進路を西に、騎士領国へ。フェスティア公の西領に入ってしまえば、王の追っ手は振り切れる。そう言った貴族たちを遮って、エルザリートは「教会へ行く」と告げた。
 自ら城を脱出してきたエルザリートが、また危ない橋を渡ろうというので、仲間内では騒然となったようだ。しかし、エルザリートは「王冠を手に入れるなら行く必要がある」と頑なに言い張った。
「わたしの即位の正当性を、教会に支持してもらう」
 その真意は知らずとも、それは有効な一手である、と判断した者がいた。
 かくして、エルザリートは西に向けて発った。敬虔な信者しか訪れない寂れた教会がある。そこに配属された聖職者たちは、清廉潔白と名高く、いずれ名誉ある地位に名を連ねるだろう期待された者たちということもあって、彼らと話し合いを持つことができれば、教会の後ろ盾を得ることができる。
 ただ問題は、不可侵を貫き、王国と距離を置いていた彼らが、エルザリートを立ち入らせるかどうかだ。
 出発したエルザリートはすぐさま捕捉され、追われることになった。建物を目前にしても、騒ぎに気付いているだろう教会は静観の様子だ。斯くなる上は、教会の中に駆け込んでしまうか。
 馬車の扉が破壊された。伸びてきた腕がエルザリートを掴んで引きずり出す。
 それがブレイドだったことにエルザリートは唇を噛んだ。
 オーギュストは、本気だ。本気で、エルザリートを殺すか、閉じ込めるかしたがっている。
 しかしそこに介入する者たちがあった。増援かと思ったが、様子が違う。一様に姿を隠している。その中の一人がブレイドに迫り、彼はその思いがけない使い手にエルザリートの手を離した。
 荒々しくはないのに、近付けば剣風で切られそうなほど二者の戦いは熟練者のそれだった。どちらも必死さを押し隠せるほどの使い手だからこそ、容易に立ち入ることができない。エルザリートは車に身を寄せ、見守るしかなかった。
 そして、相手が長剣と短剣の二刀流になった瞬間、エルザリートはこの戦いの決着を悟った。
(ブレイドが負ける)
 王太子の一の騎士と名高かった、竜騎士を除けば最強と謳われた、いつもの強さが見えない。相手を巻き込んでいく広いものが、今のブレイドにはないのだ。向かい合っている対戦者の方が、もっと、ずっと、大きい。気づけば、目を離せなくなっている。
 ブレイドが負ける。つまり。
(オーギュストが、彼を失ってしまう)
 だから、エルザリートは声を張り上げた。
「ブレイド! あなたが本当に主人のためを思うなら、剣をお引きなさい! あなたの主人を助けるために、わたしはここにいる!」
「姫君、あなたが守ろうとしているその方が、あなたを処分するようにお命じになったんですよ。それを理解した上で、同じことが言えますか?」
「言えるわ」
 ああ、彼はすべて分かっているのだ。
 エルザリートを処分すると決め、それを行う者をブレイドに選んだ。彼は、これまで決してやらなかったことを、まるで箍が外れたように始めてしまった。
 オーギュストは、壊れている。
「世界を憎み、唯一を欲した。その希求と飢餓を知っているのに、わたしはそれになれなかった。何故なら、わたしたちは同じものだから――同じ血を継いでいるから」
 外套の頭巾を払う。
 わたしを目の当たりにする物たちには、この姿、瞳に、重なるものがないだろうか。
「それでも、彼を救えるのはわたしだけ。実の妹であるわたしだけだ」
 ――幾人かがエルザリートを凝視している。
 告げた内容を疑う者もいる。この女も気が触れているのかと警戒する者もいる。
 しかし、ブレイドは大きく揺さぶられたようだった。
 王太子に近いところにいたのだ。噂くらいは聞いたことがあるだろう。
 先の王は、王妃の実の姉に手をつけたらしい、と。あるいは、公爵夫人が自ら寝所に忍んできたようだとも。
 どちらにしろ、王妃と公爵夫人の姉妹仲が決定的に壊れたのはそれが理由のひとつであっただろう。そして、公爵夫人はランジュ公爵か龍王かどちらの子か分からぬエルザリートを産んだのだった。
 そして、疑っていたところに、オーギュストによってエルザリートが求められた。ランジュ公爵夫妻はおぞましく思っただろう。兄が妹かもしれない娘を求めるのだから、王家は呪われていると思ったかもしれない。夫妻の娘への蔑視は、それに起因する。
 エルザリートが気付いたのは、さほど早い時期ではない。オーギュストを『お兄様』と呼ぶようになって、ふと考えたのだ。
 ――もしかして自分たちは、実の兄妹ではないだろうか?
 折々にやってくる彼。誕生日祝いに駆けつける優しい彼。贈り物と手紙。エルザリートを忘れず、気遣う内容の文面。従兄妹にしても、彼が王族であるという立場からも、エルザリートとの距離は近くて親しい。
『お兄様は、どうしていつも笑っているの。楽しいことなんて、何一つありはしないわ』
 その質問の答えを聞いた時、エルザリートは確信した。
『お前がいるから、この世界が楽しく思えるのだよ』
 そうなのか、わたしたちはこの世界にたったふたりだけの家族なのか……。
 周囲も自分たちのことを疑っていた。あまりに親密な二人。王太子が唯一側に近づける娘。他への排斥。そういったものが、ゆっくりと事実の外堀を埋めていたように思う。
 だから結婚はできなかった。彼を、戻ることのできない場所へ堕とすわけにはいかないと思ったから。
 けれどもし許されるのならば、彼の、安息でありたかった。
 身分を剥奪され、墜とされながらも、何故首都を離れなかったか。
 あなたがいるからだ、オーギュスト。あなたを見捨てることは絶対にできなかった。
 エルザリートは言った。
「オーギュストからすべてを奪う。そうすれば、やっとあの人は終わることができる。憎悪することも、立場を利用して敵を排除し続けることもなくなり、人並みの平穏を手にいれることができるでしょう。わたしだけが、それを与えてあげられる。代わりに王冠を被ることで、それになれる」
 国を救うことはできないけれど。
(あなたを救おう、オーギュスト)
 あなたと戦い、傷つけ、奪うことで、わたしの作った檻にあなたを閉じ込めることになろうとも。
「わたしだけがお兄様を救うことができる」
 ブレイドが、ぎっと歯を噛む音が聞こえた。そして、周囲の状況に目を走らせると、多勢に無勢を見て取って、素早く身を翻した。
「射て!」
 その声に、三人の射手がブレイドめがけて矢を放った。素早く飛んだ矢は、二本は彼をかすめたものの、一本が背中に突き刺さる。ひゅっと息を飲んだエルザリートだったが、ブレイドは体勢を軽く崩しただけで、そのまま駆けていく。それを、他の者たちが追う。
 ブレイドはこのまま捕らえられるだろう。エルザリートは目を閉じた。
 少しずつ奪っていく。それは騎士とて例外ではない。
 ブレイドは幼い頃からオーギュストに付けられていた騎士だった。お互いの精神的な部分を担っているところもあるはずだ。このことで、オーギュストは何を思い、どう感じるだろうか。
(きっと、少しずつわたしを憎んでいくのだろう)
 だからこの痛みは、彼が感じるもの。わたしが負うべきもの。
 ため息をついたエルザリートは、ブレイドと戦っていた双剣の使い手がじっとこちらを見つめていることに気付いた。
 細身の人物だった。ブレイドと競り合うのだから力には恵まれているようだが、体格は戦士にしては細すぎる。旅衣装は汚れていて、かなり遠方からきたようだ。
 味方か。こちらの身分を知った上で、助けに入ったのか。だとすれば、そう簡単に声をかけることはできないのだが……。
「…………ふっ」
 しかし、相手は、笑った。思わず噴き出した、そんな風に。
 エルザリートは目を丸くし、顔をしかめた。いきなり笑われる謂れなどない。
「ふふっ、あはは! そんなに怖い顔しないでよ。可愛い顔が台無しだよ。いきなり笑った私が悪いと思うんだけどさ」
 その声。
 どんなところでも明るく響いていた。眩しくて焦がれた。その、声。
「まさ、か……」
 どこかで生きていてほしいと思っていた。もう一度会えるなら絶対に死地へ送り出したりはしない。強くなったわたしで、守られるだけではないわたしであなたの隣に立ってみたいと。
 口を覆う布を外し、頭巾を取り払う。
 針金のような黒髪ときらきら輝く瞳、滑らかな薄黄色の肌。人をまっすぐに見て、おおらかに笑う、その顔が、ずっと、ずっと見たかった。
「――……っ」
 両手を伸ばして駆け出したエルザリートを、彼女は抱きとめた。
「キサラギ、キサラギ! キサラギ……!」
「やあ、エルザ。まさかこんなところで会えるとは思ってなかった。ちょっと背が高くなったね。それに髪、短くしたの? よく似合ってる」
 そんな風に言うのも、以前と変わらない。
「……あなたは髪を伸ばしたのね……」
 以前より近い位置になった彼女の頬に手を伸ばす。肩に掛かるかどうかだった髪は、それよりも長くなってまとめられていた。
 涙目になるエルザリートに、いろいろあったんだよとキサラギは笑った。
「なんでここにいるんだろうって思ったけど、さっき言ってたことでだいたい分かった。戦うんだね、オーギュストと」
 エルザリートは頷いた。
「本当は騎士領国に身を寄せるつもりだったのだけれど、教会の後ろ盾を得ようと思って、こちらに立ち寄ったの。出自が認められれば、わたしは正統な王位継承者になる。現王の衰弱を理由に、王に成り代わることができるわ」
 あなたは、と尋ねると、キサラギは同道していた仲間たちを指した。
「運が良いね。この人たち、騎士領国の人だよ。他の仲間たちと教会で落ち合う予定になってた。騎士領国に入った後、ルブルスに向かうつもりだったんだ」
 では、彼らがエルザリートを旗にする者たちなのだ。
「おい」と呼びかけられる。先ほど射手に命じた女性だ。
「騎士を捕らえた。教会に連行するぞ」
「玄関先で騒いじゃったけど、入れてくれるかな?」
「そちらの公爵令嬢はともかく、私たちは許可を貰っている。騎士領国の騎士は、教会の敬虔な信者だからな」
「一緒に入れてもらえないかしら」と無邪気を装って尋ねてみたが、返事はすげない。
「教会はそういう権力闘争から長らく遠ざかってきたところだ。あなたのような客は最も嫌うところだろう」
「やっぱりそうよね。即位したら教会を復権すると言ってもだめかしらね……」
 剣を収めながら、彼女は渋い声で言った。
「あまり重大に受け止めていない口ぶりだが、キサラギ、頼まれても連れて行くなよ。こちらが追い出される」
「えー……」「えー……」と二人の声が重なった。
「……さすがお前の知り合いだな、キサラギ。面倒なことばかり考えおって……」
 呻くように言われた時だった。ざ、ざ、と規則正しい足音が近付いてきており、キサラギたちは収めた剣に再び手をかけた。
 草木の少ない乾いた岩の道を、二列になって進んでくるのは、白い衣服の聖職者たち。頭巾を目深に被っているのは、個人を無くし、神の代理人であろうとするため。数えて十人。教会の者たちは、こちらに向かって歩んでくる。
 キサラギがエルザリートを後ろにやりながら、自ら先頭に立つ。
 そして、聖職者たちは、騎士たちに見守られながら、冷たい砂の上に跪いた。
「お待ち申し上げておりました」
「……えっ」
 青年が告げた言葉にぎょっとしている。
 十人もの聖職者に跪かれたのだから、キサラギが狼狽するのも無理はなかった。
「私?」
「はい」と笑み含んだ声で先頭の青年が答えた。
「わたくしども教会は、長らくあなた様をお待ち申し上げておりました。あなた様のために教会を守り続けてきたのです……この、幾千の時を」
 ひそやかに含まれる、秘密と時間の気配。
 さあ、と促されて、一行は教会に向かった。キサラギは戸惑いを浮かべていたけれど、歩き出す頃には覚悟を決めたように、硬い表情でじっと何かを考え込んでいるようだった。

    



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