「遠い昔――人間の住むこの世界に、竜たちがやってきました。竜は人間の脅威となり、両者は長らく戦いを続けてきましたが、ある人間が、強力な竜と約定を交わすことに成功しました。人間が竜の支配を受け入れることで、その庇護を受けることができる、というものでした」
 床の上に、風が生まれる。渦巻いた風は砂を集め、床の上に砂時計の形を描き出す。
 この世界。この大陸。
「その約定はうまく運びました。続々と、他の者たちが後に続きました。そうして国ができたのです。古の王国たちよりももっと古い、竜の守護を受けた最初の国です。けれど……」
 大地の上を、嵐が吹き荒れる。
「国の力は、竜の強さに現れます。強い竜は、弱い竜を従えることができるからです。新たな領土を求めて、人と竜はともに戦い――やがて人は、自らも竜の力を欲するようになったのです」
 鮮血の色がちらついて、キサラギは目を閉じる。
「竜の血を体内に取り込むことで、その力の発現が可能になることを知った人間たちは、それを用いて戦いを始め、やがて竜をも凌ぐと自負するようになると、竜を殺し始めました。この時、勢力は主に三つに分かれました」
 ひとつ。竜の血を取り込んで力を得た者たち。
 ふたつ。竜の血を得た者たちを忌んで戦うことを決めた者たち。
 みっつ。竜とともに逃げ去った者たち。
 キサラギを見つめ、巫女は頷いた。
「そう、古の民はそれぞれ、王国地方、砂漠地方、そして、草原地方へと別れたのです」
 それから、キサラギの知る草原の古王国の時代が始まる。
 草原の民は小さな国を作ったが、やがて宗教的理由で内乱を起こして瓦解した。荒れ果てた国で、竜と戦わなければならなくなった人々はやがて独自の組織を作り出し、竜狩りの街を形成して、国を捨てた。国というものがなくなって、今ではそれぞれの街が領地という縄張りを持って互いに牽制し合い、あるいは協力し、生活を続けている。
「我が砂漠のラクの一族は、どうしても竜の血を受け入れることができませんでした。そのために王国と敵対することを決意し、この砂漠に国を作ったのです。幸いにも、ラクの『柱』は強力でした。彼が存在するおかげで、今日まで、ラクは下位の竜が押し寄せてくることも、他の竜に攻められることもなく、平和を保ってこられたのです」
「……『彼』?」
 それまで淡々と語っていたシェンナの表情が、柔らかい甘さを帯びる。
「そうです。この地には竜がいます。恐らく、現在生きている中で最も古い竜、最古の者です。彼がこの地の『柱』、私がその『約者』です」
 草原の姫君、というキサラギに向けての呼びかけを、彼女は当然のように使う。
「古の民は三つに別れたとお話ししました。今も、それは続いています。竜の支配圏は、大きく分けて三つ。草原、王国、そして砂漠。王国が暴走しているのも、草原に竜が蔓延るのも、そのためです。砂漠のように、あるべきものが据えられていないせいなのです」
「あるべきもの……」
「『柱』と『約者』です。――竜と人間が交わす、つがいの誓約。これを、竜約と呼びあらわします」
 ――竜約。
 その瞬間、もう一つの視界のようなものが開いて、キサラギの目の前に炎の色を見せる。
 揺らめく火。燃えさかる中に見上げた像。焼け焦げていく祈り。
 遠くに聞こえる吠え声は最期の。
「……っ……」
 頭を押さえて息を飲み込む。気持ち悪い。強制的に目を見開かされているようで不快だった。気遣うように、シェンナが言った。
「この場所は古い力が強いので、血に刻まれた光景が浮かび上がることがあります。今、見えたものは、あなたの血に由縁する者の記憶でしょう。そうしたものが見えるということは、あなたにはやはり、資格があるということ」
「それは……約者ってやつの?」
「砂漠では、竜の求めによって同じ血族からしかその約者……巫女とも呼びますが、それを選べない、という取り決めがあります。そのために、私の一族は秘められし遺跡で暮らしているのです。草原でも同じように、選ばれやすい血族というものがあったようですね。王家の血筋。王家の姫、王子、巫女や神官、そういった方々です」
 キサラギは怯んだ。
 彼女は、どこまで知っているのか。
「……確かに、私は、遡れば王家のミヤ様、……お姫様の血筋だと言われてきました。けれどあなたみたいに、何か特別な役割についたり、取り決めがあったりなんてことは聞いたことがなかった」
「竜が失われたからです。そして、その後を継ぐものもなかった。最後の竜が放った呪いだけがその地に蔓延し、竜の血に触れた人間は狂った竜に変わり、竜たちもまた人間を襲うようになった――その竜たちの暴走の本当の理由は、竜約を果たしたいという本能です。ただ、呪いのために叶えられない。人間は竜の血で狂うようになったから」
「……人と竜が一緒に生きていたって?」
「しかし、草原もまた、王国と同じ運命をたどった。竜の力を厭った者が、竜を殺したのです。そして、草原は人の国になった。真実はどこかへ消えた」
 彼女は、砂で描かれた大陸を見つめる。
「王国もまた、竜の呪いに覆われている。柱の中でも最も強力な、『王の柱』になるはずの竜が、呪いによって縛られているために、その呪詛が大地に広がっているのです。彼の呪いは憎悪。誰かを憎まずにはいられない。彼が抱いているのは……」
 憐れむように。
 巫女は囁く。
「……生きることが許されないことへの悲しみ。怒り。自らの血への憎悪。この世界を壊し、誰かの望む新しい世界を作ることで、許されたいと思っている……」
 キサラギは目を見開いた。
 記憶から蘇る、あの声。

『許さない、許さない! 私をこんな姿にしておいて、あなたは救われようというの!?』

 セン。
(黒竜――ランカのことを、まだ……!)
「かの竜を狂気から救うことで、この世界の混乱は静まり、あるべくして流れていくでしょう。それと同時に、かの竜が認めることで、草原と王国と砂漠の支配権が彼のものとなり、世界は安定した形へ戻っていきます。――この混沌を正す鍵は、あなたと、あなたの竜です」
 その眼差しの強さにたじろぐ。
「私は……。センは、私の竜ではありません……!」
「けれどあなたはすでに契約の一部を差し出しています」
「その、契約ってものがどういうものか、どんなやりとりで成立するかも分かってないんですよ!」
 キサラギの焦りに、シェンナは目を細めた。
「簡単なことです。――互いを片割れと認め、永き時を共に歩むと誓い合うだけ。それが真の誓いならば、代償として、柱には守護の制約がかかり、約者は人間としてのくびきを失う」
 その言葉の意味するところを理解しようとしながら、与えられる情報の多さを処理できないでいる困惑を知って、平たく言いましょう、と巫女は自らを指した。
「私、いくつに見えますか?」
「え!? え……と、二十歳くらい? ですか」
「私はもうすぐ六十です」
『げ』と『え』の合間のような呻き声を上げて、それ以上の言葉を飲み込んだキサラギだった。だって、そこにいるのは、どう見ても自分と歳の変わらない女の子なのだ。
「これが、人間のくびきを失うということ。竜(かみ)の伴侶となるのですから、その身は人でも竜でもない狭間のものになります。昔は、異能力を発現する約者もいたということですが、残念ながら私はただ長生きなだけです」
 冗談を、と言いかけたが、言葉がでなかった。不思議な力を用いて、キサラギだけをここに招き入れて、限られた人間しか立ち入れない場所で、冗談を言うにしては色々なことが大掛かりすぎた。
「約者となることで長寿という恩恵を受けますが、その命数は片割れである柱と託生することになります。そして、生きていく上で、自身は人ではないのだという自覚のもとに、多くのものを見送っていかねばなりません。力が弱ければ、時代の変遷に介入することも不可能です。私の竜はもう弱ってしまったので、王国の猛撃に抗う術を持ちません」
 言うべき言葉が見つからないキサラギに「あなたはすでに、契約の一部を差し出しているのです」と、再びシェンナは言った。
「覚えがあるはずです。あなたが持っているもの、あなたの一部、本質、心、たましい。それを彼が持っている。すべてではないけれど」
「……何かをあげた覚えは、ないんですけど」
 むしろ、彼のものだった護符を預かっている。彼がかつて愛した少女のものだった品だ。
 微笑って見つめる巫女に、キサラギは必死になって説明する。
「本当に、何もあげてないんです。そういう関係じゃなかった。あげたり、あげられたりというよりも、奪われないように必死だったんです」
 すべて持っていかれそうだった。気持ちも、何もかも。
 隣にいればその綺麗な顔が鬱陶しいと思った。すれ違う人々が振り返るたび、せめて髪を切れと文句をつけたこともある。自分には力があると驕っているくせに気まぐれに優しいところが苛立った。強いところに、憧れた。
 そんな風にして、ずっとセンのことを考えていた。もっと知りたいと思うまでに時間はかからなかった。別れてからも、もう一度会いたいと心で彼の名を呼んでいた。
 そうはなりたくないと思っていたのに、いつの間にか、こんなにも想っていた。
(何もあげてない。血も魂も、いらないって。求めなかった……)
 けれど、すでにセンは一部を持っているという。
 何を持っているだろう。物理的なものではきっとない。姉の指輪を持っていてくれるかもしれないけれど、そのほかには……。
「…………」
 ――センは、キサラギの姉を看取っている。
 灰色竜に変じて人を襲っていた彼女を、黒竜を追っていたセンが行きがかりに倒したと聞いている。その時に、姉は妹の名を出し、会って確かめてほしいことがあると頼んだという。
「…………」
「分かったようですね」
 キサラギは、頷いた。
 きっと、たぶん。これだ。
 こんなものが、と思わずにはいられなかったけれど。
「名前」
 今にもこぼれ落ちそうな感情を堪えて、呟く。
「私の、本当の名前だ……」
 両親に授けてもらった、もう名乗らないと決めた、それ。
 生まれた故郷の住人が消失し、姉も死に、キサラギが本当の名を名乗らないできた今、その名前を知っているのはセン一人だった。竜狩りの証としてもらった耳飾りに刻まれているのは、キサラギという名、出生地のキサラギノミヤと承認地のセノオの名称なのだ。
「あなたの治癒力の向上はそれが原因でしょう。約したとは言えないけれど、一部を交わしている、そのことによって、長寿にはならないけれど治癒速度が上昇した」
 腹部の傷跡を押さえる。
 傷つけられながら、互いを結ぶものが、自分を救っている。
(セン……)
「あなたが進むべき道をひとつ、示しましょう」
 シェンナはそう言って、キサラギの視線を捕らえた。
「――約者として、竜約を成し、あなたの竜を狂気から解放してください。そして、草原と王国と砂漠の治るものとして、この世界の守護者となってほしいのです」

    



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