第4章 蜥   
    


 ふっ、と、リリスが視線を和らげた。
「疑問はもっともです。けれど、今は時間が惜しい。この状況を、誰か説明できる人はいますか」
 そう言って、苦笑に近い表情をする。
 シャルガは我に返り、首を振った。
 この街そして王宮に、砂蜥蜴の侵入を許すなど、異常事態に他ならない。この地は、守護を受けている。その機構に、何らかの異変があったか。
「――結界が壊されたんだと思う」
 思いがけず冷静な声で告げたのは、ユン王子だった。自分を抱く乳母やの腕から逃れて、シャルガとリリスを見比べている。青い顔をしているが、目つきはしっかりしており、この状況に取り乱していない様子に、シャルガは驚いた。
「結界。そんなものがあるのですか」
「この街の地下水路は、遺跡の一部だ。この宮殿の下にも残っている。そこに、守護者の力を張り巡らせるための、結界石と呼ばれる柱があるんだ。多分、それが汚されたか、壊されたかしたんだよ」
「それをもう一度復元させることはできますか?」
 リリスは静かに、しかし早口に尋ねる。王子は、首を縦にした。
「出来る。母上か、僕が行って、発動しなおせばいい」
「殿下。それは」
 言葉を止めようとする乳母やに向かって、王子は厳しい顔つきをする。
「誰にも知られちゃいけないって? こんな状況でそんなことは意味がない。よく考えなくても、結界石のある場所に近いのは、私だ。母上はきっと父上のところにいる。なら、行かなければならないのは私だよ」
 言って、彼はこちらをじっと見上げ、悔しげに眉を寄せ、拳を握った。
「シャルガ。それから、リリス。手を貸してくれる? 結界石のある場所は、王家の者しか知らない。でも、一人でそこまで行く力はない……。あなたたちの守りがなくちゃ、砂蜥蜴一匹倒せないんだから」
「その結界石のある場所は、どこなんです?」
「王宮を取り囲む壁、門の真下あたりだ。この王子宮から壁側に向かっていくと、枯れ井戸がある。そこから地下に降りていくのが、一番近い」
「竜がどこから現れているか、分かりますか」
 リリスの質問が重なるが、王子は受け止め損なった。
「竜?」
「ああ……別の呼び方があるんですね。あの生き物です」
 彼女は、自らとどめを刺した砂蜥蜴を指した。
 あの生き物は、砂漠を旅する者なら誰でも見たことがあるが、彼女はそうではないらしい。
「砂蜥蜴は、強い個体を頭といただいて群れで行動する。水場で狩りをするが、水が多すぎるところも好まない。乾燥に強く、狩場を失えば、新たな水場を探して砂を渡る。だが、砂漠のこの時期は雨が多い。だから、侵入してくるとすれば……」
 シャルガの視線を追って、リリスは頷いた。
「地下の遺跡、もしくは、街周辺に地上に出てこられる場所がある、ということですね」
「街の外側にも遺跡がある。だったら、街も襲われている可能性があるってことだね……」
 シャルガは考えた。
 砂蜥蜴がどれほどの群れを形成しているかは分からないが、結界が失われているという状況では、さらなる外敵の侵入を許してしまう。砂蜥蜴を駆除するよりも先に、結界を再発動させ、閉じ込めてしまった中で退治する方がいい。
 王子が結界石の在り処を知っている。王妃もじきにそちらに向かうだろう。だが、王子の言う通りの場所に結界石があるなら、確かにこちらの方が先に到着するのだ。
 王子を守って、結界石の元へ行けるか。砂蜥蜴を退けながら。
 シャルガはリリスを見た。侍女は卒倒しそうだというのに、リリスは平然としている。むしろ、この張り詰めた緊張感の中で、言葉を交わしている方が自然体のように見えた。
 冷静で、柔らかで、強い芯のようなものがあり、瞳には光がある。
 同じものを知っている。
 氏族の中で、歴戦の勇者と呼ばれるような若い戦士の中、突出した技とおおらかな心を持ちながら、他者を気遣い、どこか戦いを厭うような人物が、稀に出ることがある。シャルガの知るその人物は、今は後進の育成に当たっているが、シャルガがまだ青く、実戦にも不慣れだった頃、共に戦ったことがある。
 前を見据えて、何を守らねばならないかを知っていた、その目に宿るもの。
 命の光だ。
(このまま、ここで殿下をお守りすることは可能だろう。砂蜥蜴の侵入経路は限られているから、最低限の人数で防ぐことができる。リュイナ妃陛下が結界を再発動させるのを待てばいい……だが、その妃陛下が、万が一結界石にたどり着けなかった場合、ユン王子殿下が結界石を発動せねばならない。その間に、ルブリネルクの竜たちが侵攻してこないともかぎらないのだ)
 戦える者は、シャルガ、王子宮を警備する兵士が数人、そして。
 凛とした横顔を見つめると、彼女がこちらを向いた。
 その確かさに、シャルガは頷いていた。
「殿下。結界石のもとへ向かいましょう。私が殿下をお守りいたします。乳母や王子宮の女性たちには兵をつけ、助けがくるまでここを動かないようにしてもらいます。それから……」
 リリス、と呼ぶと、彼女は向き直った。
「あなたは、どれくらい『使える』のか」
「小竜……、砂蜥蜴くらいのものは、倒し慣れています。対人戦も、可能です。子どもの頃から剣と共に生きてきました。皆さんと遜色ない程度には戦えると思います」
 あなたと戦っても、いい勝負ができると思いますよ、と言って、彼女は肩をすくめて微笑んだ。それが大ぼらでなければ、これ以上ない戦力だ。異形を前に、本当に竦むことがなければ、だが。
(信用、してみるか)
 シャルガは頷き、王子宮の警備の者たちに告げた。
「私とリリスで、殿下をお守りしながら、地下遺跡の結界石の元へ向かう。兵たちはこの王子宮と宮の者たちを守り、宮中の状況把握に努めよ。恐らく、すぐに陛下より救助の手がくる。それまで持ちこたえられるな?」
「はっ」
「殿下、お支度をいたしましょう。そのままでは怪我をしてしまいます。誰か、防具と武器を!」
 乳母や女官たちが散っていくのに、リリスが声をかける。
「私にも、剣をください。この宝石の剣はぜんぜん切れないので」
 女官たちはそれだけでなく、兵士が身につける簡単な装備や衣服も持ってきた。
 隣室に消えたリリスが戻ってきたとき、彼女は肩を越す髪を一つにまとめ、最初からまとっていた白い衣服の下に脚衣を身につけ、絹靴ではなく革の靴を履き、腰に兵士の剣を帯びていた。
 ユン王子もまた、訓練用の防具を身につけている。シャルガは、二人が着替えている間に用意させた紙と筆記具を用いて、宮中の簡単な地図を書いていた。本来なら、軍舎や文書室などにこういった地図は保管されているはずだが、今の状態でそれを入手することは難しいため、シャルガが記憶する限り、地図を再現したのだ。戻ってきた二人を呼び寄せ、位置を確認する。
 枯れ井戸は、この王子宮の庭の端、普段は誰も立ち入らない場所に、蓋で封印されているという。井戸が枯れたのは王子が生まれる以前のことだが、王子は庭で遊ぶうちに、それがあることを知ったらしい。
「母上に話したら、危険だから近付かないように言われていたんだ。ただ、特別な使い方をすることがあるから、覚えておきなさいと、下を一緒に歩いたことがある。道は覚えているよ」
「それは心強い」
 シャルガが太く笑いかけると、ユン王子は嬉しそうに笑顔を見せた。
 方角は把握できた。万が一迷ったとしても、目指す場所は門なのだから、そちらを目指せば近いところに出られるはずだ。王子ばかりに負担をかけるわけにはいかない。
「リリス」
「他の場所にも、砂蜥蜴が入り込んでいるみたいだ。遠くで叫び声がする。戦えない人はなるべく一箇所に固まるよう、助けてあげたほうがいいかもしれない」
 シャルガが目を向けると、王子宮の警備主任が頷いた。
「周辺の見回りをし、避難している者を集め、こちらに受け入れるようにいたします」
「無理はするな。通常、砂蜥蜴は群れで行動はしないが、この状況ではその動きが予測できない」
 準備は、とシャルガがユン王子とリリスを見ると、二人は頷いた。
「行こう。シャルガ。リリス」

    



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