第1章 始   
    


 ――それは、キサラギが行方不明になる一ヶ月前まで遡る。


 下衣に粗末なドレス。それがエルザリートのすべてだった。
 北地区の土と得体の知れないもので汚れた地面に、エルザリートを投げ出した龍王の騎士たちは、一人は嘲笑を含んだ歪んだ笑みを浮かべ、もう一人は明らかにこの仕打ちに顔をしかめながら、エルザリートを見下ろしていた。冷え切った風にぞくりと身を震わせるその目の前に、短剣が差し出される。エルザリートは、きっと騎士たちを睨み上げた。
「どういうつもり? これで自害しろとでも言うの」
「恐れながら、この街に投げ出された者は決して元の場所に戻ることは叶いません。そして、あなた様のような方に、この場所は決して安全でもない……」
 身を穢されるなら首を描き切った方がよかろうという、彼なりの情けなのだった。エルザリートは鋭く息を吐き、黙って短剣を受け取った。この先、武器があるとないとでは、大きく違うだろうという気がしたのだ。
 必ず生きると誓った。――自分の力で、生き残ると。
 エルザリートが立ち上がったのを機に、騎士たちは王宮へ戻るべく背を向ける。
「お前たちの幸運を祈るわ」
 投げかけた言葉に、彼らが振り向く。
 はん、ともう一人が顔を歪めた。
「最低半日、運がよかったら一週間。せいぜい、生き延びることです。主人も愚かなら、騎士もそうだ。龍王に逆らい、どちらも正義とかいう妄言の名の下に死に急ぐしか能がない。あなたの騎士は、あの竜騎士に挑んだそうですね?」
 青ざめるエルザリートをくつくつと笑う。
 その闘技の話を聞いた者なら、皆が分かっている――キサラギは勝てない。死にに行くために戦う。この戦いは、彼女が無駄死にするだけだと。
 けれど、また会おうと言ったのは嘘ではない。
「キサラギは、例え勝てなくとも、自身の光をその剣で指し示すでしょう」
 そんなもの、とうに見えない騎士は言うのだった。
「騎士を殺しまくった挙句、正義に殉じて死にに行けて、さぞ本望でしょう、姫君?」
「口が過ぎるぞ」
 短剣を手渡した騎士が、痛ましげに目を細めた。
「どうか、あなた様も、……ご武運を」
 戦いに挑む者に贈るような言葉を、何故彼が用いたのかは分からなかったが、エルザリートは鷹揚に頷き、追いすがることなく馬車を見送った。
(……これから、どうしようかしら……)
 そう、思った瞬間だった。
 後ろから突き飛ばされ、再び地面に押し付けられる。ぐいっと首を持ち上げられたのは、髪を引っ張られたからだ。高笑いしながら、歯のない老婆がエルザリートの金の髪を汚れた手で掴んでいる。そして、持っていた硝子片で、それを切り落とした。
「なんて綺麗な髪! 高く売れるよぉ!」
 笑いながら、枯れ木のような足で、飛ぶように去っていく。その老婆を何人かが追っていった。エルザリートがここに来てから、その動向を伺っていた者たちが幾人もいたのだ。
 じり、と他にも何か奪おうと、近づいてくる者の気配を感じて、エルザリートは素早く立ち上がり、走り出した。追え、という声がした。
 冷や汗が全身を濡らしていた。短く、無残になった髪を思うと、意識しないうちから涙が出た。震えが足を萎えさせ、何度もつまずく。息がうまくできず、視界が暗い。
「あっ、」
 転んだ拍子に、何かで手足を擦りむく。かっと熱くなった手のひらを握りしめ、周囲を見回し、とっさに橋の下に転がり込んだ。
 がらくたや訳のわからないものに溢れたそこは袋小路となっており、橋の下を流れる水路の水は濁り、息ができないほどの腐臭がしていた。吐き気が堪えきれず、けれど決して声は出せないため、両手で必死に口を押さえる。
 がたがたと、身体がみっともなく震える。忍ばせた短剣は手元にあったが、使うことなど考えも及ばない。エルザリートを占めていたのは、黒色の恐怖だった。
(誰か、……)
 心に、助けを呼びそうになったが、その誰かというのが限られているという現実に、ぐっと涙を飲み下した。
 オーギュスト。彼が出来るのはここまでだったのだろう。処刑ではなく、王宮から追放し、身分を取り上げるところまでしかできなかった。助命されただけでも大きなことだ。
 追っ手の気配は、遠ざかった気もするし、近くにある気もする。はっきりと捉えることができず、エルザリートはじっとそこにうずくまった。何日もそこにいるような気がするくらい、時間が経った。
 ここが世界の果てなのだろうかと錯覚し始めた頃。
 顔を上げると、日が暮れていた。街の夜の風は濁った空気をわずかながら吹き払ったが、一層寒々しい気配を漂わせていた。粗末なドレスでは身を温めることもできず、今度は寒さで身体が震えた。いつも気まぐれにしていたお茶が、恵まれたものであることを知る。
(お茶を飲むのに、水を汲まなければならない。汲んだ水は沸かして湯にする。そのためには火を起こさなければならない。火を起こすためには薪が必要。その薪はどこかから切ってこなければならない……)
 器にしても同じことが言える。すべては、綿密に、一つ一つの事象が繋がりあっていくものなのだと、寒さで歯を噛みながら考えた。寝るところ、食事にしても、これからどうやって手に入れていけばいいのか。
 そう思った時、からり、と物音がして、エルザリートは竦み上がった。悲鳴を押し殺し、そろそろと出口の方へと後退る。次の瞬間、肩に手を置かれて悲鳴をあげた。そして、殴られた。
「……っるせえなあ。なんだ、お前は? 俺のシマを荒らすんじゃねえよ。……ああ、噂の公爵令嬢か。さっそく髪をむしられたか」
 しゃがれた男の声だった。この暗闇の中、まるで物が見えているかのように、エルザリートを押しのけ、行き止まりへ進んで行く。エルザリートには見向きもしない。
 生まれつきなのか、背骨が曲がり、首の根元あたりから突き出しているのが、被った外套の上からでもよく分かった。触ると丸くなる虫に似ている、とエルザリートは思った。
「……ぁんだあ? 見てんじゃねえ。早くどっか行け。それとも、俺の商売道具を奪おうってんなら、殺すぞ」
「……商売道具?」
 男は笑って何かを投げた。からんからん、と軽やかな音を立てたものが、足元に滑ってくる。触れると、かさついていた。わずかにぬるりとした感触もある。
「なんだか分かるか?」
「いいえ」
「骨だよ。人骨だ」
 エルザリートは凍りついた。男の口は、大声で歌うように言葉を紡ぐ。
「その骨を細かく削って、加工して、お貴族様たちに売るんだよ。高値がつくんだぜえ、顔が白くなるって、あんたみたいなお嬢様がたには!」
 ゆっくりと理解が追いついてくる。
 この男は、どこの誰ともつかない人骨を用いて、白粉を作って貴族に売っている、と言ったのだ。
 手にしていたものを取り落とし、とっさに顔を拭ったのを、男は甲高い声で笑う。そして、ようやくこの場所にあるものが何か理解した。
 橋の下に溜まったこれらはこの街の腐敗の集積物であり、不用品であり、排泄物であり、そして、死んだ人々の残骸なのだ。
 こみ上げた吐き気に口を押さえ、エルザリートはそこから抜け出した。男の笑い声が追ってくる。
 足元に、見えないものが絡みついているようだ。
 見ようとしたつもりでいた。自身の立っている場所がいったい何で出来ているか。いくつもの守りの覆いを取り払い、真実を見定めて、すべきことを成そうと。
 けれどここは、想像以上に濃い闇に覆われているのだと、ようやくエルザリートは気付き始めた。これまで見えなかったはずだ。あの城からは、この場所は遠く、そして深くて暗すぎる。
(何ができるの。わたくしに)
 こんな、ちっぽけな自分に。
 暗い街をひた走る。腐った息を吸い込み、自らも吐き出した。この場所の頂点にいた自分たちこそが、腐りきったものの頂点だと分かっているのに、ここはなんて汚れた場所なのだろうと思う嫌悪感が、どうしても消えなかった。

    



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