第5章 真   
    


「これを」とリュイナが命じて持って来させたのは、赤い色で仕立てた装備と防具だった。見覚えがあるのは当然だ。これは、土手っ腹に風穴を開けた時の、キサラギの装備だったのだから。
「とてもいい品だったから、修繕させていたの。きっと必要になると思って。ただ、元どおりとまではいかなかったようで、少しだけ手を加えたようね」
「リュイナ様……ありがとうございます」
 それらを受け取って押し抱き、礼を言って、キサラギは着替えを始めた。
 室内にある姿見に姿を映すと、ずいぶんと顔つきや身体つきが変化しているのが分かる。
 筋肉は落ちて、脂肪がついたのは、食生活の豊かさと運動量の減少が理由だ。骨っぽかった手足は丸くなり、女性らしく柔らかくなっているが、先日動いてみてかなり身体が重いことを自覚した。
 顎まわりがすっきりしているのに、唇が少しだけふっくらしていた。髪もずっと短くしていなかったので伸びている。高いところで一つにまとめて、見つめた顔は、もう男と間違えられることはないだろう、と思えるものになっている。全体の印象が丸みを帯びたせいもあるかもしれない。そうして、つくづく思うのは。
(姉さんに、そっくりだ)
 歳の離れた姉は、今のキサラギのよりも長い髪をして、こういう身体つきで、こういう印象の人だった。柔らかさがあるのに、剣を帯びていることを忘れさせない、異性を突き放すような印象。だから、あの人が忍んで逢引をしていることを知った時には驚いたものだけれど。
 そう、あの人はもういない。――センが狩ってしまった。
(……砂漠の巫女が、私の疑問に答えをくれると言った。だったら、何故竜の血に触れると竜になるのか、竜が何故人間の血を求めるのか、教えてくれるということか)
 遠く離れた草原の出来事、そして自ら遠ざけた王国のことを、キサラギは腹部の傷を負った痛みとともに思う。
 何もかも投げ捨てて平穏に暮らしてしまった。暮らせると、思った。もう戦う力はない、自分に、誰かを守る力はないと。
 だが、小竜――ここでは砂蜥蜴と呼ばれている、あの生き物が姿を現した時、キサラギは、とっさに持っていた刺繍作品を投げつけて相手を引きつけると、壁にかかってあった宝剣を取り外して、なまくらなその刃を、砂蜥蜴の頭部に突き立てていたのだ。
 本当に、染み付いた習慣とは恐ろしい。竜だと判別した瞬間、どうすれば殺せるかを考えていた。
(私も、もう十九になるんだから、長年訓練していてそれくらい動けて当然、って、父さんやハガミ隊長は言うかな)
 軽く噴き出した。笑えた。
 よかった。気持ちが、少しずつ戻ってきている。ここに来た頃は、息をすることすら面倒だったのに。
 着替えを終えて出て行くと、リュイナの隣にユンがいた。無邪気な少年だった王子様は、砂蜥蜴の来襲から少し大人になったらしく、憧れるように見ていたキサラギに距離を置き、見定めるような眼差しをするようになった。
「寸法はどう?」
「ぴったりです。ありがとうございます。お腹の部分にものすごい穴が空いていたと思うんですけど、かっこよく直していただいたみたいです」
 革鎧は胸から腹部にかける部分は新しくしたようだが、外衣には継ぎが当てられ、華麗な刺繍が施されていた。白く咲く大輪の花は、太陽にも見える。
「まるで古王国の戦士のようだわ」とリュイナが笑うと、彼女付きの女官たちが目を丸くしながらこくこくと頷いている。
「ありがとうございます。やっぱり、私にはこっちの方が馴染むみたいです」
「そう? 女性ものの衣装も、よく似合っていたと思うけれど」
「うん。とても素敵だった。今もすごく似合っているけれど、でも、リリスらしいっていったら、こっちの格好かもしれないね」
 ユンがキサラギを見つめて、リュイナに同意を求めた。息子の頭を柔らかく撫ぜ、リュイナはそろそろ、とキサラギを促した。
 見送りを許された者たちが、一斉に腰をあげる。
 門前には十名程の小隊が、砂漠を渡る準備をして待機していた。キサラギが現れたのをすぐに目に留めて向き直ったのは、シャルガだ。
 この人も運のない人だなあ、と、キサラギは思う。自分なんかに関わったせいで、申し訳ないことになってしまった。
 これからキサラギは、シャルガ率いる小隊の一員となって、砂漠に秘められた遺跡を目指す。旅慣れないキサラギには同行人が必要だったし、異邦人が一国の秘密に立ち入るのだから、彼らは監視も兼ねている。そして、万が一、竜が急襲してこないとも限らないのだ。
 ゼルム王が現れると、シャルガたちは一斉に膝をついた。キサラギも、ゆっくりと膝をつく。ゼルムはキサラギを立たせると、これを、と琥珀の首飾りを手渡した。
「秘められし道を開く鍵だ。これを持っていれば、普段は隠されている道が見えるようになる」
「お預かりします。必ず、お返しにまいります」
 首から下げると、二つ重なる。一つは、鍵となる琥珀石。もう一つは、預かり物の護符だ。
 血やら泥やら水やら、かなり汚すようなものに触れさせたと思うのだが、不思議なほど、花を模した護符は綺麗なままだった。これをきちんと返すのも、キサラギの目標の一つだ。
 キサラギがまっすぐに見上げると、ゼルムは緩やかに微笑んだ。
「……その眼差しが、曇らされぬことを願う。お前らしくあれ」
 深く、頭を下げた。
 傷を負い、痛みに耐えながら、漫然と生きることを放棄しようとしていた時、彼らは決してキサラギに生きることを求めたり、過去を暴き出したりはしなかった。名乗りもせずにいた無礼を咎めず、名前を与えてくれた。この人々の大らかさと温かさに守られた。
 十分に、癒された。
 だからもう一度、立ち上がろう。
 走り続けてきた自分は、止まる時を知るべきだったし、傷を負って動けなくなることも知らなければならなかった。人が憩う場所を知り、温かみを知り、自分の心の在り処を見つめる時間が必要だった。
 そうやって繰り返して、人は歩み、走り、止まり、膝をついて、歯を食いしばりながら再び立って、もう一度進むのだろう。
 投げ出すことがあったとしても、人は、新しく歩き出すことができる。
 そして、今、キサラギの心の中にあるのは「竜狩りとしてもう一度歩む」という望みなのだった。
 砂漠では希少だという馬に乗り、王宮を出発する。蹄の音に紛れて、ユン王子の「気をつけて」という声が聞こえ、最後に振り返り、大きく手を振った。
 街を出て、進路を南へ取る。シャルガが警戒を怠るなと指示している。全方位に障害物のない砂漠は、どこから相手が襲ってくるか分からない。空からも来る可能性があるのだ。彼らがいなければ、とても砂漠を行くことなどできなかった。キサラギにできるのは、彼らの足手まといにならないよう、馬を使うことだった。
 青空が、眩しい。日差しが強く、肌が焼ける感じがする。宮殿に引きこもって刺繍ばかりしていたけれど、もう少し体力をつけられるよう運動しておくべきだった。そう思っていると、つきり、と腹部が痛んだ。
(くっそー。思いっきりやられたよなあ)
 剣を受け止めてしまったのは自分だけれど、恐らく内臓がむちゃくちゃになっていはずだ。よく生きていたものだと思う。
 今、センはどうしているだろう。
 王子に聞かせたくなかったからか、彼のそばにいるキサラギにも、直接、外の事情は耳に入らないようになっていた。キサラギ自身も、気になりはしたものの、聞かないようにしていた。今思えば、そうなれば心が動くことが分かっていたからかもしれない。行かなければならないと、きっと思っていた。
 けれどこうして再び進み始めた今、知らなければならないことはたくさんあった。

 キサラギと竜騎士の剣闘の後――ルブリネルクに竜人たちが現れた。
 竜王は殺され、新しく即位したのはオーギュストだという。
 オーギュストは竜人の存在を受け入れ、竜人たちは巨大竜としての姿を用いて人心を制圧した。竜人の力を得たオーギュストを、建国の王の再来と呼ぶ声があったせいもある。
 人々は、竜たちのことを、神と呼んでいるという。
 その竜の名の下に、オーギュストと竜人たちは、各国へ進軍を開始した。竜の脅威により、諸国は次々にルブリネルクに下り、現在抵抗を続けているのは、国と呼ぶことはできない、組織だけが存在する騎士領国と、その拠点に集うごくわずかな戦士たち、そして砂漠のラク王国だけだ。
 しかし、竜人が得た特権をよく思わない一部と、竜人の支配を危ぶむ者たちによって、ルブリネルクの国内にも内乱の火種が燻っているらしい。その旗頭に担ぎ上げられんとしているのは、キサラギもよく知る彼女……。

(エルザは生きている。けれど、逃げられなかったんだ)
 逃げるためにこの選択をする、と自らの命を盾にしたエルザリート。
 キサラギが立ち止まっている間に、彼女は敗者が堕ちる奈落にいたはずだった。
(別れを告げたあの時、エルザリートは死ぬことも考えていた。生きるって、そう言ったけど、多分、逃げきれないと分かったら、命を絶とうと考えていた)
 キサラギが思い切れるよう、わざと「生きる」と言ったのだと思う。すべて偽ったわけではないけれど、キサラギの知る彼女は、自分の力も、その無力さも知っている女の子だった。堕ちたくないと足掻く騎士たちがいる、そんな場所に何もかも奪われて放り出され、果たして自分が生きていけるのか、見定めていたはずだ。
(エルザは、オーギュストから逃げたがっていた……)
 召し上げられることは避けなければならない、と使命を帯びた言葉を使っていた。
 エルザリートは、王となったオーギュストに保護され、約者候補という名の婚約者に据えられたが、貴族たちを味方につけてオーギュストに抗っているらしい。ルブリネルクはすでに人間の国だという主張をし、竜人たちを血を求める偽りの神だと糾弾して、オーギュストを排そうとしている。そうした振る舞いをしてもなお、彼女が追放されないのは、ひとえにオーギュスト自身がエルザリートに執着しているからだと思われた。
 二人には、キサラギの知らない何かがある。
(逃げたくても、本当に遠くには行くことができなかった、絆みたいなものが)

    



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