肖像画の間に居並ぶ王者たちの目が、オーギュストを見ている。
 肩を抱く母の爪が皮膚に食い込む。耳元で、囁き声がうるさいくらいに響いた。
「よく覚えておくのですよ、オーギュスト。あなたは、ルブリネルク龍王家の血を継ぐ者。血の絆は絶対。この血があなたを王にし、あなたを守るのです」
 ――この血がわたくしたちを繋ぐのです。
「はい、母上」
 そう素直に返答が出来ていたのはさほど長い間ではない。
 エルザリートが生まれた頃には、オーギュストはすでに母を見限っていた。
 血走った目、長い爪で息子の肩を掴み、揺さぶる母。これが王妃だ。ルブリネルクの女性たちの頂点にいるという女。
「あなただけが、龍王家の正統なる後継者。他の者は王族ではない。あなたに流れる血だけが正しいのです。あんな、」
 あんな子どもは、王族ではない。
 誰のことを指しているのか、今のように伝手がなくとも、オーギュストはうっすらと理解した。今と同じ目をして王妃が語るのは、ランジュ公爵家に嫁いだ実の姉のことだったからだ。王妃は、ランジュ公爵夫人に対して勝ち誇った物言いをすることが多々あり、それは姉よりも自分が龍王に相応しかったために選ばれたという自尊心からくるものだった。
 母が固執したのは、血だった。王家の血だ。そして自分の血が流れる者だけが正統な王位継承者であり、その他のものは汚らわしい下賤だと言ってはばからなかった。
『子ども』が指すのは何者だろうかと考えていた時、ふと、オーギュストは、伯母が子どもを産んだことを知らせていたことを思い出した。オーギュストの従妹に当たる娘の誕生について、叔母の夫であるランジュ公爵が報告に訪れ、父がそれに祝福を述べていた。
(どんな子なのだろう)
 対面の機会はすぐにきた。産着に包まれた我が子を乳母に抱かせて、ランジュ公爵夫人が新年に集いに現れたのだ。
 凄まじい形相でにらみ合う母と伯母を置いて、オーギュストは、ゆりかごの中で眠る赤子の顔を覗き込んだ。
 金の髪をうっすらと生やした赤子は、夢の中で何かを掴もうと手足をぱたぱたと動かしていた。
 その時、オーギュストは、これは、なんて弱々しい生き物なのだろう、と思ったのだ。
 ぎゃーっと悲鳴が上がった。王妃がランジュ公爵夫人に向かって扇を振り上げたのだ。止めに入る貴族の夫人や子女たちなど目もくれず、くそ女、売女、呪われろなどと叫び合っている。本当に血の繋がった姉妹なのかと疑うほどの憎み合いだったが、彼女たちはその時鏡に映したように同じ顔をしていた。
 血が正しいというのならば、まさしく彼女たちは同じ血族だった。
 そしてオーギュストは思ったのだ。
(私の家族は、この子だけだ)
 エルザリートが、何も知らない、けれど奥底に暗い流れを秘めた、幼い娘となって成長していくにつれて、彼女は自分と血を同じくするたったひとりの家族なのだと確信するに至った。
 この世界に二人だけ。
 だから、オーギュストは母と伯母を殺した。それは、唯一の家族を守るために必要な行為だった。

 エルザリートがもしここにいたのなら、後悔などないよ、と告げるだろう。後悔などしたことがない。お前を守るためならなんでもできた。生きるために、力を尽くそうと思うことができた。
 お前がいるから、生きてこられた。
 他者を踏みにじってまでも、生きようと思えた。
 誰が鳴らしたのか、塔の鐘が鳴り響く中、付き添いも止める者もないまま、オーギュストはゆっくりした足取りで、その塔へと向かう。王への畏怖に満ちていたはずの城は、風が起こすかさこそという音すら響く、寂れた場所と化していた。
 堕ちたものだと、快く微笑しながら、萎えた足で行く。扉を開け、階段を一歩一歩踏みしめて、音のかすかな響きの残る塔を登る。
 最上の見晴らしに当たる部分に出れば、暗闇に沈む大地が見下ろせた。
 湿った風に吹かれて、オーギュストは、今、自分と同じようにこの国を見渡しているであろうエルザリートのことを思う。
 ずっと愛していた。
 ずっと、憎んでいた。
 エルザリートを己の一部のようにしていたがゆえに、いとおしいときも、にくしみに焼かれるときもあった。それは彼女もそうだっただろう。自分の姿をお互いに見るようにして、相反する感情をずっと抱いていた。それは、これからも続く。
(お前は私のものだった。だから、私もまた、お前のものだよ。エルザ……)
 空に向かって手を伸ばす。
 ――そして、背後から駆け上がってくる足音。
 オーギュストは振り向き、笑いかけた。
「……君も、つくづく哀れだな。そうして駆けてきても、その先にいるのが同じ顔をした別の男だというのは」
 きらめく黒の瞳。草原の民の色彩。
 その存在を疎んじた奴隷であり騎士であった者、彼女自身の名乗りを信じるならば竜狩りの少女。
「キサラギ。生きていて、何よりだ」
「……オーギュスト」
 低く呼びかけた彼女の後ろから「いたぞ、龍王だ!」と声をあげて、反乱軍の戦士たちが姿を現したのを、オーギュストは穏やかな気持ちで迎え入れることができた。



「龍王オーギュスト・イル・ルブリネルク。あなたの身柄を拘束させていただく。大人しくしていれば、傷つけるつもりはない」
「騎士領国の騎士姫か。潜入部隊の長は君か? 出世したものだな。つい数年前までは、美しい騎士の象徴と、飾り物のように呼ばれていたように思うのだが」
 緊張に強張っているアリスの額に、青筋が浮いた。触れられたくないところだったのだろう。
「……投降するか、しないのか。あなたの名誉のためにもう一度お尋ね申し上げる」
「私を捕らえてどうするつもりだ? 私が除かれたとしても、この国は闇に沈むことに変わりはない。それとも、君たちはこの地をすべて破壊して、そこに新しい国を建てるのか」
 それもいいだろう、とオーギュストは微笑む。
「それもまた、呪われた王国だ。竜の蔓延る、囚われた国だ」
「オーギュスト」
 彼の言葉を遮って、キサラギは一歩前に出た。
「彼はどこだ」
「どこだと思う?」
 新たな声の主が現れる。
 空から、紅いドレスの裾を泳がせて、泳ぐように降り立った。その顔に、キサラギは見覚えがあった。やはり、と思った。
「ミサト……、竜人の郷の、ミサトか」
「久しぶりね、キサラギ。直接顔を合わせるのは、竜人の郷で会って以来かしら? ずいぶん、感じが変わったわね」
 背が少し伸び、身体つきが変わり、髪が伸びたことを、紅い女は見守るような、値踏みするような目をしてそう表現した。キサラギは刃を意識した。
 隙を見せれば、やられる。
「やっぱり、あんたが紅妃だったのか」
「ルブリネルクは古巣でね……先王はずいぶん御しやすかったから、快適だったわ。そろそろ寿命だったから早々に殺してあげたけれど、やっぱり、草原地方の人間を殺すほど、気持ちよくはないわね」
「人間の血が、竜人の願いを叶える」
 キサラギが告げた伝承は、ミサトの心を揺らすことはなかった。けれどそれは、彼女が長らく待ち望んだ、ものがたりのきっかけにはなったようだった。
「長く生きていると、それだけ名前もあるし、住むところも持っているものなの……そうすると、少しずつ、その土地に『何か』あるのが分かるようになったわ。草原における竜人と人間の関係や、王国地方には呪いが染みていることや、砂漠地方はそもそも竜と竜人が敬われていることなどが、ね」
 草原と王国を比べることができたなら、その違いに気付くことは容易だろう。草原では竜の血で人が狂う。王国では、そんな言い伝えはない。王は竜を統べた者として敬われている。――それは何故か? その答えをキサラギは与えられている。
「人間の血が竜人の願いを叶えるんじゃない……人間と竜の、共に生きるという約束が、精神や肉体を支え、力として発現し、お互いの守るべきものを守らせるということが、その言い伝えの真実なんだよ」
「そんなところだろうとは思っていたわ。けれど、それが果たされない状況なのでしょう? 私には分かるわ。少しずつ、ゆっくりと、光を通さない暗い水の中に沈められていくようなのだもの。何も聞こえないし何も見えない……響いてくるのは、自分自身が強く思い、求めた願い事だけ……」
 キサラギは慎重に告げた。
「私にその、この世界中のおかしなところを修正する力がある、って、聞いたら、あなたはどうする?」
 ミサトは、笑った。
 明るく、朗らかに。美しく無邪気に。今にも楽しげな笑い声を立てるのではないかと思わせる、なんの影も見えない顔だった。
「分かっているでしょう、竜狩りの少女。私は竜人、人の血が流れる様に歓喜し、自らの復讐に堕ちていく。私の、人としての人生を奪ったこの王国を根こそぎ灰に帰すために、ここにいる……」
「あなたのそれは、根深いものだと思う。けれど、そういう風に考えてしまうように、心が病気に罹っていたってことなんだよ!」
「そして、君は今もまた、剣を退く」
 首を傾げるオーギュストの、褪せた金の髪がふわりと風に揺れる。あんなに見事な光を放っていた彼だというのに、そこに立っているのは病人だ。削られている、と思う。心が。身体が。みるみる衰えている。何かに、生命力を奪われている。
 何かを感じてアリスが「おい」と警句を発した。
「まだ迷っているのか」
 それまでの様子が一変し、鋭く切りつけるように放たれた一言に、キサラギは息を詰めた。

    



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