そして、その日がやってくる。
 扉を叩く音がした。振り向こうとすると、ユキが動く方が早い。失礼する、ときびきびした入室のことわりの言葉とともに現れたのは、剣を下げた美しい女性騎士。
「アリス!」
「久しぶりだな、キサラギ」
 王国地方、騎士領国の後継であるアリス・マーシャルは、紺碧の晴れ着に愛剣を帯びていた。キサラギが喜色を浮かべて立ち上がると、一瞬惚けたように見やり、ほうっと呆れのような感嘆の息を吐いた。
「草原の花嫁衣装か? 美しいな。よく似合ってる」
「はっきり言っていいよ。落差が激しすぎて誰だお前って。この格好で、私が剣士だって言っても誰も信じないよね」
 表も裏も真白で仕立てた婚礼衣装だが、外側の白打掛には、光を浴びて金色の輝く竜と雲、真紅の牡丹が刺繍されている。無垢で統一する伝統的には少し風変わりだが、洒脱だと友人たちはみんな感心していた。背中まで伸びた地毛は結い上げ、かもじは軽く巻いて流し、純金の髪飾りと真珠で飾った。くっきりと化粧を施した顔を鏡で見たキサラギは「誰だお前!」と自分に叫んでしまったくらいの変わりようだ。草履はかかとが高すぎて歩くのに向いておらず、仕方なくずっと座っている。
 アリスは深く頷いた。
「本当にな。誰があの時、血まみれで走り回っていた剣士だと……、すまん。晴れの日に似つかわしくない話題だな」
「でも、来てくれて嬉しいよ。この半年は向こうに行けてなかったけど、大変なんでしょう? こっちに来るにしたって移動手段が……だったし」
「まったくだ!」と、アリスは憤然と腕を組んだ。
「とんでもないやつだとは思っていたが、今度こそおかしくなったのかと思ったぞ! 竜を乗り物にするなんて、聞いたこともない!」
「そうだね、今回が初めてなんじゃないかな?」
「お前の結婚式だと思ったから行くと返事をしたが、とんでもない『乗り物』だぞ、あれは! 必要でなければもう乗らん!」
 その方がいい、とキサラギも頷いた。一応、自分を乗せている生き物は自分かそれ以上の知能の持ち主だ。意思の疎通ができていなければ、非常にやりづらい。それに、竜のようなものが移動に使用されるような時代は、きっと来ない方がいいのだ。
「来てくれて、本当に嬉しい。ありがとう」
 キサラギが顔をほころばせると、アリスも、ふっと力を抜いた。
「何人か都合がついたやつを連れてきた。他にも行きたがったやつがいたんだが、あいにく『乗り物』が定員だったせいで居残りだ。領国にも後日寄ってやってくれ」
「うん、分かった」
 アリスはそうして、座っているユキにちらりと目をやるので、改めて紹介する。
「アリス、彼女は私の親友のユキ。ユキ、こちらは騎士領国のアリス・マーシャル」
「初めまして。アリス・マーシャルと申します」
「初めまして。セノオのユキと申します。お噂はかねがね伺っておりました。キサラギと一緒に、砂漠を越えた騎士姫様ですね。お会いできて光栄です」
 アリスは顔をしかめたが、すぐにはっと息を詰めた。
「失礼ながら、目が……?」
「少しだけ。以前はまったく見えなかったのですが、不思議なことに、わずかに回復したんです。ご心配いただいてありがとうございます」
 竜約による祝福――竜の狂化が解かれた影響だと思われた。
 ユキの失明の原因は竜の血だった。直接傷がついたり、熱病にかかったわけではない。夜の間は視力を取り戻してもいた。竜の血によって狂うものがなくなった今、ユキの目も『こちら側』に戻ってきている。
 ユキはキサラギの視線に気付いてにっこりと笑い、キサラギも笑い返した。そんな二人の様子に、アリスも微笑んだ。
 アリスは後継者としてずいぶん忙しくしているはずだが、久しぶりに顔を合わせた今は、以前のような剥き出しの怒りは薄れて、広さを持つ女性になったように感じる。口の荒っぽさも態度も相変わらずだけれど、それが心地いい。
 すると、不自然にアリスが咳払いした。
「……さきほど、ルブリネルクの一行が到着しているのを見た。そろそろこちらに来るだろうから、私は一旦失礼する」と言った瞬間、扉が叩かれた。声はヨウコだ。
「キサラギ。お客様がお見えになってるけど、お通ししていいかしら? ……女王陛下だって言ってるんだけど……」
「うん、通してください」
 もたつく気配がしたあと、開いた扉の向こうに、豪奢なドレスをまとったエルザリートが立っていた。
 短い金色の髪に、飾り編みが垂れる帽子をかぶっている。ドレスは彼女が昔からよく着ていた青色で、身頃にぴったりして、どことなく騎士の正装を思わせるまっすぐな裾の仕立てだ。
 彼女はすぐキサラギを見つけて、ぱあっと花開くように笑った。
「キサラギ! ああ、キサラギ!」
「エルザ! 久しぶり、よく来たね!」
 手を伸ばしたエルザリートだったが、はたとこちらの格好に気付き、抱きつくのは止めた。だが、今度はキサラギの手を強く握りしめて、涙ぐんでいる。
「ええ、来たわ。あなたが言っていた、この草原に! まさか、自分が草原の地を踏むことになるなんて、思ってもみなかった……あなたのおかげね」
「草原はどう?」
 いつかの自慢を思い出したのだろう、エルザリートは笑っている。
「あなたの言ったとおりだった。緑も、風も、空も。遠くに見える山並みも。街も村も、道も家も、田畑も。王国とは違っていて、とても綺麗で、新鮮に映る……とても美しいと思うわ」
 そこまで言って、距離をとった。膝を折り曲げ、軽く頭を下げる。
「式にご招待いただき、ありがとうございます。結婚、おめでとう。キサラギ。兄からも、祝いの言葉を言付かってきたわ」
 オーギュスト、ブレイドとヴォルスのランザー兄弟、キサラギとともにエルザリートの騎士の役目にあったルイズにも招待状を出していたが、欠席の回答をもらっている。
 ルイズは現在エジェの補佐役をしていて、彼の代わりに王国に残っている。オーギュストは多分、必要以上にこちらに会うつもりがないのだ。ブレイドとヴォルスは、それに従っている。
「ありがとうございます、エルザリート女王陛下。……エジェも、遠くから悪かったね」
 女二人の騒ぎようを後ろで見ていた女王の夫は、呆れた顔をしつつ右手を挙げた。その軽々しい仕草が懐かしくて、キサラギは笑って手を振り、エルザリートにこっそり尋ねた。
「……仲良くしてる?」
「ご心配なく。あれでも結構わたしにべた惚れなのよ」
「聞こえてるぞ、おしゃべり雀ども。エルザ、お前もうちょっと周りを見ろ。自分たちだけの世界に入るんじゃねーよ」
 眉をぴんと跳ね上げたエルザリートだったが、すぐに近付いてきたアリスに気付いて表情を改めた。アリスは笑顔だったが、少々頬が引きつっている。
「……ご機嫌よう、女王陛下。こんなところでお会いしましたか」
「あら、ごきげんよう、マーシャル殿。とてもよい日和ですこと。キサラギの結婚式が、晴れでよかったですわね」
 手にしていた扇を口元にやって、うふふとエルザリートは笑う。
「けれど、ここではわたくしは女王ではなく、ただのエルザリートですの。そのように扱ってくださいませね」
「……領有権に関する宣言書うんたらは、向こうに戻ってから返事するから、今日は置いといてくれないか」
 エジェがこっそり囁くと、眉をぴくぴくさせつつ、アリスは矛を収めた。
「……騎士団長閣下がそうおっしゃるなら。私も、こんなところで政治の話をしたいわけではないので」
「そうそう、こんなところで政治の話をするなんて無粋だわ。今日は、あの、キサラギの結婚式! なのだから」
「どうして『あの』って強調するの?」
 だがひとまずそれで収まったようだ。目を丸くしてやりとりを聞いていたユキは、「なんだかすごい方たちね」とキサラギに耳打ちした。
 キサラギは、エルザリートたちにもユキを紹介した。親友の、というと、エルザリートはいたく興味をそそられたらしい。話を聞きたくてうずうずしているようだったが、エジェが後にしろと言って連れて行った。アリスもひとまず去り、ユキと二人になったところで、また扉が叩かれた。二人で「せわしないね」と顔を見合わせる。
「はい、どなた?」
「俺だ」
 また顔を見合わせてしまった。キサラギが首を傾げつつ頷くと、ユキが扉を開ける。
「どうしたの、エンヤ」
「そろそろ時間だ。呼びに行けと、親父に言われた」
 結婚は、ヒトトセの神と参列者に誓う。その式を執り行うのは、聖職者か街や村の長だ。セノオの街長はエンヤの父だ。エンヤは、使いぱしりにされたので、少々むっとしているらしい。
 けれど、数年前はただ不遜なだけだった態度は、身体の厚みが増し技量も備わると、ただの不器用な言動にしか見えなくなった。ずいぶん迷惑させられたこともあったが、素直でない性格と、キサラギとそりが合わないというのが重なったせいだと、今なら思う。
「分かった。今から行くよ」
 ユキに手伝ってもらって移動する。扉は、エンヤが開けてくれていた。「ありがとう」と告げると、何か言いたそうに顔をしかめる。キサラギは、足を止めた。
「どうかしたの」
「…………、っ」
 ユキが言った。
「キサラギ、口紅が取れているようだから、お化粧道具を取ってくるわ」
 そうして戻って扉を閉めてしまう。分かり易すぎる気の使い方に苦笑して、エンヤを促す。
(まあ、話しにくいだろうなあ。いつもと違う格好と顔だし)
 けれど、こんな日でもなければ言えないこともあるのだろう。セノオに戻ってきてから、さんざん避けられてきた。セノオとマミヤの諍いもあって、あの後、街長もずいぶん突き上げを食らったようだし、彼ら親子はキサラギに思うところが相当あるはずだが、結婚式の進行役を引き受けたのは負い目だろうか。
 それでも、彼もまた、もう子どもではないのだ。
 呼吸を整え、じっとキサラギを見つめる。長い沈黙の後、ようやく、口を開いて、低い声を絞り出した。
「……今まで、すまなかった」
 何が? といつものキサラギなら聞いてしまっていただろう。それくらい、もう過ぎたことだったし、結果的にキサラギはこうして立っている。でも、エンヤの気持ちが痛いくらい分かる。
 許されたい、と。
 前に進むために、清算してほしいと、彼はそう言っている。
(勝手だなあ)
 けれど綺麗な気持ちで未来を手に入れたいと思うものを、エンヤは見つけたのだろう。多分それは、例えば、今日、彼の隣に立っているだろう女性だったりする。
 キサラギは、エンヤの肩を拳でがつんとやった。
「痛って!?」
「やわだなあ。もうちょっと鍛えなよ。そんなんじゃ、欲しいものは手に入らないよ」
「お、お前が、昔から馬鹿力なんだよ……!」
 おののきつつ、反論してくる。この辺りは、昔のエンヤのままだ。
 キサラギはにっと笑い、そして、表情を緩めた。
「もし、昔の自分と似たやつがいたら、そいつに、間違えるなって教えてやればいい。すっごく後悔したことがあるから、同じ思いを味わわせたくないって、そう言ってやって。私たち、もういい大人になったんだからさ」
「……、そんなことでいいのか」
 キサラギは肩をすくめた。
「私はもう怒ってないんだし、だったら次の展開を考えなくちゃ。私の課題は『次に何を残せるか』。エンヤ、あんたは?」
 エンヤの目に、光が灯ったのを、キサラギは見た。それは、イサイがずっと言っていた未来を見つめた時に宿るものだ。エンヤはそうして、静かに口を開いた。

     


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