「リリス」
 思考に沈んでいたキサラギは、そう呼びかけられて我に返った。
 無意識に握っていた手綱を持ち直し、シャルガに「はい」と答える。砂漠の戦士は、あまり豊かではない表情に、気づかわしそうな色を浮かべている。
「大丈夫か。様子がおかしかったが」
「あ……ちょっと考え事をしていただけです。すみません」
「ならいいが……馬から落ちるようなことがあってはいけない。気にかかることがあるなら、言ってもらいたい」
(シャルガさん、いい人だよなあ)
 生真面目なくらい職務に忠実で、王家の人々に真っ直ぐに尽くしているから、最初かなり警戒していたけれど、少しずつ言葉を交わすようになってからは、キサラギのことを認めてくれているようだった。剣を持って、結界石を再発動させるためにユン王子の護衛を務めたことは彼を驚かせたようで、しばらく探るようにしてぎこちなかったけれど、今はこうして気遣ってくれる。移動中は、馬の様子に気をつけること、水分補給はしっかりすることを助言してくれたのはシャルガだ。
 砂漠の国が守っているものに、キサラギが関わることを歓迎はしていないだろうに、力を貸してくれるのはそれが王の命令で、巫女の意思だからだ。彼は中心に立つ人物ではないかもしれないけれど、知らさずにいるのは公平じゃないと思うから、キサラギは口を開いた。
「ルブリネルクにいる竜人たちの目的はなんだと思いますか。あの国の人間に加担して、周りの国を攻めることで、得することが彼らにあるんでしょうか」
「狂った竜は人の血が流れることを喜ぶ。大地に血を流させるのなら、戦争を起こすのが最も効率的な方法だと思う」
 キサラギは頷いた。
「じゃあ、遺跡を壊すのは? 大義名分は、他の神様を信仰する象徴だからってことみたいですけど」
「他の竜(かみ)の痕跡を消したいのではないだろうか」
 キサラギはちょっと黙った。
「……竜って、神様なんですか?」
「そちらでは違うのか」
 事もなげにシャルガは言った。
「砂漠では、古い竜は人を守るものだ。天と地に恵みを満たし、人を守る礎になる。砂漠の遺跡は、そうした古の竜を讃えるものが多い。そうした遺跡や、我らが行くこの砂地の底には、そんな竜たちの骨が埋まり、この地を守り続けている」
「……結界?」
「王宮を守る結界石のような明確なものではない。そう言い伝えられてきているだけだ」
 キサラギはなんとはなしに視線を下へやっていた。骨が埋もれているのはどこでも同じだ。草原にも、土を掘り返せば時々動物の骨が現れる。
 彼の指す『竜』は、キサラギの知るあの竜たちなのか、それとも別の生き物なのか。そういったものを象徴するものは、あの王宮にはなかった。ならば、隠されているのか。これから行く隠された場所のように。
「そんな遺跡を破壊するという行為は、その竜への否定だ。人同士でも同じことをするだろう。攻め入った集落を焼き、信仰を破壊し、女子供を奪う。ルブリネルクが行っているのは、砂漠の竜への否定と、この地を己が領土にしようという暴虐だ」
 それを聞いたキサラギの脳裏に浮かんだ言葉は「縄張り争い」だった。
「ルブリネルクにいる竜人たちは、砂漠の竜の痕跡を消したい……砂漠を支配したいと思っている……?」
 だったら、今頃、草原にも。
 あの地には竜退治の専門家が数多くいるから、食い止められてはいるだろうけれど、その様子を知ることも、駆けつけることもできないのが歯がゆい。
 キサラギは首を振った。今は、遠い場所のことを考えていても仕方がない。
「巫女が、その答えを持っているんでしたね。なら今はとりあえず、無事に秘められし遺跡とやらにたどり着かないと」
 多分その時、私の使命も決まるんだろう。
 竜狩りとしてなのか。王国の騎士としてなのか。砂漠に住む女としてなのか。
 ゼルム王の言葉を受けるなら、そのどれもがキサラギなのだ。竜狩りだったけれど竜人のセンを狩ることをしなかった。王国の騎士として勝ち続けることができなかった。砂漠の女として生きることを選べなかった。何もかも中途半端で、誰も守ることができなかった自分が、この身と剣を使えと命じられる、何かが待っている。
「……ん?」
 服の下に光るものが見えた気がして、キサラギは首飾りを引っ張り出した。
 琥珀が黄金の光を放っていた。
「光って……、っ!」
 石はその瞬間、まっすぐ前方に閃光を放った。
 すると、進む先にあった、見えない何かにぶつかった。壁、だろうか。蜃気楼のように、あるいは波紋を描く水面のように揺らめき、その振動は大きく広がっていく。
 そして、前方に、穴のようなものが空いた。
(景色が違う!?)
 薄い布を破るようにして、透明の壁の向こうに別の風景が見える。
「そのまま進め!」
 シャルガが戦士たちを叱咤する。キサラギも馬を疾駆させて身を低くした。
「抜けます!」
 先頭が告げ、一隊は壁の向こうへ渡る。
 ぐぐ、と水に潜るような音が聞こえた。そして、景色が変わる。
 何もない砂の風景に様々な遺物が現れる。巨大な柱が横たわり、あるいは立ってはいるものの、砕かれて欠けている。壁だったのだろう巨大岩が砂と風に削られていた。縦に長い岩盤は、案内板代わりの石碑だろうか。
 遺跡。打ち捨てられた過去の名残が散逸する場所だ。
 道らしきものがあると分かったのは、その左右に、建物の痕跡があるからだ。それをたどったずっと奥にある巨大な建物を、誰かが「神殿だ」と言い表した。
 キサラギの首元にある石は、その神殿を指すように光っている。
 前進を命じられた隊が近付いていくと、非常に巨大な建物だった。無数の柱を立て、壁で囲んだ建物に、三角の屋根が乗っているのだが、巨大すぎて、その屋根に刻まれた紋章はどう頑張っても見えないのだ。
 空から見れば一目瞭然だろうに、襲撃を受けていないのは、あの透明な壁、結界がこの場所を守っているからだろう。
 馬から降り、被り布を払って、腰の剣を確かめると、言った。
「行こう」
 シャルガが選抜した数名を連れて、神殿に進む。高すぎる天井には暗闇が溜まり、奥は見えない。左右もまた、闇に包まれている。だが、王宮の地下に潜ったときのように、奇妙なほど生き物の気配がしないということはない。むしろ、誰かが見ているような気がする。
 しばらく進んでいくと、突き当たりになった。祭壇があり、奥の壁には絵が描かれている。その下に通路があり、先は、暗い穴になっていた。
 吸い込まれそうな闇だ。その果てに光を望むような漆黒。
 何故か、呼ばれているような気がする。
「リリス。この壁画、あの場所にあったものと同じではないか」
 一歩進もうとしていたキサラギは、シャルガの呼びかけに我に返って、通路の上に広がる絵を見上げた。
 竜と、人と、異形たち。
 ただ、異なっている部分がある。
(中央の人の被り物がない)
 聖職者らしき被り物がなく、長い髪をなびかせている。そして、その周辺の人々は、空に向かって両手を伸ばしていた。その手に先には竜がいて、周りには、白い花が雪のように降り注いでいる。
 花が降る中で、人と竜と異形が、笑いあっている光景。神殿にあるにはどこか似つかわしくないように思えた。子どもが喜びと楽しさを込めて描いた絵のようだ。
 その時、壁の中の竜の目が、黄金に光った。
「えっ」と声をあげたのと、辺りが光に包まれるのが同時だった。
 戦士たちが呻き声を上げて柄に手をかける。
 目を庇ったキサラギは、眩んだ視界の中に、いくつもの黒い人影を見た。
 影はキサラギたちから離れたところで動向を見守っていた。だが、その内の一人が、ゆっくりとこちらに近づいて、背を折り曲げ、キサラギを覗き込むようにする。人懐っこい仕草で、顔が判別できたなら笑ったように感じた。
(……ついてこいって言ってる……?)
 キサラギの心を読んだかのように、影は深く頷くと、先立って通路の奥へと歩き始めた。キサラギは、ちかちかする視界を振り払うよう瞬きをして、その影の後ろを歩いていく。
 通路は、地下へと続いているようだ。先導の影は、輪郭に光を帯びているから、見失うことはない。
 ――そして、道を抜けた先に光が見えた。
 たどり着いたのは、黄金色の広間だった。びっしりと文字が刻み込まれた金の壁が四方を取り囲んでいる。地下にあるはずだが、地上にある神殿と同じだけの天井の高さがある。そして、灯火がないのに、真昼のように明るいのだ。
 人知を超えた場所。その金の地面に、誰かが座っている。
「あなたは……」
「はじめまして」と彼女は澄んだ声を響かせた。
「私はシェンナ。巫女と呼ばれている者です」
 黒い髪と浅黒い肌をした、キサラギと同じくらいの年頃の娘だった。
 真っ白い衣を着て、真っ白な被り物をしていた。あの壁画の聖職者の衣装をまとったシェンナは、キサラギに微笑みかける。
「別たれた同胞のうち、草原の民と会うことがあるとは思いませんでした。それも、古の王国の民の血筋と、こうして話すことができるとは」
 キサラギの背筋が総毛立った。
 そのことを知っている者は、数少ない。王国でも砂漠でも、草原でも、聞き流される話題なのだ。
「あなたの名前を教えてくれますか。草原の姫君」
「……キサラギ。今は、そう名乗っています」
 彼女は、本当の名を明かさないことを咎めたりしなかった。にっこりして、キサラギに座るよう促した。
「来てくれて、本当にありがとう。これから長い話になります。草原、王国、砂漠と、三つに分かれたこの世界の、私たちの始まりについて話さなければ、今この世界に混乱をきたしていることの説明ができません。どうか、ゆっくり聞いてください」


   *


 閃光が消え、視力を取り戻したシャルガたちは、素早く異変を探ったが、どこも変化はなかった。ここは打ち捨てられた遺跡のままで、人の気配が薄い。
「隊長! リリス殿がいません」
「なに」
 シャルガは周囲を見回したが、確かにリリスの姿はなかった。それどころか、先ほどまで見えていたはずの、壁にあった通路がなくなっている。シャルガはそこに近づいて、壁を撫で、押してみたが、石は決して動くことはなかった。
(古い力……ここが秘められし遺跡と呼ばれる所以か)
「誰か来ます」
 入り口を警戒して、戦士たちが柄に手をかける。かさ、さり、と石の床を小さな足取りでやってくる者があった。やがて近づいてくるその足音の持ち主は、闇の中から姿を表す。
 シャルガたちは束の間、訝しく相手を見つめた。
「少女……?」
 ユン王子よりもう少し年下の少女だった。通気性のいい衣を、帯を用いて腰で留め、足には紐で縛る靴を履いている。砂漠の民の格好だ。
 彼女は両手を揃えてぺこりと頭を下げた。
「姫君は、巫女さまとお話ししておられます。戦士のみなさまは、どうぞこちらでお待ちください」
「姫君……リリスのことか?」
 シャルガは尋ねたが、少女はにこにこと笑うだけだった。気づけば外に人の気配がある。どうやら、今までこちらの様子を伺っていたらしい。
「彼女は無事なのだな」
「はい。柱と巫女さまがそのようにおさだめになりました」
 シャルガは警戒する戦士たちに手を降ろすように指示し、少女についていくことを決めた。
 氏族で伝えられていることが正しければ、彼女たちは巫女の一族。自身の血族からしか巫を出さず、その血の濃さによって古の力を操ることのできる者たちなのだ。
 リリスは、その血が結集した巫女のところにいる。彼女が聞かされるのは、おそらく、彼ら一族が背負ってきたもの。しかし、シャルガは思う。
(それは、ひとりの人間が負えるものなのか?)

    



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