光に近づいていくと、その周りが開けているのが分かってきた。リリスが、慎重に通路を出る。
 少しだけ広くなった場所の中央に、青い光を放つ石があった。これが、結界石なのだろう。
 ただ、まるで息も絶え絶えとばかりに瞬いている。
「止まって」と、リリスが進み出ようとした王子を制した。視線が下を向いている。同じものを目に止め、周囲を確認し、シャルガは言った。
「血痕。それから……」
 あちこちに飛び散っている、小さなもの。
 噛み砕かれた生き物。あるいは踏みしだかれた。
「鼠の死骸……」
 いや、それだけではない。無数の小さな生き物たちが、この場所に集められて殺されている。小さな骨には肉片一つ残っていない。噛み砕かれて、白い石のようになっている。
 リリスが、大きく息を吐きながら言った。
「……おかしいと思っていたんです。こういう場所なら、蝙蝠や鼠、蜘蛛とか虫が潜んでいるものだと思うんですけど、ここに来てから、そういうものを一匹も見なかったから」
「砂蜥蜴の仕業か? だが、それにしても、作為を感じるような狩りをするだろうか。これでは、まるで人の手が入ったようだ」
「確かに。わざとこの場所で生き物を殺したように見えます。けれど、通ってきた道には、人が立ち入った様子はありませんでしたよね」
「――上位の、」
 リリスとシャルガが辺りを検分しながら話していると、少年の、少し高く、静かな声が響いた。
 ユン王子は、蝙蝠か鼠のものであろう血痕を見つめ、痛ましげに眉をひそめている。
「力を持っている、上位のものなら、砂蜥蜴を統率することができる、と思う。蜂と同じだ。働くものがいて、兵隊がいて、それを統率する中位のものがいて、さらに上位のものがいて、それらすべてを統べる王がいる」
 ざわり、とリリスの気配が波打った。
 なんだ、と横目で警戒しつつ、シャルガは王子に尋ねる。
「命令を出しているものがいる、ということですか?」
「うん。砂蜥蜴の普段の生態なら、こんな街中までやって来れるはずがない。結界石を汚して、かつ侵入させようと考えられるのは、もっと頭のいい存在のはずでしょう?」
 ユン王子の指摘はもっともだった。
 裏にいるのは、十中八九、ルブリネルクだろう。あの国に与する竜が、砂蜥蜴に命令を発したのだ。だが、そこまでしても、宮中にそれ以上の襲撃はなく、混乱もなかった。ただ単に、街に攻め入るというだけではない、別の目標があるということになる。
「敵の気配はないようですが……」
「多分、遠くにいるんだよ。そしてきっと、下位の竜たちを通じて私たちを見ているんだ」
 全員が黙り込む。
 地下を吹き抜ける風の音が、急に冷えて感じられた。
「……ひとまず、結界を再作動させるね。二人は、できるだけ汚れたものを片付けてもらえるかな」
「御意」
 シャルガは、リリスと二人で、当たりに散らばる小動物の死骸を、光る石から遠ざけた。動きながら、気配の変わったリリスを伺う。
 先ほどの明るさは弱まっているが淡々としている。汚れものと、怯む様子もない。だが、何が彼女を反応させたのか。
「――――」
 王子が息を吸い込んだ。
 少年の声が、不思議な音を響かせた。言語ではない、音の並び。石に吹き込むようにして鳴り響くそれは、やがて狭い通路の中で重なり始めた。
 少年の、地を撫でるような声は、鼓を打ちながら鈴を鳴らすようだった。結界石の明滅が活発になり、通路の奥にまで光が満ちていく。
 幼い頃、氏族の語り部から聞いた話を思い出す。
 砂漠の国には、未だ、古の王国の血と誓約を守り続ける氏族があって、彼らはこの大地を見えないところで支えている。人々が歴史を忘れつつある今でも、この世界の守護者を選び、失われたとされる不可思議な力と技を継いで、生きている――彼らは、金砂の一族と呼ばれている。
 彼らの本来の住処は秘されている。必要な時に予言を持って現れるため、予言者の一族ともいう。その血を引くのが、シャルガの主君の妻、リュイナ妃であり、その子であるユン王子なのだ。
 光が、溢れる。
 澄み切った水の深淵にあるような、青い光が閃き、満ちた。シャルガの肌をぶわりと撫でた古の力は、大きく膨らみ、大地から空へと突き抜け、その場を包んだようだ。
 ほっと、王子が息を吐いた。
「……初めてだったけれど、上手くいったみたいだ」
 その声に誘われるようにして、集団の気配が近付く。先頭に立つのはかがり火を掲げた戦士、その中央で守られているリュイナ妃が不安げな顔を覗かせているのを見て、王子はぱっと笑顔を浮かべた。それまでとは打って変わった子どもらしい声と表情で「母上!」と呼びかける。シャルガとリリスが安堵するのと、王妃が泣きそうな顔で微笑むのとが、同時だった。


 地上の砂蜥蜴は、王の指示のもとに一掃された。地上に戻ったシャルガも駆逐隊に加わったが、なし崩しにリリスと行動を共にすることになっていた。
 同僚や部下たちは困惑しきりだった。仕方があるまい。王妃の側に侍っている、王子と王女の世話係の女性が何故こんなところにと疑問に思うのはシャルガも同じだったからだ。
 しかし、その先入観を除くべきだと考えるほど、リリスの戦闘力は確かなものだった。茂みに隠れた砂蜥蜴を発見し、他者と協力して仕留める。その後の処理も、血に触れないということ、炎を使って死骸を燃すなど、完璧だ。
「あれは一体、誰なんだ?」
 同胞に問われ、シャルガは首を振った。なすことを成す、その淡々とした行動力で砂蜥蜴を駆除して回る彼女の素性を知っているとすれば、それは、自分たちの主君に他ならない。


   *


 宮中に加え、市街地における砂蜥蜴の駆除も終わり、王が戦士たちをねぎらった。そして、砂漠の青い夜が訪れた頃、最後に密かに呼ばれたのが、リリスだった。
「立ちなさい」と、丁寧に膝をついた彼女に、王は言った。
 リリスと共に王子を守ったシャルガに加え、王妃リュイナ、王子ユン、そして、騎士領国の騎士姫アリスとその護衛たちが顔を連ねている。
 中でも、アリスがリリスに向ける眼差しは、厳しい。腕を組み、彼女を睨んでいる。
 それらをゆっくりと見回し、リリスは頷くようにして一度頭を下げ、立ち上がった。
「まず、お前の名を聞こう。王子が与えた仮の名ではない。お前の、真実の名だ」
 リリスが、引き攣れに手をかけられたような、痛みを覚えた顔をした。
 目を閉じ、息を吐く。
「……真実の名は、捨てました。陛下がご存知の名は、通称です。生きるために名を変えてきました。だから、ここでリリスという名をいただいたとき、リリスとして生きようと思っていたんです。戻れるとは思わなかったので……」
「過去は捨てられぬ」
 王の言葉は重く、しかし優しく包み込むように響いた。
「捨てたという真の名も、今は名乗っていない通称も、王子が与えたリリスの名も、お前自身だ。お前という存在は、名を変えようとも変わらない。変えようと生きることが、戦うということなのだ」
 リリスの目が、恐れるように揺れる。
「さあ、お前の名を教えてくれ」
「…………」
 ざあざあ、と、夜風が吹く音がしている。まるでそれに耳を澄ますように彼女は目を伏せ、そして、王と、居並ぶ者たちを順に見た。
「――私は、キサラギ。草原地帯、セノオの村の竜狩りです」
 そして、と彼女はアリスを見た。
「半年前までは、ルブリネルク龍王国で、ランジュ公爵令嬢エルザリートの騎士をしていました」
 うん、とおおらかに王は微笑んだ。
「では、キサラギ。お前が何故ここにいるのか――命を失うところを、何故こうして生きているのか、説明しよう」
 最初は、秘密裏の打診だった、と王は言った。
「ここにいる、騎士領国のアリス・マーシャルを伝って、ある人物から、密かに逃がしたい者がいるのだが受け入れてもらえないだろうか、という打診を受けた。その時に、キサラギ、お前の素性を聞いた。王太子オーギュスト・イルと、彼に最も近い人間であるエルザリート・ランジュに深く食い込んだ存在だと。近く、王位継承によってルブリネルクは荒れる、その時に、諸外国と連携して彼の国を打ち倒す、その旗頭としてお前が使えるのではないか、という」
 リリスは苦笑した。
「私は、ただの異邦人なんですが」
「異邦人でありながら、一人の騎士としてお前の名は轟いていた。オーギュスト王子に対抗するならお前だと、私たち騎士領国は思ったんだ」
 どこか怒った口調で言ったのは、アリスだ。
「私たちは、ルブリネルクの『とある人物』から、お前の救出を依頼された。大恩あるその方の要請を、私たちは断れなかった。あの日――お前が、竜騎士と剣闘を行った時……」
 リリスが、ぐっと顎を引き、腹部を抑えた。
 そうだ、とアリスが頷いた。
「あの闘技場の水場は、外の河川から水を引き込んでいる。あの時、水の中には私たちの仲間が潜んでいた。ぎりぎりのところでお前を水に引き込んで、逃亡する予定だったんだ。そして、お前は重傷を負って水に落ちた。私たちは、水の中でお前を拾って、王国を出た。運が良かった。あの後、闘技場が半壊になったから、やつら、お前の死体をさらうどころではなかったようだ」
 今はどうか分からんが、とアリスは苦い顔をする。
「お前は、生きるか死ぬかの瀬戸際だった。傷が深すぎた。意識も戻らず、このまま捨て置いた方がいいのでは、と思っていたとき、ゼルム陛下から、亡命について了解する旨の返答をいただいた。そして、お前はこのラク王国に来ることになったんだ」
 視線を受けて、王は再び微笑んだ。
「予言があったのです」
 言ったのは、リュイナ妃だった。
「あなたを匿い、その傷を癒し、再び立てるようにするよう……当代の巫女様からじきじきに、あなたを守るよう仰せつかったのです」
 砂漠の民であるシャルガ一人だけが、ぎくりと息を飲んだ。
 その反応を捉えたリリスは、不思議そうな顔をしている。
「巫女様……ですか」
「砂漠において、巫女と呼ばれる方は一人だけ。そしてそれこそが、ルブリネルクの者たちが探し求めている、砂漠の心臓部、秘められし遺跡を指すのです」
「恐れながら!」とシャルガは慌てて介入した。
「それは我が国の秘密。我が王が守る、最も重大な秘儀です。非常事態だとは理解しております。しかし、それを話してよいものか」
「お前の懸念は心底理解している。シャルガ。だが、これもまた、巫女からの指示なのだ」
 王にそう言われては、シャルガは口を慎むしかない。
「リリス。……私にとって、お前はリリスでしかないゆえ、そう呼ぶことにするが……お前の知りたいことについて回答する用意が、巫女にはあるという。お前が望めば、私は秘められし遺跡への道を開こう。だが、ひとたび巫女の話を聞けば、お前は『守護者』の運命を辿ることになるともいう」
「守護者……」
「そうだ。古の時代、竜と人が共に暮らした王国とその民のこと。そして、今ルブリネルクを狂わせている竜たちの真実について」
 リュイナ妃が王子の肩を抱き寄せ、アリスたちが視線を注ぎ、シャルガは、リリスの目に炎のようなきらめきが、ゆっくりと揺らめくのを見守る。
 草原の人間で、王国の騎士でもあり、今、砂漠の国の神秘に招かれている。限られた者にしか触れることのできない、その扉が開かれんとしている。
 この娘は、いったい、誰だ?
 その答えを、王は口にした。

「――この世界の混沌を正すことができるのは、お前だけなのだ」

    



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