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 そこから数回の食事を重ねた。ルーイは感謝を示すために誘いに応じ、しかし支払いは受け取ってもらえなかった。若い人と話が出来るだけで楽しいよと言われ、僕もお話しできて光栄ですと言った。
「僕は、アマーリエが好きでした」
 ある日、ついにルーイは告白した。
「彼女はとても素敵な女の子でした。綺麗で、純真で。汚れないっていうのは彼女のことを言うのかなとさえ思いました。僕は、彼女と幸せになりたかったです」
 個室では、音はないに等しい。だから、大学で会うだけだった彼女がどんな声をしているか思い出そうとすれば、すぐ側で囁かれているように思い出すことが出来た。しかしその声はもう記憶の遠いところにあって、曖昧な印象でしかなかった。軽やかだった、静かだった、優しかった……静かなそこで記憶に浸るように目を閉じていると、市長は身じろぎし、重く言った。
「過去形で言うには早いよ」
 感情を落としたような、だがそのために真剣な声に驚いた。市長の目は、ルーイをじっと見つめ、噛み締めるように言ったのだ。
「アマーリエは、君となら幸せになれるだろう。君だって、アマーリエとなら幸せになれると思うだろう?」
「ですが、彼女はリリス族長の妻ですよ」
「あの子がここに戻ってきた時、どれだけ心細い思いをすると思う? 私は、あの子を幸せにしてやりたい。君ならそれが出来ると思っている」
「あの、……光栄です。ですが、そこまで言われるまでのことは」
「私は、前々から君のことを知っていたよ。アマーリエにとても親切にしてくれていた心優しい若者と、いつか話をしたいと思っていた。そうしてその機会を得て、私は確信したよ。君は、私の信頼に取るに足る男だ」
 あまりの賛辞に身を縮める。だが、都市のトップ、権力の最大の高みにいる市長からの信頼は、ルーイの胸を熱くした。
「謙遜することはない。あの女性のことは間違いだ。それに、間違えかけたが、間違えなかっただろう? 運命は、君とアマーリエを繋いでいると信じてもいいのではないかね」
 あの女性のことは間違いだ。市長の言葉が脳裏をめぐる。
 そうだ、彼女のことは間違いだ。市長の助けがなければ、ルーイは全く別の男の子どもを、自分の子どもとして養うところだった。弁護士との会談の録音をルーイは聞かせてもらっていた。女は、心と身体は愛する男に、その他の金銭的なことはルーイに満たしてもらうことにしたのだ、と。あいつは、ルーイの『区会議員の息子』というブランドが欲しかっただけなのだ。
「これから話すことは、荒唐無稽かもしれない。だが、君の知識、君の発想力なら可能なはずだ。その準備もしてきた。手を貸してほしい」
 市長は苦笑に近い顔をする。照れ笑いに見えて、別のものだと、そのときは気付かなかった。
「私の片腕となってくれるね?」



 車を降ろさせて、帰宅するのを見送ってから、車を発進させる。ジョージは口元を歪めた。
 アマーリエにあてがうなら、自分の言うことを聞く男がいい。その気になれば、アマーリエが父親と一緒にいることを、夫よりも長く時間を過ごすことを疑問に思わず、むしろ推奨するような男が。

   *

 土牢というものを、ルーイは初めて見た。その中に自分がいるとは思いもしなかった。なんてことだ。呟きが洩れた。なんてことだ。がくがくと震えが全身に走り、壁ももたれ、座り込む。
「なんでなんでなんで」
 どうして分かってくれない。どうして分からない。
 アマーリエ。みんなが君を求めてる。
「なんで、どうして……なんで、なんで……」
 誰よりも求めているのは、僕なのに!
「リリス族よりヒト族が劣っているわけがない。リリス族にヒト族がいて幸せになれるわけがない。僕が幸せにするのに。僕だけが幸せにできるのに」
 呟く言葉はすべて本心のはずなのに、口にする側から、乾いた土塊のように崩れていく。土塊を握りしめてぼろぼろにするのは、うっすら涙を溜めてこちらを責めるアマーリエの姿だった。彼女は責めた。喜ばなかった。
 こんなところに閉じ込めた。暗く、狭い、罪人の場所。
 罪を犯したから。
「僕が、間違って……間違って、た、のか……?」
 日の射さない場所で、考える時間は山ほどあった。他の職員のことを考える余裕はなく、ひたすら自分のしたこと、何を望んだか、何を求めたかを考えた。昼も夜もない場所で、自分を追い続けた。
 間違っていはないと繰り返し呟くと、その脳裏で「でもアマーリエは責めた」という言葉が閃いて、たまらず頭を掻きむしった。自分のしたことが正義か悪かという問いが尽きず、世界から消えてしまいたかった。自分が消え去れば、自分のしたことがすべてなかったことになる、そんな妄想までした。
 もう何日も答えが出ない。すべてが曖昧で暗く影を落していた頃、ルーイに声をかける者があった。
 見覚えがある、二人の女性だ。一人は武人、一人は女官だったか。名前が思い出せない。
「話す必要があるでしょうか」
「自分のしたことを理解していただかないと、わたくしの腹の虫が収まりません」
 起きなさい、と居丈高な声が命じる。声はこちらの姿を見て眉をひそめたようだ。
「まあ、見事に『この世で自分が一番正しいんだ』って言い聞かせてる顔」
「アイ殿」
「そう思うんだったらそう思っていらっしゃい。でも百人中あなたを除く九十九人は、あなた方のしたことが間違っていたと言うでしょうから」
「…………」
 誰かに対して発声することを久しくしていない。だからか少々怯んでしまい、かえってあちらの見下しが強まった。
「真様は都市に対してわくちんとやらの要求をしました。人質を自分自身にして、感染症患者の血液を自分に輸血されました」
 これには時間が止まるくらいの驚きで目を見張った。
「なん……だって……?」
「真様は、リリス族と、天様をお守りするために、自らを犠牲になさったのですわ」
 ヒト族リリス族間での輸血は、理論的に言って可能だろう。だがそれをやった事例はない。更に、現在流行している新型感染症を発症している人物の輸血など。
「自殺行為だ」
 死ぬつもりなのか、と思った瞬間、ざあっと不快な音を立てたと思うくらい血の気が引いた。
 ――彼女がこの世からいなくなる。
「自身を顧みるより、あの方はここを選ばれた」
 それまで黙っていた武人の女が言う。
「都市市長に命じられたとお見受けするが、あの方の中で、都市と市長、そして友人であったというあなた方の地位はすでに低いのだ。諦められよ。あなた方では、真様を幸せには出来ぬ」
 ヒト族の血に、リリスの血を入れた。
 彼女の中に、ヒト族であるという誇りはすでにない。
 ぶつけた言葉を思い返す。君はリリスにはなれない。
 だが、彼女はもう、リリスであろうとしているのだ。
「……は、はは……あはは……」
 だとすれば、自分のしたことはなんという道化だったか!
 アマーリエは都市を求めない。都市は彼女の中でもう何の価値もない。
 都市と市長は単純に異種族を滅ぼしたかっただけ。手を汚したくないから、ルーイたちを選んだ。
 否、道化よりたちが悪い。ルーイは、リリス族、モルグ族にとっては憎き犯罪者なのだ。牢に入れられた時点で、多くの異種族が死んでいる。犯罪者という言葉よりもっと悪を示す言葉があるのなら、ルーイはそれだった。
 ゆるされない、と思った。
「あ、あ……あいして、愛していたんだ……」
 愛していたのだ。歪んだ形であれ、ルーイはアマーリエを愛していた。彼女の存在は、ルーイが手に入れるはずだった幸福の象徴だった。安定と、富と、栄光。ありふれた幸せと、人が羨むあらゆる幸福は、市長の娘の彼女から享受できるものだった。
 否、違う。
「どうして、市長の娘だったんだ……」
 震える身体から吐き出されたのは、心の底で渦巻いていた問いかけだった。初めて口に出して、世界に問いかける。
 どうして君はコレットだったんだ。
「君が市長の娘じゃなきゃよかったのに」
 綺麗だね。
 共通の知り合いがいて、そいつが授業かなにかで席を外した。その場に残されたのはお互いをよく知らない者同士だった。
 綺麗だね。思ったことをそのまま口にした。
 手持ち無沙汰で会話もうまくなく、気まずさがあって、逃げるように彼女が見上げていた空。雲間から下りる真昼の光。雨が遠ざかり、光が射す。目を奪われて、心楽しんで見ているのが分かったのは、ずっと彼女を見ていたからだ。ああ、この子はそういう、そこにいる人間よりも世界が美しく移り変わる様を愛しているのだ。だから、綺麗だね、そう言った。
 君は君自身に気付くべきだ。君は愛されていいんだ。こんなにも、君は綺麗。
 最初はあの空だ。綺麗だねと告げたあの場面だ。彼女が市長の娘だとは知らなかった。そこにいたのは、裕福な家庭に生まれた大学生の男女で、お互いのことを知らなくて、ちょっとだけ気まずくて、相手が楽しんでいるか不安だった、まだ大人ではないただの二人だった。
 その時間の、純粋で愛おしく、大切であったこと。
 彼女がいなくなって失われてしまったと思ってしまったのかもしれない。殺しきれない涙と嗚咽は叫び声に変わった。彼女がこの世からいなくなるかもしれないことは、自身のやったことは、本当の喪失を意味した。取り返しがつかない。
「ごめん。ごめん。アマーリエ。ごめん、ごめん……!」
 輝き美しかった時間、それまでとこれからの、すべてを失ったことを思い知った。もう、ゆるされはしない。

   *

 誰も、責めなかった。誰も知らなかった。すべては秘され、一部の人間のみが握り、外交に転がした。ヒト族がウイルス兵器を開発し、異種族を滅ぼそうとしたこと、そのウイルスがヒト族にも感染し多数の死者を出したこと。そして、その運命がたったひとりの少女から始まったこと。
 唯一、都市を、人を、世界を責めたのが、そのひとりの少女だったこと。
 一時ウイルス兵器開発の噂が報じられたが、都市政治部の手回しによって噂程度に留まった。ルーイは口止めの形として多くの恩恵を受けた。会社では有力な地位についた。報酬ももらったが、すべて手つかずのままにしてある。いつか、新しい感染症でワクチン開発が必要になる時などに使われる日が来るだろう。
 ゆるされないことは、生きる気力を奪い、誰を愛してもいけないと信じさせた。自分には、誰も幸せには出来ない。
 市長はまだ在任中だが、ルーイには彼のすることすべてが、まるで後始末と準備のように思えた。よりよい都市のためにではなく、リリスとモルグが生きられるよりよい未来のための、後始末と準備。市長が娘に何を言われたのかは分からなかったが、一度取り戻した彼女を手放したのだから、アマーリエはきっと、責めたのだろう。
 アマーリエに別れを告げられるだろうかと考えたが、拘束されていた都市から派遣された医療従事者がリリスから解放されるときも彼女は現れなかった。都市に戻っても結局こちらからメールも送らなかった。こうして別れることこそ謝罪と決別の証だろう。
 けれどある日、ルーイは真っ白の封筒を受け取った。切手も消印も宛先も差出人もない封筒をその場で開けてみると、出てきたのは一枚の紙片だ。
 もどかしく部屋に入り、扉を閉めるなり、それを震える手で何度も繰り返し目で追い、やがて、崩れ落ちるように膝を突いて泣いた。

「あなたのしたことを忘れません。
 でも私たちがあなたにしたことも忘れません。
 ごめんなさい。
 けれど、あなたを幸せにしてくれる方が現れることをお祈りします。
 さようなら」

 几帳面な言葉は、柔らかい毛筆で細く、たおやかに書されていた。
 アマーリエは幸せにしてほしかったわけではない。幸せにしたかったのだと、その文面からは読み取れた。彼女を幸せにすると言ったルーイは、決して彼女を理解していたわけではなかったのだ。
 どんな地位や価値があっても、常に対しているのはその人自身でしかない。地位も価値も、その人の要素でしかない。対するのは、心なのだ。彼女は最後に、ルーイに個人として接した。でも、これがきっとアマーリエ・E・コレットとしての最後だと、認めないわけにはいかなかった。
「さよなら。……さよなら……」
 嗚咽まじりの声が、果たして彼女が目の前にいたとして、ちゃんと届いたかどうかは怪しいところだ。しかし、ルーイはずっと忘れないし、覚えているだろう。都市が愛した少女は、それまでの世界に別れを告げたのだ。そしてルーイは、そこで生きていかなければならない。

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