―――― 第 9 章 3 挿 話


 こつん、とノックの音は一度で止めてしまった。光の当たる扉は、彫刻の凹凸のために影が複雑になっている。その光と影を作り出す太陽は部屋の床にアマーリエの形を浮かび上がらせた。背後で鳥か木の葉が飛んだのか小さな影が通り過ぎる。
 アマーリエは挙げたままの腕を下ろした。自然と目もとが和んでしまうが、仕方ないなあという思いは二つ。微笑ましさと、申し訳なさ。そっと背後を窺う。午後の庭園が広がり、人の気配はない、そのことにほっとした。そうして、もう一度室内を見た。
 時間が出来たからだろう。少し休もうとして長椅子に横になり、夫は目を閉じて深い呼吸をしている。お忙しくしておられるので、とユメに注意してほしいと言われて、キヨツグを探して回っていた。ユメは、アマーリエもまた忙しくしていると思っているので恐縮しきりだったが、教えてくれて感謝している。
 でなければ、こんなところで睡魔に引きずられてしまったように眠るこの人に、敬愛の念を忘れてしまうかもしれないからだ。
(オウギは、ずっと見ていたのかな)
 そうして探しまわってキヨツグが見つからないとため息をついていたところに護衛官はすっと現れ、ここにいるというのを端的に告げて去ってしまった。気配を殺す達人とは聞いていたが、出没も不明で所在も不明なので謎の人物だ。とても綺麗な顔立ちなのに、言葉少なで接する機会も少ないためにアマーリエが思い浮かべるときの彼の表情は基本的に無表情だった。
(……護衛官と主君って、似るものなんだなあ)
 キヨツグも基本的に表情が薄い。笑うことは笑うのだが、あまり大っぴらに感情を見せない人だった。為政者としてはそういった方がやりやすいのかもしれなかった。だから怒った時が余計に怖いのかもしれない、と想像が自分の失敗に及んで落ち込みそうになったので止める。今はもう、落ち込むことに意味はない。どれだけ生きるかによると思うのだ。
 アマーリエは思わず苦笑し、室内に足を踏み入れた。
 キヨツグの椅子の足下には山と積まれた書類と書物がある。休もうと決める直前まで仕事をしていたのだと知れた。きっぱり休むことにしたのも、その休息時間を正確に決めた上だという気がした。オウギには、起こすよう頼んだのかもしれない。
 そのオウギがその場を離れてアマーリエに譲ったのだから、オウギはその時間を超過させようとしているのだ。
 アマーリエがいると、キヨツグは時間を作ろうとする。
 それは、あの出来事までのことを後悔しているように思えた。あの出来事があるまで、二人はろくに話さなかった。キヨツグは会おうとする時間を作らず、アマーリエが眠ったかどうか確認に来るだけだった。しかしキヨツグだけのせいではない。アマーリエもまた同じく、彼に会いにいこうとはしなかった。
(……どうして私に会いに来なかったんですかって、聞いてないな……)
 自分自身の理由は分かっている。どうしても、心を通わせることに抵抗があったのだ。そのさきに起こる、避けられぬ様々が恐ろしかったのだろう……。
 思わず頬を押さえた。真っ赤に熱を持って額に汗が滲む。どうして、大学の友人たちはあんな風に軽く会話が出来るのだろうとずっと不思議だったけれど、今でもやっぱり不思議だ。一生理解の時は来ない気がする。
「…………」
 気配がして顔をあげた。先程まで仰向けで手をお腹に上に置いて呼吸していたのが、椅子の背に正面を向けて肩をふるふる震わせている。瞬間、アマーリエは別の意味で真っ赤になった。
「キヨツグ様!」
「……すまぬ」
 はーっと大きく息をしてこちらに顔を向けたキヨツグは、やはり笑っていた。表情が薄いなんて一方の事実でしかない。アマーリエはむぐりと唇を引き結んで堪える。恥ずかしいと思ったら負けだ。見られていたんだとは考えるな。
「……どうした?」
「……どうした、は私の方です。お休みになるんでしたらきちんとしたところでないと風邪を引きます」
 ふっと頬を緩める気配がしたが、返答はない。
「忙しいのは分かります。ですが、もう少し、私に分けられるものがあるなら寄越してください。……どうしました?」
 キヨツグが少しこわい顔をしていた。額を押さえて辛そうな目をし、アマーリエを上目遣いに見つめる。
「……分かっておらぬのか」
「はい?」
 くぐもっていたために聞き取れず、悪いと思いながら尋ねる。キヨツグは、目を閉じると次に優しく言った。
「……大丈夫だ、と言った。仕事に戻る。お前も戻るといい」
 伸びた手が優しく頭に触れる。アマーリエは少しだけ肩を落とす。もう少し、休ませてあげたかったのだけれど。
 その時オウギの姿が浮かんだ。
「キヨツグ様」
「……なんだ?」
「夕食を一緒に食べる時間はありますか? それから……」
 わがままを言おうすると顔に遠慮が出たのか、もう一度、なんだと尋ねられる。
「……お茶の時間を、ご一緒したいです」
 オウギはアマーリエのために時間を作るキヨツグを見破っていた。それまで休もうとしない彼が、必要以上に休むとすれば、それはアマーリエのためだということにも。絶対に譲れないところは譲らないが、優先順位はアマーリエは大体において最上に来るようだった。
 他人が言っても休もうとしないならば、アマーリエが休ませるような時間を作ってしまえ。そのためのお茶の時間。そのための夕食。
 しかし、そういった浅はかなアマーリエのことも知っているのだ、キヨツグは。少しだけ困ったような気配を滲ませたが、すぐに優しい空気で「……分かった」と頷いた。
「……あまり、時間は取れぬかもしれぬが」
「いいんです。一緒にいてくださるだけで」
 本音は少しだけ暗く落ちたが、アマーリエはひとつ頷くと立ち上がった。
「アイたちに言ってきます。ユメ御前にも言っておきますけれど、キヨツグ様もどなたかにお知らせしてから来てくださいね。それじゃあ、先に行きます」
 アマーリエは部屋を出た。もう一度部屋のキヨツグに微笑みかけてから歩き出す。たくさん時間を作ろうと決める。邪魔にならないように。自然に、一緒にいられるように。邪魔だと思われればきっとキヨツグは遠回しに言うだろうから、できるだけ。
 気配が染み入るように現れ、アマーリエは足を止めた。
「オウギ」
「仕事を振り分けたゆえに、もう少し休んでもよいと」
 冷たいと感じるほどの物言いに、アマーリエは笑った。
「出来るだけ、私もお茶や食事で時間を取るようにします。でも断って仕事をされるかもしれないから、どうか見ていてあげてください」
「気付いていない」
 はい? とアマーリエは首を傾げる。
「あなただけの誘いは絶対に断らぬ、と」
 それだけ言うとアマーリエが気付くまでの間を取って立ち去ってしまう。それはまるで夢を見ていたかのようにはっきりとしない立ち去り方だったので、はっとして振り返るもそこに姿はない。
 アマーリエは深く呼吸すると頷いた。ならば、一緒にいようと言えばいいのかもしれない。今だけなら、そのわがままは彼のためになるのだから。





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