さいわいの光   
    


「降りそうだね」と言うと、同じことを考えていたのか、センは頷いた。
 大陸を分断するキズ山脈周辺は天候の変化が顕著だ。草原と王国を行き来するには、ここを突っ切って行く方が早いのだが、雨と気温が厄介だった。なにせ、キサラギには鱗も翼もない。
(こりゃ、今日越えるのはちょっと無理かなあ……)
 山の麓で小休止を取りつつ、峰が被る灰色の雲を見上げる。空気に雨の匂いがしていて、夕刻に向かって冷えていくのが分かる。
「宿取ろうか。近くに村があるよね」
「そうだな」
 言っている間に、降ってきた。慌てて外套を被り、村の方向に目星をつける。徒歩で行かなければならないのを不便と思うのは、ずいぶん贅沢な悩み事だ。もう竜はほとんど襲ってこないし、犯罪者に気をつければ旅ができるという世の中になりつつあるのだから。
 麓の村は、本当に小さな集落だった。踏み潰されても気付かれないような、人々がかろうじて寄り集まって暮らしている、隠れ里だ。
 幸いにも、この村には宿があった。この辺りで宿を取るような人間は、採集や狩りに訪れた者か、何か特殊な事情を持つ者だから、若い男女の連れであるキサラギたちは、村に入った時から注目を集めていた。
「すみません、二人で」
「いらっしゃい。それじゃあ、記帳してもらえる?」
 故郷の村の名と名前を記していると、帳面を覗き込んだ宿屋の女主人が、キサラギと、後ろにいるセンを交互に見やった。
「部屋はひとつでいいわよね。夫婦なんだし」
「えっ!?」
 ぎょっと目をむいたその反応に、相手の方が驚いている。
「えっ、……違うの?」
「あー……えっと……」
 キサラギとセンは一応相手を伴侶と定めている。一生を生きる片割れだ。結婚式も挙げていないし、恋人らしいところもないが、結婚したようなものだと、キサラギ自身は思っていた。センの方は、どうか分からない。
 ちなみに、キサラギは現在すでに実家を出ていて借家暮らしだ。今は、そこにセンが一緒に暮らしている。だが、部屋は別になっているし、食費や家賃などは折半している(と彼は言うが、少し多めに渡してくれているのをキサラギは知っている)。
(それらしいこと、してないからなあ……)
 その理由はだいたい分かるのだが、きっかけがないせいで宙に浮いている。今も、会話を聞いているくせに、センはキサラギを助けてくれない。
 結局、部屋は二つ取ることになった。
 別の部屋でそれぞれに休んで、翌日。
 再び山越えに挑むべく、村を出た。人気のない山奥まで来て、センが手を差し出した。
「行くぞ」
 彼の姿が光に包まれると、人の姿は消え、代わりに白い竜が現れる。
 人と竜、二つの姿を持つ竜人が、センの正体だ。
 過去に起こった出来事によって、竜という生き物は人を襲う異種族となっていたが、今はその狂化が解け、人間の生活において竜の被害は激減した。知能を持たない、肉食の竜が繁殖しているという状況にはあるものの、竜狩りという徒党を組んで竜を狩る時代は終わりつつある。
 そうした情勢を見て回るのが、キサラギたちの仕事のひとつだ。人が竜になって狂うことはなくなったとはいえ、何が起こるか分からない。ある日、竜人が迫害されるようになるかもしれない。竜が組織だって人と戦うかもしれない。そうした懸念が、キサラギたちに見回りをさせていた。
 けれどまだその気配はなく、キサラギもセンも、普段は、商隊の護衛をしたり、人に剣を教えたり、と自由職に就いている。人外のものになっても、人として生きる部分があるのは、なんだか少し変な感じだ。
(やっぱり、今日もちょっと降りそうだな)
 竜の背に乗って、空の高い場所へと昇る。
 最初はずいぶん怖かったけれど、すっかり慣れて、空気が冷たいとか風が強いだとか感想を言えるようになった。
 深緑色の植物の海を越えて、雲を抜けていくと、雨粒がぽつぽつと当たり始める。外套の前をかきあわせて、頭巾を深く被るけれど、あっという間に濡れ鼠になってしまった。
「…………う」
 息ができないくらい寒い。
 吐く息が白くなる。まだ秋だぞ、と腹立たしさに似た気持ちで誰ともなしに呟いた。草原では刈り入れをして、粉を曳き、野菜や肉を塩漬けにして保存食を作る。砂糖で煮詰めたジャムは果物の種類だけあり、まるで宝石のようにきらきらと輝くのだ。
「っ」
 センが急降下した。振り落とされないように身を低くしてしがみつく。
 地上が近づき、転がり落ちそうになったところで、光が弾け、腕を掴まれていた。
「あ……?」
「このまま飛ぶと体調を崩す。さっき建物が見えた。そこで雨をやり過ごすぞ」
 身体が冷え切って、ろくに立てないのを見透かされていた。キサラギはごめん、と呟いて、センの後ろに続く。センと比べて、やっぱり人間に近いキサラギは、こういうところで彼の足を引っ張る。
「謝ることじゃない。生き物の差だ」
「……あんたが気遣ってくれる、そういうところがつらいんだよ」
 出会った頃と比べて、センの態度はかなり軟化している。すると、キサラギは自分自身の至らなさを痛みとして覚えるのだ。気遣われている自分は、彼よりもずっと弱い生き物なのだと思い知らされてしまう。
 優しくなったのはいいことだ。嬉しいとも思う。くすぐったくて、あったかい。
 でも。
 彼自身もその変化に戸惑っているところがあるらしく、突然黙り込んだり動きを止めたりすることが多い。照れくささがそうさせるようだ。
 この時は、黙ることにしたらしい。後続のキサラギを気にしつつ、空から見えたという建物を目指した。
 そして、白い雨にけぶる森の中に、小さな家が見えてくる。
 ここにも集落があったのだろう、建物の石の外壁が点在し、広場らしきところに井戸がある。土に埋もれていないから、嵐や土砂の被害にあったわけではなさそうだ。崩れた柱の様子から、竜に襲われたのだろう、とキサラギは見当をつけた。巨体でなぎ倒したような崩れ方をしている。
 その中に、屋根がある建物を見つけた。ひときわ大きいそれは、王国地方で館と呼ばれるものだろう。集落の長か、地主が住むような家だ。
 大きいために屋根がきちんとあり、扉も丈夫で、建て付けは悪かったがちゃんと開いた。奥の部屋には暖炉があり、道具を揃えればちゃんと火がつきそうだ。
「埃凄いね。ちょっと掃こう」
「それよりも濡れたものを脱げ。先に火をつけるから」
 そう言うセンも結構濡れているが、キサラギほど歯の根があわないということはない。外に出て行くと、どこかから木材を調達して、落ちていた何か分からないものを点火用に使い、あっという間に暖炉に火を起こしてしまった。
 埃と煙で喉をやられてキサラギが軽く咳き込むと、さっと窓を開けに行く。
 がたがたと埃を落としながら細く開けられた窓の向こうから、さらさらと雨の降る音が響いていた。
「着替えは?」
「最低限。だからあんまり見るな」
 下着の上に着るものだけになって、あとはぎゅうぎゅうと絞って水を切る。外套も絞って、ほとんど裸の上にまとった。
「うー……寒い……」
「火の近くに寄れ。風邪をひくなよ」
「ひくのかな、風邪」
 知らん、とセンの回答は素っ気ない。今度砂漠にいるハルヴァとシェンナに聞こう、とキサラギは思った。
 センも濡れたものを脱いで、少しくつろいだ格好になる。だが、火のそばには来ず、離れたところで腰を下ろした。
「……なんで離れたところにいるんだよ。寒いだろ。こっち来れば」
「いい」
 言い張っても寒いものは寒いだろう。ちょっとむっとしつつ、言ってもやりあうだけだと分かっていたから、黙って背を向けて丸くなる。
 火の揺らめきを見ていると、目が痛くなってくる。暖かい気配が顔じゅうに張り付いて、だんだん眠くなってきた。
 ことん、と落ちた頭を何かに支えられる。
「ん……、セン……?」
 一瞬意識を失って傾いたところを、センに止められたらしい。手のひらが後頭部に当たっている。
「外套をやるから、横になれ」
「……寒い」
「どうしようもない。我慢しろ」
 キサラギは、手を伸ばし、センの胸元をぎゅっと握った。
「寒い」
「……キサラギ」
 怒れる声が低く言うが、そんなもので怯んだりしない。
「一緒にいてよ」
「……だから」
「あんたは、自分を恐がってる。私を壊さないか、怯えてる。でも、私はそんなにやわじゃないよ」
 畳み掛けるように言って反論を封じる。
 センの恐れを、キサラギは知っている。彼には自責がある。キサラギを故郷から離れさせたこと、自らの手で死線をさまようような傷を負わせたこと。自分が、過去の恋人にしたようにキサラギを決定的に傷つけてしまわないかを、恐れている。
 それを、ばかだなあとも思うし、仕方ないなとも思う。
 幸せは、難しい。相手がいることなら、なおさら。
(でも、私は壊れたりしないよ)
 だから、と言って、息を吸った。
「だから……壊れないことを、確かめてみようよ」
 ぱちぱちぱち、と間断なく暖炉の火が薪を燃やして揺れている。
 大きく息を吸い、それを吐き出したセンは、視線をゆっくりと落としたまま、キサラギを見ずに尋ねた。
「……意味を」
「分かってる」
「俺は」
「あんたじゃなきゃやだって言ってんの。それくらい分かれ」
 下を向いたまま顔を覆い、センは、それは長い溜息をついた。
 その頬に両手で触れ、キサラギは言った。
「触れたいよ、セン。もっと、ちゃんと……」
 ゆっくりと顔を上げたセンの、目つきが変わった。
 虹彩が形を変える。言葉が漂う、水のような空気が満ちていく。どこか息苦しいものを覚えて、キサラギはごくりと息を飲み下した。
 そして、少し、笑ってやった。
 センが一瞬目を丸くすると、空気がまた変わった。
 ゆっくりと顔を寄せてきたセンは、キサラギの裸の首筋に、そっと口付けた。
 少しだけ冷たい手で、着ているものを少しずつはだけさせていくセンの目が、じっくりと肌を伝っていく。キサラギは眉を寄せ、唇を曲げた。
「……あんまり見るなよ。綺麗じゃないんだから」
 子どもの頃から積み重なってきた、切り傷、火傷、痣が色になって残ってしまったものなど、キサラギの全身は決して美しいものではない。少しましになったものの、骨っぽくごつごつしていて、触り心地もよくない。
 センは、何も言わなかった。腹部にある白っぽい傷跡に、手を伸ばしてくる。冷たい感触にキサラギはびくりとなった。
 その傷は、センと出会ったときに負ったものでもあり、それに重なった引きつれになっている部分は、セン自身がつけた傷でもある。
「まだ痛むか」
 触った挙句に言ったのがそれだった。ううん、とキサラギは答えたが、センはすうっと目を細めた。
「嘘をつけ。未だに庇っているだろう」
「痛いんじゃないんだって。庇う癖がついちゃってるんだよ。急に治っちゃったから、感覚が追いついてないだけだ」
 超常的な力が治癒速度を高めたせいで、いろいろと慣れない部分が出てきている。体力もそうだし、腕力も、視力と聴力も上昇している気がする。それでも、自分は自分でしかないと思うからか、時々、まるで人間を演じているように振る舞ってしまうらしい。
 センが、その傷跡に指を伝わせた。
「っ……」
「ほらみろ」
「これは違う! これは反射! そんなやらしい手つきで触るせい!」
 くっとセンは噴き出した。
「……なんで笑うんだよ」
「こういうときでもお前らしいところに、救われる」
 キサラギは目を瞬かせ、ならいい、と大人しく横になった。センは、まだ笑っている。
「我慢しろ。『やらしい手つき』で触るのが目的だからな」
「…………、分かってるよ……」
 ふざけた口調だが、センが本気だと分かって、少しだけ怯みそうになる。
(う、うわ、なんか緊張するかも……)
 自分が氷みたいに冷えていることもあって、急に身体が動かなくなり、喉が詰まって声が出なくなる。自分は弱い、という恐れが、また違う形で浮かんできた。
「キサラギ」
「な、なにっ」
 声をうわずらせたキサラギを、センは笑ったりしなかった。
「愛している」
 低くて、甘い、優しい声で告げられたから。
 キサラギは頷いた。
「うん。……うん、私も」
 愛していると告げた唇を、静かに重ね合わせた。

   *

 火(ひかり)がセンを照らしている。
 キサラギが目覚めたことに気付いたセンが、そっと振り向いた。瞳に、光の赤が入る。銀色の目。柔らかい、まろみを帯びた光だ。
「まだ寝ていろ」
 夜にひそめられた声に、うん、と応答しながら、身体を起こす。
「セン。あのさ……」
 どうして、男女がこういうことをするのか。分かった気がした。
 多分、相手を知りたいから。
 全部を受け入れて、飲み込んで、理解しようと、足掻くからだ。
 触れ合うことで、少しだけ理解したような気になる。自分が少し、大きな器を持っているのではないかと錯覚できる。だから、キサラギはこう言えるのだ。
「私は、あんたのことを全部許せるほど、大きい人間じゃないけど……あんたの行動が、私を思ってのことだって、分かってる」
 結婚という形を取らなかったことも、今まで触れなかったことも。どちらも、まだキサラギを自分の生に巻き込みたくないという思いがさせる。
 一緒に生きようと頷いたというのに、決定的な関係を持たずにいて、そのことにキサラギが少しだけ傷ついていることも気付いていて、我が身を振り返って苦しんでいた。
 私は、あんたが、自分のことを許せないことも、私のことを、少しだけ後悔してるのも、知ってる。
 知ってるよ。
「もうひとりにしないから」
 手を伸ばす。冷たい頬に触れる。
「私は壊れないから。好きな時に縋りなよ。私だって縋るからね。行かないでって、そばにいてって、思ったら言うよ」
「…………」
 センの頬に涙が伝う。
 深く触れ合いながら彼が一筋涙を零していたことを、そして二度目のこの涙の美しさを、キサラギは絶対に忘れることはないだろう。この、果てしない命の旅に持っていく記憶だ。
 彼はようやく他人のぬくもりを得た。それが私であることを、誇りに思う。
「一緒にいよう。私があげられる約束がそれだけで悪いんだけど」
 センは腕を伸ばし、キサラギを抱いた。耳元に顔を寄せるようにして深く抱き込み、背中をゆっくり包む。
 その温もりの心地よさに、胸を温められながらそろそろ寝ようと声をかけようとしたとき。
「……帰ったら」
「うん?」
「結婚式を、するか」
 多分人生で一番の驚きを味わったキサラギは、とっさに答えが出ず、身体を離したセンが恐る恐るといった様子で覗き込んでくるのを、何度も瞬きして見ていた。
「しないか」
「う、ううん! する! 結婚式、しよう……」
 結婚式。
(私が、結婚式……)
 なんだか、自分たちの手には余る事態になりそうな気がする。
 けれど、故郷の友人たちが身にまとっていた、綺麗な花嫁衣裳を自分もまとうのかと思うと、緊張や不安もあったが、嬉しい、と感じられた。
 これまで見てきた花嫁たちは、みんな綺麗だった。幸せだと言って笑っていた。
 自分が、それになれるのか。
「セノオに戻ったら、準備を始めるぞ。俺はあちらのしきたりに疎いから、誰か詳しい者を紹介してくれ」
「え、草原式でいいの?」
「王国式でやるつもりだったのか?」
 問われて、どちらでもいいのでは、と思った。
「センなら、どっちの衣裳も似会うと思うけど……私があっちの衣裳が似合わないから、やっぱり草原式かなあ」
「どっちでもいい。寝る」
 えっと声を上げる間に、センはキサラギを抱き込んで横になってしまう。外套を毛布代わりにかけられ、引き寄せられたとき、耳元でささやかれた。
「もう寒くないだろう」
 キサラギは頷いた。
「うん。寒くない」
 ほっとセンは息を吐いて、火に背を向けた。
 本当に、寒くない。
(一人じゃ、ないからだ)
 キサラギはそっと呟いて、目を閉じた。
 雨が降っていて、空気は冷えて、少し暗いけれど、もう、寒くはない。

 きっとそのことが、この世界を守る力になるのだ。

    


>>  HOME  <<