう少し難しい言葉だったのですが、だいたいこのような意味だそうです」
「……リリスは、誰かを助けたいの?」
 聡明な子だ、とリリスは微笑んだ。
「そうです。いつも、そのことを考えています。……すべてを救うなんて出来はしないというのに、救いたいと、まるで病のように思っている」
 囚われているのだ、と思う。
 誰かのために戦い、命を削らなければ、生きている実感がない。
 だからこの国での日々は、春の宵の夢のようだ。気温は高く、空気は乾いて、夜は凍えるように冷え込むが、誰にも脅かされない生活を送ることができている。ユン王子や妹姫は懐いてくれて毎日楽しいし、リュイナ妃は親切で、ゼルム王はおおらかで優しい。自分が異分子であることを、忘れるくらいに。
「っ……」
 ずくん、ずくん、と傷が疼く。
 先日からずっとこうなのだ。何かを訴えるかのように、鈍い痛みが全身に響いている。致命傷になるところだった腹部の傷が原因だ。驚異的なほどの治癒力で、傷が塞がり、体力も戻りつつあるものの、今になってこうして痛むのだ。
 忘れてはならない、とでもいうかのように。
「リリス? 傷が痛むの!?」
「……大丈夫です。少しだけ、違和感があるだけですから」
「医師を呼んでくるよ!」
「殿下、使いをやればよいのです」
「大丈夫だよ! 私が行ってくる」
「いけません。それでは、リリスは殿下に贔屓されていると言われるのですよ」
 厳しい指摘に、王子はぐうっと黙った。侍女はリリスと目を見交わして笑い、ほかの者に医師を呼ぶよう命じる。
「痛いって言っている人のために、医師を呼ぶこともできないなんて、王子って不便だな」
「命の危険があるときは、自分の心に従えばいいのです。今はそうではないというだけですよ」
「そうかもしれないけれど、誰かが痛いっていうのは嫌だ」
 悔しげに呟くユン王子に、リリスは手を伸ばした。その、まだ小さい、けれど必ず大きくならなければならないその手を、両手で握る。
 柔らかい子どもの手。
 自分は、この平和な日々の中にあっても、彼のような手に戻ることはできずにいる。
「リリス?」
「……どうか、優しい国王になってください。他の人たちから心を守ってもらえる、大きな人になってください」
 祈りながら、痛みを覚える。自分が守ると言えないのは、守れなかったときに後悔するからだ。自分に付けられてしまう傷が怖いから、こうやって誰かに、何かに縋るしかない。
 私はこんなに弱かったろうか。昔は、もっと。
「どうしたの、リリス。なんだか母上みたいだよ」
 くすぐったそうに笑っているのを見て、リリスも顔を綻ばせた。そして、遠い故郷の、顔馴染みの子どもたちのことを思った。
 きゃあああ、と悲鳴が聞こえたのはその時だった。
「なに!?」
「殿下!」
 侍女が王子を庇う。リリスは、咄嗟に周囲の状況を確認した。
 頭の後ろが、逆立っているような気がする。首筋に、皮膚に、ちりちりと何かが触っている。そして、腹部の傷が、じくじくと痛みを叫び始めた。
(痛い……)
 心臓の鼓動に合わせて、ずき、ずき、と脈打つ。
「侵入者?」
「いや……それにしては、静かです」
 培ってきた感覚が、無意識にそう告げさせていた。人の気配がしない。暴れている様子も聞こえない。よっぽどの手練れか、別のものか。気のせいでなければ、何かが這いずるような音が、かすかに。
(まさか……)
 ごくりと息を飲む。全身が、悪寒に震えた。否、武者震いだったかもしれない。どれだけ遠ざかろうとも、抗おうとも、長らく染み付いた感覚が、身体を勝手に動かす。そうなるように、生きてきたから。
 ――そして姿を現したものに、悲鳴が上がった。


   *


 悲鳴が聞こえた。女の声だ。
 戦士長として、日頃から宮殿内でも帯剣を許されているシャルガは、腰のそれに手をかけながら走った。この方向は、王子宮だ。ユン王子とリリスが侍女たちとともにいるに違いない。
「なっ……!?」
 そして、角を曲がったところでシャルガが見たのは、腰を抜かした侍女と、今まさに彼女に飛びかからんとする異形のもの。
 ――砂蜥蜴。守護の力によって、決して街に侵入することはなかった、竜の眷属。
 シャルガは鞘を払い、跳躍すると、砂色の鱗に剣を突き立てた。地面に縫いとめられた砂蜥蜴は、シャアッ! と鋭く鳴き、短い手足でもがいたが、しばらくすると動かなくなった。
 剣を抜き「殿下はどちらに」と訊くと、侍女は震える手で部屋の方角を指した。砂蜥蜴を打ち払いながら、シャルガは部屋に駆け込んだ。
「殿下!」
 シャアアアッ! と、砂蜥蜴が断末魔をあげた。
 王子のための華麗な室内を蹂躙する前に、異形は一太刀のもとに貫かれていた。
 剣は、壁にかけられていた宝剣だ。金で象眼され、宝石がはめ込まれており、ただ重いだけで武器になり得ない、普通ならば。
 絹の靴で砂蜥蜴を踏みつけにし、剣を抜くのは、女。
 慎重に刃を動かすのは、その生き物の血に毒があるからだ。万が一口に入れたり、傷に触れたりしてはならない。彼女は、それを知っているのだ。
(リリス――お前は)
 呆然とするシャルガに、異邦の女は厳しい眼差しを向ける。
 柔らかい衣服の裾が、柔らかに動く。
 しかしその目の鋭さは、戦いを前にした戦士のものでしかなかった。 

「お前は……誰だ?」

    



>>  HOME  <<