時の静けさが建物を洗っている。降り積もった寂しさがあらゆるところに染み込んでいる、質素な教会だった。神様に祈る場所とは、植物や供物が飾られ、荘厳な雰囲気に満ちているものだと思っていたが、この教会の神様は厳しくもつれないらしい。すれ違う聖職者たちは、みんな裸足だ。進んでいくキサラギを見ると、足を止め、静かに額ずく。
 礼拝所と思しき場所に連れられてきたキサラギたちは、そこでさらに位階の高そうな、この場所の責任者らしき老爺と対面した。
 彼の背後に垂れ下がるものを見て、キサラギは息を飲む。
「キサラギ?」
「……護符だ」
 垂れ幕を見ながら言った驚きを、エルザリートは正しく受け止められなかったようだ。仕方がない。キサラギが口にした護符というのは、草原地方で人が竜除けとして身につけるお守りのことだったのだから。
 この教会に下げられている幕には、草原の人々が身につける護符の文様が縫い取られている。そして、周囲にはきらきらと音を立てながら、護符そのものが飾りのように下げられ、揺れているのだ。
 ふと、見られていることに気付いて視線を落とすと、杖をついた老爺と目が合った。彼は、にこっ、と音を立てそうなくらいに笑ったので、少し面食らってしまう。人懐こい、少年のような笑顔だった。なんだか、懐かしい人にあった、というような。
「竜除けの紋と呼ばれていますが、古い時代では選ばれた者が身につけることを許されるしるしだった、と教会の聖典に書き記されています。私たちは、その紋を身につけることを許される者を、長らく待っていたのです」
 キサラギは彼に向き直る。
 老爺は、ゆったりと頭を下げた。
「申し遅れました。私は、ジュレス。ジュレス・ユズル・ファンティリアと申します。ジュレスでもユズルでも、好きな名でお呼びください」
 見つめ返すキサラギに、もう一度彼は笑った。
「教会では、二つの名を授けられるのです。ひとつは今の名を、もうひとつは古き名を。古き名をつけるのは、この教会を導いた聖人に則ってのことです。表立っては公表されない真の名でもあります。かの聖人は、未来を知り、それを一冊の書に記しました。それは今日に至る主要な出来事が記されたものだったため、それを用いることで、我ら教会はこれまで存続することができていたのです」
 予言、という言葉が何人かの間で囁かれた。
「予言……? 未来を記していたということですか」
 尋ねたエルザリートに、ジュレスは曖昧な笑みで答えた。
「予言と呼べるほど密なものではありませんでした。なにせ、記されている事情が、ほとんど草原での出来事に偏っていたからです。そして、ある時代のある部分だけが、奇妙に詳細でした。この時代の、ほんの二十年前ほど前のことです」
 老爺の笑みが一転し、一瞬、鋭い目つきでキサラギを見た。
「あなたの名をお聞かせ願えますか」
 ひやりとする目つき。
 キサラギは息を飲み下した。
「……キサラギ、と言います」
 ジュレスは頷いた。
「我が教会を設立した人物、その聖人は、サティ・サダ・キサラギノミヤと名乗っていました。――あなたの知る人物ではありませんか?」
 何故そんなことを聞くのだろう、という混乱で、とっさに反応できなかった。
(キサラギノミヤって……あの街のことなのか?)
 この教会がいつ設立されたかは知らないが、少なくともキサラギが生まれるずっと以前のことだろうし、そんなに時間が隔てられた人物と知り合うことなどあり得ない。
 滅んだ街。灰色竜に襲われ、何もかも消え去った、かつての故郷のことならば、何故、王国地方の宗教組織の人間が、草原の都市の名を名乗るのか。
 答えられないキサラギに「性急すぎましたね」とジュレスは微笑した。
「予知書のほか、サティ・サダは他にも幾つかの手記を残しています。それは、彼女が記した予知書の終盤に位置する時代の出来事だという推測がなされています」
 それまで静かだった老爺の声は、聖堂に朗々と響きわたる。
「彼女は不思議な出来事が起こったのだ、と書いています。――自分の住むキサラギノミヤの街が、灰色の竜に襲われた。火に包まれる街から逃げ出そうとした瞬間、大地が光を放ち、白いそれに飲み込まれたかと思うと、見知らぬ場所にいた。荒廃した大地、見知らぬ場所、見慣れない服装の人々、退化した文明……ともに光に飲み込まれた仲間たちとともに、事象を付き合わせて、ひとつの結論を得た。自分たちは、かつて生きていた時代から、過去に移動したのだ、と」
 ぐらり、と世界が揺れた。
 キサラギ、と慌てたようにエルザリートが身体を支えてくれる。目眩を起こして姿勢を崩したらしい。がんがんと頭が内側から叩かれている。
(なに……)
 炎に包まれる街。煙がたなびき、何もかもが見えなくなる。
 そこで自分は気を失った。家族を、街の人たちを探して、そして。
(街が滅んで、その後……誰も……誰も見つからなかった。遺体さえも……)
 そのおかしな状況を指摘した者もいたが、多くは手掛かりひとつないその状況を詳細に調査することなく、街がひとつ滅んだのだと認識することで終わっていた。手がかりがない状態では調べようがなかったのだ。
 街のすべてが焼失し、人すらも消えた、キサラギノミヤ。
「過去に、移動した……」
「キサラギノミヤは、古の王国があった街だったそうですね。なんらかの要因で古い力が発動し、サティ・サダたちを過去に送ったのかもしれません」
 ですから、と聖職者たちすべての目が、キサラギに向けられる。
「サティ・サダたちは、同胞のしるしとして、キサラギノミヤという名をひそかに持っていたようです。……現在ではそれを名乗る者もなくなり、私たちも時代に即したファンティリアという名を名乗っています。キサラギ、あなたは、彼女たちと同じキサラギノミヤの者ですね? 彼女たちが滅びを見た瞬間、唯一この時代に残った、ということですね」
「ジュレス様」とエルザリートが割り込んだ。
「いくつかの不可思議な出来事がわたしたちをここまで導いたと、そうおっしゃりたいことは理解しました。皆様はキサラギを待っていたと言った、それはいったい、どういうことなのですか」
「キサラギノミヤの者たちの悲願。この教会のさだめを成すためです」
 運命。さだめ。宿命。
 そんな言葉で、キサラギはどんどん縛られていく。
「過去の時代を未来に向けて生きていく彼女たちは、ひとつ、使命を得ました。未来世界で、自分たちが古き盟約を果たさずにいたことが、自らの故郷を狂わせていたということを知ったためです。そして、自分たちが失っていたものをつなぐことで、いずれ訪れる滅びを避けることができるかもしれないと考えるようになったのです」
 ――竜約。
 守護者たる竜と、支えたる約者が交わす契約。どこかの時点で失われた絆のことだ。
「教会の悲願は、王国が誤った、竜と人の、正しき誓約を再び蘇らせることなのです……」
(なんて、遠くまで、きたんだろう……)
 誰かが続けてきたことで、誰かが繋いできたもので、キサラギはここに立っている。何が始まりだったのか、どこから始まっていたのか。もしかしたら、この世界が辿ってきた道が、すべて自分に繋がっているような気さえする。
 けれど、それは錯覚だ。
 この世界は、この場所に生きるすべての人のものだからだ。
「……だったら私は、大手を振って、彼を助けてもいいってことですね?」
 そしてその人たちの望みが、今の自分の願いと重なっている。だからキサラギは、それを果たすことができる。
 老爺は眩しげに笑い、跪いた。
「世界の守護者の再臨を御祝い申し上げます」
「教会は、あなた様の意志に従います」
「この世界をお護りください」
 聖職者たちが口々に歓呼する声が、響き渡る。やがて鐘が鳴らされ、旗が掲げられる。そして、教会が立ち上がったことが布告されるのだ。
 それを受けたキサラギのことを、のちにエルザリートはこう言った。
「まるで長い旅を終えた巡礼者のようだった。神々しくて、眩しくて……。でも、内心でものすっごく『まずい、規模が大きくなってきたぞ……』って焦ってるんだろうと思うと、噴き出すのを堪えるのに苦労したわ。本当にね」


   *


 予知書と呼ばれているものは、本当に古い冊子だった。壊れないように表紙がつけられ、箱の中に収納されていたものの、触れたそばからばらばらになって消えてしまいそうなものだ。
 記された文字は、ずいぶん昔のもののはずなのに、今のキサラギたちが使っているものと同じだった。
 ゆっくりと読み進めて、キサラギは、それが確かに、自分の暮らしていた街の誰かが書いたことを感じ取った。
 予知書は、あの日から遡り、いくつか出来事を行きつ戻りつして記されたものだった。自分の状況、何が起こったか、状況を把握し、ここが過去だと思うので未来のことを記そうと、試行錯誤されたもののようだ。自分たちの時代ではすでに消えた、竜約というものがかろうじて存在する過去の時代で、のちの世界でもう一度それが成されることを信じて……。
(もう一度、キサラギノミヤに行かなくちゃならないみたいだな)
 この旅の続きができた。滅んだ街に、砂漠の遺跡のような不思議な力を発動させるものがあるのだとしたら、それを調べて、発動しないようにしておかなければ、余計な混乱を招く可能性がある。
 行けるだろうか。また、あの風の渡る大地に立つことができるのか。
 センと一緒に。

    



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