第3章 砂   
    


 真昼の砂の上では、風も光も乾いて、ただの熱になる。熱の中に、息も血も溶けていく。ゆえに砂も空も風も、砂漠の王国ラクの民の呼吸であり、血の中にたぎるものだった。戦いの最中には真昼の炎となり、穏やかな平和には夜の星の静穏さを宿すのだ。
 砂紋と夜の星を眺めて日を過ごし、ようやく見えた黄色い街と水の気配に、仲間たちは歓声をあげた。王国の中央都市が、いつものように大河の流れを引き込みながら、周囲に熱の影を揺らめかせながら聳え立っている。
 門が開けられる間に、話が広まったらしく街の者たちが通りに集まってきていた。
「ザウ戦士長!」
「砂の戦士たち! おかえりなさい!」
 女子供が花を投げ、男たちが大きく歓声をあげている。シャルガは、その声らに軽く頷きながら、王宮に向かって馬を進めた。
 王宮は、各地に点在する遺跡と同じく、美しい小片細工で彩られている。青を基調として、規則正しい文様を描き出すために、真っ青な小石の破片を一つ一つ埋め込んでいくのだ。
 奥へと進むとまた装飾が変わり、幾何学模様が刻まれた壁が続く。警備の兵士に用向きを告げると、内へ通された。中庭に作られた池の水の上に、足の長い白い鳥が翼を休めている。シャルガの視線に気付いてちらりと目を動かしたが、次の瞬間には、何事もなかったかのように水に映る自分の顔を見ている。
 廊下に声が反響していた。
 少年のものだ。何かにはしゃいで、笑っている。その楽しげな笑い声に、シャルガはその滅多に緩まないと言われている表情を、ひそかに和らげた。
 廊下を突き当たりまで行くと、視界が開けた。緑の庭が広がり、中央の噴水が、細かな水を降らせている。その庭を見下ろせる場所に座り、庭を眺めやっている男に、シャルガは膝をついた。すると、相手も同時に立ち上がった。
「シャルガ。よく帰った」
「ただいま戻りました。我が王」
 笑みを浮かべてシャルガを立たせるゼルムは、齢四十の雄々しさと落ち着きを併せ持つ、砂漠の王だった。身体は頑健で、声も太く、態度も雄々しいが、一方で芸術を愛する細やかなところもあり、愛情深くもあった。「王妃は向こうだ」と庭先を指し示すが、彼にとって王妃とはただ一人、リュイナ妃だけであり、彼女以外の寵妃を迎える様子は今のところない。
「報告は後で聞こう。まずは、王妃と王子たちに無事な姿を見せてやってくれ」
「御意」
 王に伴われて庭に下りる。緑の影になった東屋のあたりに、女性たちの姿がある。
「見てください、母上! 綺麗な花ですね!」
 王子のそばに膝をついていたリュイナは、満面の笑みで振り返る息子に優しく微笑んだ。
「ええ、本当に。彼女にも見せてあげたらどうかしら?」
「はい。――リリス! これを見て!」
 王妃がこちらに気づいた。シャルガに向かって微笑み、息子の行く先を見守るように視線を動かす。王子は、東屋の影の中に飛び込んで、そこに静かに座っている娘に、手にした花を差し出した。
 鈴なりになった赤い花は、楽器に似ていた。花をさしかけた途端に鳴り出しそうだ。その花に、そっと手が差し出される。
「綺麗ですね」
「リリスにあげるよ。リリスは、赤い色がよく似合うから」
 一瞬虚をつかれたように目を丸くした後、娘は花と同じように微笑った。
「ありがとうございます、王子様」
 受け取った花に顔を寄せ、その香りを確かめている。伏せた目と表情の柔らかさに、王子はぼうっと見入っている。
 王がシャルガに囁いた。
「あの娘が来てからというもの、王子はあの娘に夢中だ」
 シャルガは無言で頷いた。内心では「傷ついた動物をいたわるのと同じなのだろう」と考えている。
 ある日から、あの娘が王宮に留め置かれることになった。娘は深い傷を負っていたが、その理由も、素性すらも、本人が説明することはなかった。不思議なことに、王も王妃もそれでいいと言い、呼び名がないのは不便だろうと、王子に名付けるように命じた。
 回復まで日がな一日眠り続ける娘を、王子は哀れに思ったのだろう。傷ついた鳥を世話したがるかのように、娘にまとわりつくようになっていた。
 それから、あの娘は『リリス』と呼ばれ、王子の懇願もあって、子守のようなことをしている。リュイナ妃いわく、リリスの言うことなら王子はなんでもよく聞くというので、助かっているそうだが。
(異邦の娘)
 シャルガの懸念はそれだった。リリスは、砂漠の民ではない血の持ち主らしく、濡れた黒髪と瞳、黄色い肌を持つ者だった。
 その目が、シャルガに向けられる。
 覗き込むように首を傾けて、目礼される。ごく自然な、気持ちのよい視線の配り方だと思うのだが、シャルガは顔をしかめてしまった。その視線に気づいて、王子が振り向く。そして、わっと歓声をあげた。
「おかえりなさい、シャルガ!」
「ただいま戻りました、ユン殿下」
「戦いは? 我が軍が勝ったの?」
「はい。砂竜の加護の賜物でしょう」
「母上と一緒に、砂竜様にお祈りをしたからだね。次のお祭りには、私が剣舞を捧げますってお誓いしたんだ。シャルガは剣舞の名手なんでしょう。私に教えてくれる?」
 王を見ると、頷きが返ったので、シャルガも答えた。
「もちろんでございます。わたくしめでよろしければ」
「ありがとう!」
 弾けるような笑顔になれるのは、王子を見守っている王妃や、王の教育方針によるものだろうとシャルガは思う。少し子どもっぽいきらいはあるが、残忍な性質も、わがままが過ぎるところもない。この情勢が変化すれば、ユン王子は賢く穏やかな王となって、長く統治することになるだろう。
 シャルガが立ち上がると、王が宮殿へと促した。報告を求めているのだ。シャルガは王妃たちに暇乞いをすると、王とともに執務の間へと向かう。
 王妃の目が届かないところになると、控えてきた官たちが姿を現し、王の後に続き始め、廊下を行く小さな行列になった。
「戦況は?」
 被害状況と龍王国側の退却を告げる。それを、王は難しい顔で「ひとまずは、というところか」と呟いた。
 龍の名を戴く王国ルブリネルクが、軍を組織して周辺国に進軍を始めたのは春のことになる。王位継承によるごたつきののち、即位した新王オーギュストが『世界を正しい姿に戻すため』という大義名分を掲げ、龍王に従わぬ者たちを粛清し始めたのだ。
 オーギュスト王がいう『世界の正しい姿』とは、古の王国のように、竜という神をいただき、その守護と導きを受け、竜と人が共存する世界だという。オーギュスト王はその竜(かみ)をすでに持ち、その支配域を広げるため、古の遺跡を破壊して回ってもいる。遺跡は、別の神を祀っているというのが破壊の理由だった。
 ラク王国の砂漠地帯には、そういった遺跡が数多く残っており、遺跡そのものを街として暮らしている氏族もいる。そこにルブリネルクの進軍を許すことは、砂漠の民の平和を脅かすことにつながる。王は軍をもって迎え討ち、ルブリネルクが再び進軍することを、この半年近く繰り返している。
 そしてこの度、シャルガは遺跡を一つ守りきったのだった。
「竜は現れたか」
「いいえ。上空を飛んでいましたが、戦闘に加わることはありませんでした」
「監視役か。それとも探しているのか……」
 考え込むように言うのは、ラク王国にとって最も重要な遺跡があるからだ。それは王族の秘義であり、この王国の根幹でもあった。今は、まだ、古の術の力で見現されていないが、長くは隠せない、という懸念が王にはあるのだ。
 王はしばらく思案に沈み、「……どちらにしても、守りきるだけだ」と結論付けた。
「お前たち戦士には、長い苦難を強いることになるが……」
「国と王を守るのが我ら砂の戦士の務めです」
 すぐさま答えたシャルガを、いたわるように見つめ、王は頷いた。シャルガが本心からそう言っているのだと分かっているからか、王の表情にはどこか苦悩が混じっていた。

    



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