第8章 許   
    


 剣が、槍が、弓が。盾と旗が。馬が、車が、衝突し破壊され折れて砕かれる。土がえぐられ、吐き戻されたものと血が撒き散らされていく。破壊が満ちる首都東の平野部。その天を、黒雲が覆っている。息がつまるような暗さにその場のものが曖昧な影になっていく中。
 雷鳴が轟いた。
 その音は長く響き、二つ、三つと重なった。奇妙なそれに気付いた者は多くはなかった。それよりも、自らの命を守るのに必死だったからだ。
 ――そして、それらが降ってくる。
 回転する岩盤のように。鋭い矢のように地表を目指してきたそれは、大音を響かせて地表に突き刺さると、巨大な翼を広げ、長い首をもたげて、絶叫した。耳が痺れ、心臓からせり上がった本能的な恐怖に硬直していると、硬い爪によって薙ぎ払われる。
 土を鷲づかむようにしてのし、のし、と歩き、逃げ惑う戦士たちを爪で、時にはその顎で払い回り、瞳に血の色を映して息を荒くし目を細めている。
 そうして、そこは人と竜が入り混じる混沌の戦場と化した。


   *


「あーあー……」とため息まじりの声が聞こえた。それはブレイドが最も聞きたくなかった男のものだった。
 教会の独房に入れられたブレイドを、入り口の覗き穴から見ている気配がする。
 がちゃん、と音がして、聖職者が扉を開けた。はっきりと姿を現した男に、ブレイドはしばらく洗っていない汚れた手で顔を覆いながら、うんざりとため息をついた。
「なんでお前がここにいるんだ……」
「そりゃあお前、俺がお前の兄貴だからだろう」
 龍王の騎士としてここにいるのはおかしいだろうとか、どうやって首都を抜け出してきたのだとか、教会に入るまでにつなぎがいるだろうとか、そもそもどうして俺のところに来たりなんかしたんだとか、問いただしたいことがそれはもう山ほどあったが、こと、このヴォルス・ランザーに関しては、そういった細かいことは尋ねてもまったく無意味なのだ。なにせ、返答が「そりゃあお前……」から始まる、大雑把で感覚的すぎるものばかりなのだから。
「大丈夫か? 怪我してないか。腹減ってないか?」
「お前、本当に何しに来たんだ。俺を助けに来ている場合じゃないだろ? エルザリート姫率いる反乱軍が、すでに首都を目指して発ったはずだ」
「ああ、すれ違った。そろそろ戦闘が始まっている頃だな」
 ブレイドはひきつる顔で低く呻いた。
「お前……」
「言っておくが、脱走したわけじゃないぞ。仕事を果たしたら好きなところへ行けと、陛下がお命じになった」
「……仕事?」
 ヴォルスが語るその内容を聞いて、ブレイドはしばらく考え、いくつかの推測に辿り着き、言葉を失った。掻き毟るのに似た動きで顔を撫で、口を覆う。
(オーギュスト……殿下、あなたは……!)
「あそこまでいくと、美学だな。オーギュスト殿下は周到で残酷な方で、こう言ってはなんだが狂い方すら美しい。前王とは違うとつくづく思う」
「お前はそれを分かってここに来たのか」
「そりゃあなあ……俺の家族はお前であって、殿下じゃないだろう? 他人とは心中できんさ」
 ぐ、とブレイドは声を飲み込んだ。そして、だから嫌いだ、と思った。
 この男はこうやって、何の気負いもなく兄弟だとか家族だとかいう表現を使って、仕方がないと肩を竦めて笑うのだ。ブレイドが先に王太子の騎士に選ばれた時も、剣の指南役に褒められた時も、「お前はやっぱりすごいよ」と笑っていた。
『お前はすごい。俺なんかとは違う』
 そう言われる度に、胸を温める喜びと、きりきりと引きしぼられるような憎しみを味わっていることなど、まったく気付かないで。
(お前は俺とは違う……)
 ヴォルスは嫡男だ。正妻の子で、滅多なことでは迫害されない。家を継ぐために必要な技術を習得し、騎士としてほどほどの身分を得て、周囲とも大きな不和を起こすことなくやっている。貧乏くじを引きがちだと本人は思っているかもしれないが、それを乗り越えるだけの力量は備わっている。
「どうする?」
 俯くブレイドにヴォルスが言う。
「首都へ戻っても、違うところへ旅立っても、それがお前の選んだ道なら、俺はお前に剣をやろう。お前の剣が、お前の生きてきた一部であることを、俺が一番よく知っているからな」
 剣の理由は、捨てられないため。
 家族の細い絆を守るためだった。必死になって自分の居場所を作り、勝ち続け、他者を葬ることで生きてきた。それを後悔したことは一度もない。それだけ、自分は生きたいと強く願った結果だからだ。
 けれど、強くなりたい、という望みは、そこからもう一つ別の場所にある、もっと綺麗で、いうなれば崇高な願いだったのではないか。
 犠牲を払うのではなく、自分と戦い、磨き、研いでいく、美しいものであったと。
 そう思いたい。
「お前の剣に従え」
 ヴォルスはその年齢の割に老けた顔で微笑し、ブレイドは、はっと短く息を吐き出して、前髪をぐしゃりとつかんだ。
「……かっこつけたこと言って。何の台詞だ?」
「俺の自作だ。名言だろう?」
 ヴォルスがここにいることは、恐らくエルザリートの許可あってのことだ。彼女は自分たちが面会することを認め、そして、その行く先を自由にさせていいと思ったのだろう。
 理由は一つ、エルザリートは、オーギュストがブレイドとヴォルスをどう扱うつもりなのかを推察していたから。
 そして、オーギュストがブレイドにエルザリートを追わせたのは、その時、ブレイドがどちらを選んでもいいと考えていたからだろう。命令に準じてエルザリートを処分するか。それとも、狂った主人を見限って叛意を示すか。
(オーギュストは、俺がエルザリート姫の生死を握ることで安心したんだ。俺なら確実に殺すだろう。あるいは、命令に反したとしても、エルザリート姫を守り、生かすだろうと……)
 ブレイドが戻れば、エルザリートは死んだ。
 戻らなければ、生きている。
 ――誰にも知られないように、彼は自分の最も愛した少女の生死を確かめようとしている。その、本来の目的は……。
「剣を」とブレイドは手を伸ばした。
「仕事をしたと言ったな。だったら、早く陛下を迎えに行かねばならんじゃないか」
「仕事熱心で何よりだが、……無茶はするな。お前は、頑張りすぎるきらいがあるからな」
 口うるさくて、苦労性で、本当は平和に生きたいヴォルス。
 自分のように必死にならなくていい、いつも自然体な腹違いの兄を、ブレイドはずっと。
 ずっと。


   *


 城下は閑散としていた。多くの住人は逃げ出したのだろう。籠城するにも、首都を守る兵士たちがいない。だから、平野部に出された者たちが最後の防衛線なのだ。
 戦うことは無用だと、このまま反乱軍の進軍を認めれば命までは取らない、そう投降を呼びかける手はずになっているが、キサラギは、空を飛んでいく竜影を見ている。血が流れる場所を目指す竜人たちだった。竜人たちが戦場に降り立ったら、無事では済まない。
 竜人が、上位にある者の命令に従うというのなら、その統率者を抑えればいい。あるいは、自分たちが上位に立ってしまうか。
(どこにいるんだ、セン)
 細い糸のような感覚は、ルブルスの城を指しているけれど、エルザリートに協力する情報収集担当の商人は、銀の髪の竜人は滅多に姿を見せないと言っていた。普段どこにいるのか分からず、現れたと思ったら竜の姿で、竜人たちを引き連れてどこかに飛んでいくという。それも、最近はぱたりとなくなり、ずっと行方が知れないらしい。
 それを聞いて、エルザリートは「地下にいたのかもしれない」と言って、場所を教えてくれた。彼に会ったと言ったのだ。
「すごくまともだったわ。冷静だったし、何かおかしなところも感じられなかった。彼は、待っていると言っていた。断罪と、選択と、裁定を下せる者がやってくるからと」
 自惚れでなければ、それは自分だ。
 センは、私を待っている。この城のどこかで、私のすることを見ている。
「オーギュスト王を捕らえろ。最奥の龍宮にいるはずだ」
 アリスが指示し、奥へと向かう。
 だが彼女は、キサラギが立ち止まっているのを見て足を止めた。
「どうした」
「……何か、変な感じがしない?」
 自分みたいなのが、そういう感覚的で不穏なことをいうのが一番怖いと、キサラギは一応自覚がある。聞き流す方が危険だと判断したアリスは、嫌そうな顔をしつつ「どんな」と聞いた。
「遠くで何か響いてる気がする。かすかに地面が振動しているような」
「地震……か? 地下に遺跡があることは聞いているが、そこに何かあるのかもしれんな。そこへ行くつもりか?」
「……そう、だね。うん、やっぱりそこなのかな」
「歯切れの悪い返事は止めろ」
「ごめん。どこへ向かえばいいのか分からなくて。地下、のような気もするし、そうじゃない気もする。なんだかあちこちからたくさんの人に呼ばれてる感じがあって、どこに彼がいるのか感じ取れないんだ」
 言いながら、そう、その感覚が一番近い、と思った。耳の奥、頭の中、感じ取れるところでざわざわと無数の声が何かを言っているのだ。そして多分それは、今足をつけているこの地面の下から聞こえている。
 血を啜った大地、という言葉が頭をよぎる。
 その大地で育ったものを食べ、育ち、生まれて死んでいく王国地方の人々。その肉体が朽ちることで、血と肉に宿った呪いが大地に染みていく。繰り返され、蓄積される怨念。その中心が、この場所。
 その時、天地に鳴り響く鈍重な音色に、キサラギたちははっと空を仰いだ。誰かが「鐘楼だ」と言い、龍宮の塔の一つを見上げる。ほとんど手入れされていないのか、不協和音となっているそれが不吉な気配を伴って、首都中に響き渡っていく。
 キサラギが聞いているざわめきは、一層ひどくなった。
「キサラギ!? おい!」
 剣を抜き、駆け出したキサラギに、遅れてアリスたちが続く。
 嫌な予感がする。
「っ!」
 後ろから、頭上を越えてきた気配を察知し、キサラギは後ろに飛び退いた。
 行く手に降り立ったのは、ひょろひょろと細い手足を持つ、人間の男くらいの大きさの小竜だった。蜥蜴が巨大化した姿形をしており、ぎょろりとした目玉を嬉しそうにぐるぐると動かしている。
「竜か!?」
「格をいうなら中級って感じだね。足止めしたいのかな」
 相手の目を見据えながら、刃を引き、構える。
 柄を握る手がどくどくと脈打っている。まるで、今手にしているものが心臓になったかのようだ。
 いつも抱く恐れは内側にあるのに、不思議と、負けることはないと確信できた。傷一つ負わず、自分はここをまっすぐに駆けていくだろう姿が思い浮かぶ。
 息を吸い、言い放った。
「悪いけど、行かせてもらう!」
 竜は四つ足で跳んだ。キサラギは、それよりも素早く蹴ると、中空でそれを真っ二つに切り捨てた。黒い血が散り、裂かれたからだがびくびくと動いた後、ただの肉になる。キサラギは竜に向かって吠えながら、そこを走り抜けた。

    



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