第2章 贖   
    


 エルザリートの額を小突いたのは、クロエ・ロリアールが初めてだった。
 夜会の後、部屋に戻ってきて、ふと二人きりになったところで、「失礼を」と言いながら近付いてくるので、何か不埒な真似をするのではと扇を振り上げようとしたところで、ぴんっ、とクロエがエルザの露わになった額を弾いたのだった。
「痛っ、なっ!?」
 無礼を、と声を上げることも思いつかない不意打ちに目を白黒されていると、クロエは静かに言った。
「他人を傷つけるのはお止めなさい。同時に自分も傷つくことで罪を相殺しているつもりかもしれませんが、傷は癒えても、消えることはないんです。強者として振舞い、他者を傷つけることで、ご自分を貶めるのは止めなさい」
 彼の言葉をじわじわと理解したエルザリートの顔に、熱が上った。クロエは、先ほどの会で、エルザリートと対立している令嬢とやりあったことを言っているのだ。
 相手は相当口の立つ気の強い娘だったが、その立場が彼女の父母の捨て身の追従の果てに得たものだと知っているエルザリートは、そのことを挙げて相手を嘲笑したのだった。
「あのご令嬢のやり方は確かにまずいですし無礼でしたが、あの方のご両親が彼女のためにやったことを嘲る資格は、あなたにはないのですよ」
 持っていた扇は、クロエの頬を張った。
 クロエは、にっこり、笑った。何事もなかったかのように、けれど頬を赤く腫らしながら。エルザリートの方が肩で息をしていた。
「口が過ぎました。失礼いたしました」
 クロエは、そうやってエルザリートを注意しつつ、激昂することもなければ慇懃な態度を崩すこともないという、引き際をきちんと心得ていた。その頃からエルザリートはクロエの言動を注意深く観察するようになり、彼の笑顔を見るたびに、不思議な気持ちになるのだと気付く頃には、オーギュストはエルザリートの変化を察知していたのだった。
(わたしは知っているわ、オーギュスト……)
 あなたは、クロエを邪魔だと思っていた。わたしに知らない世界を見せる彼を、疎ましく感じて、排除する時を狙っていた。
 戦いに勝ったものの、負った傷が元でクロエは死んだ。
 けれど、そんなことで死ぬような傷ではなかったと、わたしは知っている。
(あなたのしたことを、わたしは知っている)


 ごみ山での生活は、厳しくも、淡々と過ぎ去った。
 ミリュアに連れられて、彼女の仕事場や縄張りで、毎日屑拾いをした。一日歩き回っても、得られる収入は一人分の一食分にも満たない。ミリュアはそれを大事に貯めて、少しずつ生活費として使用した。エルザリートは、存在は知っていたが手にすることはなかった小銭を得た。それが初めて、自分で稼いだお金だった。
「盗られたりしないよう、ちゃんと隠しておくんだよ」
 そう言って、ミリュア自身も最後に使うためにどこかもう一つ、別の場所に貯金をしているようだった。
 彼女の家は、ごみ山の巨大ごみをつなぎ合わせて作った、小屋とも呼べないような場所だった。声を持たない老婆がミリュアの唯一の家族であり、時折家をなくした、行くところがない子どもたちや、誰かから逃げてきた女たちが、彼女の仲間だった。そして、今はエルザリートがそこに転がり込んでいる。
 ごみ山に暮らす者たちは、他の者たちにとって便利な働き手だと考えられているらしく、恐らくは先日の男のような者たちが、ミリュアたちの報酬のほとんどを跳ねているのだと思われた。
 ミリュアは、時々そうした者たちに別の仕事を頼まれて出かけていく。その彼女の代わりに屑拾いをしながら、エルザリートは街を観察し、特に水場に溜まっている女たちの話をよく耳を澄ませた。
「……だから、王はそろそろ長くないって話だよ」
「高貴な人っていうのも可哀想なものだ。あたしらじゃ病気にかかったら死ぬしかないのに、そうやって苦しみが続くのは哀れだよ。いっそ一思いにやってくれって思ってるんじゃないか」
「もう王子様の方が、王様って感じなんでしょう? なんで早く即位しないのかしらねえ」
「まあ、そう遠くない話だと思うよ。男たちが日雇いに駆り出されているっていうからね」
 エルザリートは束の間手を止めた。女たちは、それに気付かず、身を乗り出す。
「どういうこと?」
「お城が、人を欲しがってるってことさ。新しい王様が、何かしようと思ってるんだろうよ」
「でも、それ、雇い主が王妃だって聞いたけど?」
「王妃は今はいないよ」
「だったら寵妃かい? ああ、紅妃か。あの人も大変だねえ。今の王が死んだら、息子の方に鞍替えするのかね?」
「王子様の方が年増女を嫌がるだろうよ」
 げらげらと笑い合っている女たちに少しずつ背を向けて、今聞いたことを考える。
 オーギュストの言葉は、やはり本気だったのだ。父王を退位させ、即位しようと考えている。そして、傍らにエルザリートを据えようとも思っている。
(わたしを呼び戻せると思っているの? 即位すれば、前王の処置を撤回することができると考えて)
 彼が今まで父王を放置していたのは、王が無害な存在だったからだ。王は周囲に操られていたが、最も太く、複数の操り糸を握っているのはオーギュスト自身であり、父王を傀儡とすることでうまくいく事柄がいくつかあったからだった。
 それが、今こうして行動するということは、王に死期が迫っているか、邪魔になったかということだろう。エルザリートの命は救われたものの、立場を奪って王宮から落としたことは、オーギュストの怒りに触れたはずだった。
 もし、彼の迎えが来たとして、自分はその手を取ってしまうかもしれない可能性に、エルザリートは震えた。
 想像以上に、北区での日々は苦しい。寒さに震え、飲み水にも事欠き、一日中空腹でふらふらする。傷を作らない日などなく、朝目覚めた時に訪れる後悔と絶望に、いつも飲み込まれそうになる。
 ああ、今日も一日生きなければならない、と、そう思ってしまうのだ。
 冷え込みが厳しくなると、雨が続くようになった。地面は氷のようになり、夜明け前には薄く凍った。エルザリートの裸足は、まだまだそれに耐えるには頼りなく、ミリュアが作ってくれた布で包むだけの簡易の靴では温めることもできなかった。
 水路の水かさが増し、腐臭が強くなった。どこかで溜まっていた汚水が押し出されて流れてきているのだと思われた。首都には豊富な水源があり、土を掘れば泉が湧くとまで言われているが、天候が悪くなるとそうした河川の水が一気に溢れ出すことから、水路を整備することは王族の長期的な課題だったと、歴史の講義で学んだことがある。
 ここに来た時に隠れた、橋の下のことを思い出した。きっと、新しく何かが流れ着いているだろう。
 わたしもそうなるかもしれないのだ。そう思う時、いっそそうしたらいいのだろうか、という考えもちらりとかすめる。
(わたし一人がいなくなったとして、何が変わるというのだろう)
 その日、鐘楼が告げる夕刻になっても、ミリュアは、まだ帰ってきていなかった。エルザリートは、彼女が「おばあちゃん」と呼んでいるケイティと、お互いが視界に入る場所でそれぞれに過ごしていた。
 耳の遠いケイティは、外に出かけることはないが、この家の中でずっと針仕事をしている。繕い物、産着、下着など、作るものは多いらしい。夜になると大体は仕事を終えて椅子に座ってうつらうつらしているが、この日はミリュアが帰宅しないからか、貴重な蝋燭に火を灯し、その傍らで手を動かしていた。エルザリートは、その光景がどこかの画家が描いた構図のようだと思いながら、壁に背を預けてじっと考えに沈んでいた。
 ふと、ケイティが顔を上げた。エルザリートはその動きにつられて目を上げる。すると、視線が交わった。皺だらけの顔で微笑んだケイティは、エルザリートを手招いた。
「……なんですか」
 近付いていくと、年寄り特有の臭気が嗅ぎとれた。彼女は、警戒するエルザリートをじっと見つめると、腕を伸ばしてぎゅっと胸の中に抱いたのだった。
 背中を、ゆっくり撫で、ぽんぽん、と二度叩く。
 どうして、とエルザリートは呟いた。どうして分かるのだろう。
 自分はずっと孤独で、この世からいなくなってもいいのではないかと疑って、誰かにつなぎとめてほしいと思っていたこと。
「っ……」
 言葉はない。彼女と心を通い合わせたつもりもない。
 けれど、ケイティがエルザリートを抱きしめるのは、何の裏も、利益も関わりのない、無償の行為だ。
 この世界に、どれだけの人が、そうやってただ抱きしめてくれるというのか。
(生きなければ)
 少しでも、長らえなければ。ただ与えられ、奪われるだけを繰り返して、生きることが、自分の人生ではないはず。
 以前、自分は何のために復讐するだろうと考えた。殺したいのは、自分自身。今こうして得た答え、それは――。
 エルザリートがそれを手にしようとした時、地面が大きく揺れ、大気が震えた。ぎょっとし、エルザリートはとっさにケイティを抱き込んだが、大音の後、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。しかし、しばらくして人の声が聞こえてくる。
「何かあったのかもしれない。様子を見てきます」
 ケイティは頷き、エルザリートに蝋燭をもたせた。金属板に載せたそれを燭台の代わりにして、エルザリートはごみ山を拙く駆けた。
 妙に空気が埃っぽい。風も、強すぎた。ごみを吹き飛ばし、空虚に消えていく音がしている。なんだか、急に世界が空っぽになったかのようだ。それに、なんだか道が違っている。
 あるところで、見覚えのある者たちが集まっていた。強風の中、じっと立ち尽くし、あるいは、腕を組んだ大人たちが苦々しい顔で何かを囁きあっている。
「積みすぎだったんだ。いつか崩れるって思ってたよ」
(山が崩れたんだわ)
 入口近くは、ごみが溜まりやすい。危ないな、とエルザリートも思った記憶があった。
「お姫さま」
 声をかけてきたのは、ミリュアの仲間の少女だ。他の数人が、こちらに目を向ける。
 異様な空気を感じた。目だけが白く光って見えた気がしたのだ。
「崩れたのね。怪我はない?」
「ミリュアが」
 それきり、彼女は口を閉ざした。エルザリートは眉をひそめる。
「なに?」
 子どもたちが、無言で地面を指差した。そこには雪崩れた廃棄物が斜面を作っている。
 ざわり、と背筋が総毛立った。
 ミリュアが、と言ったきり口を閉ざし、無言で地面を指差した。積み上がった山が崩れたところを。
 それの、意味する、ところは。
「ミリュアが巻き込まれたのを、見た」
 決定的なその一言は、凄まじい衝撃となって眩暈をもたらした。エルザリートが血の気を失って立ち尽くすのに、子どもたちはまるで、感情がない人形のようだった。
「誰か……助けを呼ばなくては!」
「もう日が落ちた。朝ならやりようがあったかもしれないけど……この暗さじゃ、無理だよ」
「前にもこういうことがあったんだ。その時も、だめだった。広すぎて、手が足りなかった」
「それでも! 手伝って、ミリュアを助けなければ!」
 エルザリートの声に、びくりと子どもたちは震え、そしてのろのろと動き出した。彼らに混じって、エルザリートはごみ山を掘った。
(どうか、無事でいて。お願い)
 ぐすり、と鼻をすすっている者がいるのは、寒いだけだからではない。前にもあったという彼らは、こうして見知っている者がいなくなることをすでに経験しているからだ。恐らく、それ以前にもあったのだろう。そして、諦めることで心を守ろうとしていた。
 それが示す、可能性の低さを、手の痛みとともに思い知る。
 けれど、でも、それでも、と足掻くことは愚かなのだろうか。
 どうかお願い、と祈ることは、報われたいという望みだった。思いが何かを救うならいくらだって祈ろう。しかしそうではないことを、エルザリートはすでに知っている。だからこうやって、手を動かす。
「痛っ……」
 鋭くなった破片が皮膚を切り裂く。汗が、流れる間から冷たくなって滴り落ちた。

    



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