彼が去って行ってから、後ろで扉が開いた。ユキが本当に口紅と筆を持って立っていた。
「ごめんね」「何が?」そんなやりとりをしつつ、少し剥げてしまった紅を塗り直してもらう。ずっとユキが微笑んでいるので、なに、と尋ねると、くすくすと声を立てて笑い始めた。
「セノオの男の人って本当に不器用ね。エンヤはね、あなたが出て行ったこと、ずっと後悔してた。ちょっとだけ、昔のレンに似ていたわ。エンヤが可哀想だったのは、レンとは違って、あなたが近くにいないことだった。ずっとずっと、思い詰めた顔をして、傷ついたままだったわ」
 だから、えらかったわね。
 ユキはそう言って、キサラギを褒めた。ちょっとだけ、泣きたい気持ちになる。時間が経って、遠くまで来た。そして故郷に戻ってきた。これからもそうして、いくつかの地点でその瞬間の思いを噛みしめるだろう。そうやって、人は生きていく。思い出を重ねる。
「……許すことを教えてくれたのは、ユキだよ。私に未来をくれたのはユキだ。ユキがいなかったら、私はここにいなかった」
「私だって、あなたがいなければ今の自分にはなれなかったわ。そうやって関わっていくことで、私たちは少しずつ変わっていく。いい方にも、悪い方にも」
 ユキは優しい声でそう言って、少し目を伏せた。
「あなたはきっと、これから世界をよりよい方向へ変えていくような関わり方をすると思う。でも、忘れないでほしい。今からこうして幸せな花嫁になるみたいに、キサラギ、あなたは、本当は普通の人間だってことを。幸せを求めて、生きようと足掻く、ただの女性だってこと……」
 幼い日の幼馴染たちとの諍い。
 吐瀉物にまみれた口元を拭って、負けるかと思った日のこと。
 竜狩りたちの馬鹿話に下品だと眉をひそめたとき。
 友人たちが結婚する時の寂しさと孤独。
 甘いジャムの、宝石のようだと思った色。
 旅立ちの日、遠ざかる街に向かって手を振った気持ち。
 草原の日のこと、王国のこと、砂漠での出来事。出会った人たち。ささいな記憶。大きな出来事。痛みを伴う記憶。心を温める思い出。いくつもいくつもいくつもいくつも、溢れて止まらない。
 そして、親友の部屋の窓辺から見上げた空を。
 そのすべてをきっと、このさきも想う。
「結婚おめでとう、キサラギ」
 額を合わせて、ささやきあう。
「ありがとう……大好きだよ、ユキ」
「――キサラギ! まだこんなところにいたのか。新郎がお待ちかねだぞ、早く来い!」
 きっと様子を伺っていたのだろう、ハガミが大声で呼んでくる。
「おっと、忘れてた。新郎の眉間に消えない皺を刻んじゃうところだった。もう刻まれてるかな?」
「キサラギを見ると薄くなるから、大丈夫よ」
 もたつく裾を持ってもらって、少しだけ早足で進む。控室から廊下を抜け、集会所にも使用される広間に行くと、進行役の街長やイサイ、その他、街の有力者が集まっている。昔、げんこつで叱られた元竜狩りの老爺や、強面を理由に勝負を挑んでしまった先輩竜狩りなどが、微笑ましげにこちらを見守っている。
 そして、新郎のセンは、何を考えているのかあまり分からない無表情でキサラギを迎えた。
「ごめん、遅くなった」
「逃げたのかと思った」
 そんなわけないだろ、と噛み付きかけたが、本音を漏らしたとも感じたので、キサラギは眉を下げて苦笑した。
「置いていかないよ。置いていかれるつらさは身に沁みてる」
 センは、ちょっと言葉が見つからないようだった。謝罪はなんだか違うだろうし、だからといって甘い言葉で懐柔できるほど、お互いに器用でも馬鹿でもない。だからここは、キサラギが譲歩すべきだった。
「――準備、ありがとう。すごく綺麗な花嫁衣装で、嬉しい」
 目を細めて、柔らかい表情になって。
 少しだけ気持ちを貯めて、センは言った。
「よく、似合っている」
 そっちもね、とキサラギははにかんだ。銀の髪に合わせた花婿衣装は、銀の糸が織り込まれた銀色だ。めずらしく髪を結っているから耳があらわになっている。邪魔だから普段はつけたこともない耳飾りをしており、青石のそれは、キサラギの赤石と対になるような鮮やかな色をしていた。
 以前のような冷たい、恐ろしいほどの美貌の鋭さはすっかりなりを潜めている。再会してからは、特にそうだ。見ていても傷付くことはないし、傷つけられない。人とは思えないほど美しいけれど、人に近い何かになった。
 それがいいのかどうかは分からないけれど、少しだけ、生きやすくなったんじゃないかとキサラギは思っている。
「各々、よろしいか」
 街長が咳払いする。キサラギはセンとともに正面に向き直った。
(誓いが終わったら、祝宴だな。うーん、外で待ってるエルザは大丈夫かなあ。多分エジェとアリスが二人して頑張ってくれてるんだろうなー。リュウジとサクトたちにもお礼言っておかなきゃならないし。事件は起こらないと思うんだけど、竜人と竜狩りのやりとりには気を配っておかないと。ユキと父さんとハガミ隊長に頼むのがいいかな……? ああ、引き出物、友達みんなに行き渡るよね? 料理とお酒足りるかなあ。注いで回るのが追いつかないだろうし、姐さんたちに手助けしてもらわないといけないか。おっさんたちは馬鹿騒ぎしないでほしいけど、無理だよなあ)
「おい、顔に出てるぞ」
 センがキサラギだけに聞こえる声で指摘する。キサラギはびくんと肩を跳ね上げ、思考を中断した。
 その後、式を終え、祝宴に参加し、ほどよく酔って新居に送り出されたキサラギとセンは、人の目がなくなってようやく、げっそりと疲れ切った言葉を交わした。
「……結婚式って、大変なんだね」
「……想像もしてなかった」
 きっと何度も思い出話をしてはそう言うんだろうなあと、ぐったり倒れこみつつ、キサラギは笑った。そして「あの時、あんたもものすごく笑ってたよ」とセンに言うのだろうということも、想像できた。
 エルザリートやエジェ、アリス、王国地方から来たお客たちとは、あまり長く話をすることができなかったけれど、どうやらそれぞれに楽しんでいるようだったから、セノオの人たちにひたすら感謝だ。
「服を脱げ。皺になる」
「脱げって、すけべだなあ」
 きししし、とからかって笑っていると、急に空気の温度が下がった。キサラギは、ぴんと跳ね起きた。
 竜狩りの勘が、これはまずい、と身の危険を知らせてくる。
「……ご、ごめん、わかってる、分かってるから……」と訴えたものの、センはキサラギを担ぎ上げた。
「……いつまでその軽口を叩けるか、楽しみだ」
「わー! ごめん! 悪かったってばー!」
 結婚に際してセンが用意した新居は、実は借主の名義をキサラギからセンに移しきれいに改装した、慣れ親しんだ家だから、どこに何があるのかはお互い把握している。センが開けたのは紛れもなく彼の部屋だったし、いつもは一つの枕が二つ並んでいるその寝台を誰が支度したのかなんてことは、怖くて聞けない。
「往生際が悪い。とって食うぞ」
「もう食ったくせに!」
「……人聞きの悪いことを言うな。食うならとっくに骨までしゃぶってる」
(こ、恐え……冗談に聞こえない)
 その気になれば本当に人間を捕食できる竜人だ。気が進まないしまずいなどという理由でそうしてこなかっただけだ。
 竜狩りとしての思考で、本当に怯えてしまったのかもしれない。寝台に投げ入れたキサラギを見て、センはぐったりため息をついた。
「そういう顔をされるとやる気が失せるし、反対にもっと煽ってやりたくなるから、止めろ」
「……『煽る』?」
「怖がらせて怯えさせて、自分のものにしたい。それこそ、骨までしゃぶってやりたい。支配欲でおかしくなりそうだ」
 はあ、と吐いた息がどうにも艶かしいので、キサラギはかーっと赤くなった。どちらかというと突き放したり傷つけたりする言動の多いセンが、こうしてはっきり自分の欲望を表現するのはめずらしい。
「……もしかして、余裕ない?」
「疲れてるからだろう。本性が出る」
 本性ではなく本音なのでは、と思ったが、なるほど、彼にはそういう一面もあるらしい。
「そう、かあ……うーん、まだ私もあんたについて知らないことがあるんだな」
「……嬉しそうだな」
「嬉しいよ。すごく嬉しい。そういうことをもっと知りたいと思うし、知ってほしいって思うから」
 ちょっと恥ずかしいことを言った自覚があるので、照れて笑うと、空気が少しだけ和んだ。センも余裕が出たらしい。落ち着いて、寝るか、と言った。寝よう寝ようと寝支度をして、はたと顔を見合わせ、笑った。そしてそのまま、口づけを交わす。こういうことが自然にできるようになったのも、時間の流れだなと思う。
「これからよろしく、旦那さま」
「末長く頼む、我が愛妻(めづま)」
 半分冗談で言ったつもりが、本気で返された。驚きで目を見開くキサラギに、センは笑っていた。
 当分こうした胸に痺れのような喜びを感じることになる予感を覚えて、目を閉じる。
 重なった手で触れ合うのは、誓いの環。二人で揃えた、絆の証。
「一緒にいるよ」というささやきでさきほど冗談を拭って、キサラギは微笑んだ。

 それから続く長い道程の幸せな時間のひとつに、その日のことは今も、数えられている。


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