―――― こ の 道 の 行 く 先
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 空気が非常に濃かった。人間の放つ、生活臭というのだろうか、油と澱んだ湿気と、甘いような汗の匂いがしている。しかしそれに対して、今の自分はひどい形をしているのを知っていた。歩けば人がわずかに避ける。旅でためた汚れと臭いは、街の人々の鼻を刺激として刺したはずだ。これが、水が街ほど自由に使えない遊牧の一族の草原なら、それほどでもないのだが。
 その姿で、貴族たちの邸宅のある方へと足を踏み入れる。瓦葺きの家々は、もうずいぶん遠い昔の光景のように思えた。何度も思い出を回想はしたが、屋根というものがこういう色だった、こういう形だったというのは、見ると改めて記憶と合致していく。不思議なものだと思った。
 ずいぶん、息が上がってきたのは、殺しきれない胸の動悸のせいだ。
 リリス族の容姿は、二十歳前後で止まる。死期が迫ってくると、ゆっくりと老化するのだ。だからその人の姿は記憶の頃とは変わっていないはずだ。臆病風に吹かれていた。たかだか、一年。変わるものなどあるのだろうか。
 あるのだと知っていたから、不安だった。変わっていたらどうしよう。彼は何が悪いと鼻で笑いそうだが、丸くなられていたら困る。これから何を言おうか、取り留めなくてまとまらない。
 そしてついにやって来た入り口で、意を決して門を叩いた。門番に、こちらのご子息を、と告げると、訝しげな顔をしていた老人は、次の瞬間飛び上がって名を呼び、主人へ客人を告げもせずに門を開いた。
「ほんにお久しぶりです。ずいぶん長い旅だったそうで」
「ええ。今日シャドに戻ってきたのです。……ひどい格好でしょう」
 はいそりゃもう、と門番は笑った。
「しかし若様はそれでも構わないとおっしゃいますでしょうよ。どうぞ、中へ。書き物部屋にいらっしゃると思いますよ」
 さすがに中に入るの躊躇われ、庭から回ることにした。屋敷の中は勝手知ったる。幼少時代、よく行き来したからだ。
 庭の木蓮は花盛りで、道には山茶花の華やかな赤と白の花びらが根元に散っていた。冬の濃い緑葉は分厚く、段々吐き出す息が白くなる。どんな植物の葉ででも笹舟を作ったことを思い出す。流すところは街中の用水路だ。夏でも、冬でも。
 建物の角を回った先に、奥まった部屋がある。それが、カリヤ・フェオが自宅で過ごす書き物部屋だった。積み上がった本が影となって見えることに安堵しながら、一歩、一歩、近付く。
 そこに座る男は、眼鏡をかけた、薄暗い雰囲気をまとったカリヤ・フェオそのままだった。
 けれど、書物に夢中になっている彼は気付かない。
「カリヤ」
 カリヤ。何度も、旅の途中で、一度死にそうになった時も、思わずにはいられない名前だった。
「カリヤ」
「……いったい何度言ったら」
 ばたんと本を閉じて、ため息をつきつき。
「あなたは覚えるんですか、私がこの部屋にいるときは、声をかけるなと。ユーアン………………」
 そうしてやっとこちらを見て、それが庭先にいるこちらに気付き、目を見張った。本当にめずらしい驚き顔だった。
「ユメ……ユメ・イン?」
 ユメはにっこり笑った。
「そうです、カリヤ・フェオ。……仲睦まじい婚約者殿ではなくて申し訳ない。顔を見に来ただけですので、これで失礼します」
 踵を返すと、一直線に元来た道を戻る。カリヤは追ってこなかった。彼の足を思うと、当然だった。だからきっと、これは逃亡したというのだろうとユメは唇を噛んだ。

 愛娘の帰還に、家族は沸いた。特に父は感涙にむせび、娘を抱きしめ、母にたしなめられる始末だったので、ユメは、イン家の血筋は本当に女系なのだなと思わずにはいられなかった。
 元々中性的だった体系は、体重が削ぎ落とされ必要な筋肉だけが残り、武人というより無頼者の無骨さとなった。旅では髪は適当に伸ばし適当に切っていたが、風呂で旅の汚れを丁寧に落としながら、短く切ってもらおう、ということを考えた。剣の傷、獣に襲われた傷、擦り傷など様々な種類の傷をなぞりながら、ユメは着替えを終えると、すぐに出掛けることにした。旅の途中で太刀を仕立てねばと思っていたのだった。数日後に出仕することになるだろうから、それまでに見立てておかねばならない。
 街へ出ると、女性たちの装いがずいぶん変わっているのが目についた。大きな造花のようなものを頭につけている。流行なのだろう。髪を一つ結びにして、今日にも切ってしまおうとしているユメには縁のないものだが、華やかでよいものだ。
 旅で使用していた太刀、小刀といった一式を研ぎに出し、刃こぼれしすぎてだめなものが一本あったので、新しいものを見立てた。それをイン家に届けてくれるよう願い、どこへ行こうかと考えていると、横を通り過ぎた馬車が急に止まった。身を乗り出した女性と同じ華やかな声がユメを呼び止めた。
「ユメ、ユメ・イン様!」
「あなた様は……」
 黒髪をたっぷり結った明るい笑顔の女性は「覚えてらっしゃらない?」と言う。ユメは首を振った。
「いいえ。シン家のユーアン様」
「嬉しいわ! いつお戻りになったのですか? ずいぶん長く旅に出られていたのですね」
「戻ったのは今日です。久しぶりなので歩こうと思っていたのですが、懐かしい方にお会いできて嬉しゅうございます」
「わたくしもですわ。でも、今日戻られたのなら、お食事にお誘いするのはご迷惑ですわね……また訪ねていらしてくださいます?」
「もちろんです」と言いながら、心のどこかが引き攣るのを感じずにはいられなかった。きっとよと念押ししたユーアンを乗せた馬車を見送り、ずいぶん美しくなられた、と思った。
 フェオ家とシン家は同じ文官を輩出する家柄で、多少の格の差はあれど、昔から婚約者としてめあわされていたと聞いている。しかし、ユメはそんなこと、すっかり忘れていたのだ。
(何度か一緒になったはずなのに……オウギしか見ていなかったせいかな。あとはカリヤか)
 過去の自分を微笑ましく、半分苦笑しながら帰宅すると、来客を告げられた。めずらしい人がいることに、ユメはため息をついた。
「お邪魔していますよ。先だってはひどい帰宅の挨拶、ありがとうございました」
「それは失礼いたしました。ですがあなたも、私をユーアン様と間違えるのは失礼だったとは思いませぬか」
「一年以上も姿を消した人間と、よく側にいる人間、どちらが遭遇する確率が高いと思いますか」
 ユメはぐっと口をつぐみ、引き結んだ。カリヤは、急に手を挙げて、がしがしと頭を掻く。
「ああ、もう、そういうことが言いたいわけじゃないんですよ。必要なく傷付くのは止めなさい」
「な……誰が傷付いたと」
「おかえりなさい」
 言葉がすっ飛んでいった。
 カリヤは片頬を上げて笑っている。
 無事を喜ばれたのだ、ということがその一言で分かり、胸が急に熱くなった。
「た……ただいま戻りました」
「だいぶと無茶をしたようですね。ずいぶんと武人らしくなった」
「そのための旅です」とユメは胸を張ったが、それを鼻であしらうのがカリヤだった。
「武者修行なんて流行りませんよ。我々は中立を守り続けて少しずつ根を減らしていくか、その前に正しき族長が立てずに内側から瓦解するかの問題の最中です」
 ユメは顔をしかめた。
「天様に何か……?」
「キヨツグ様はまだ天位に着いていない」
「それは……私が旅に出た時にはもう確定だと」
「就任が遅れています。しかし彼は族長代理という名目で動いているので、実質族長ですが」
 詳しい話を聞くと、反対派の存在がキヨツグ即位に異を唱えているという。命山の守護という名目で、人的に問題のある人間を族長に据えていいのかということが問題にされているのだ。その詳しい事件は不在の時の出来事だったが、確かに判断に迷うところではあった。
 キヨツグ・シェンという公子は、確かに前族長セツエイの子ではないが、それよりももっと遠い、生きながらの伝説たる始祖の血を強く引いているリリスの中でも最も濃いリリスの血を受け継いだ存在だ。命山という仕組みが、彼を族長に運命づけている。ユメから見たキヨツグというのは、非常に思慮深く、冷静な人間で、出来すぎたという表現がくるほどの、平坦にも思える完璧さだったと思う。
 それが恋人を処断した。いくら陰謀とはいえ、迷いもなく。恩情もないということだった。
「そしてその反対派の筆頭は私です」
 ユメは愕然とした。カリヤは楽しげに笑っている。
「だから私と付き合うのは考えなさい。しばらくしたら出仕するのでしょう。もっと詳しい人に、内部事情を聞いておくことです」
 それでは、と言いたいことを言うだけ言うと、カリヤは帰宅していった。

     ・

 フェオ家、シン家に対して、イン家は長く武官の家柄で、ユメは女ながらも軍に属する人間だ。対してフェオ家は文人の家で、しかしカリヤは元々槍術が達者だったこともあって従軍していた。モルグ族との小競り合いの際、足を負傷して不自由となるまでは。それからの彼というのは、本に住み着いた虫のようにひたすら書物を読み、文人として士官を始めた。
 王宮において彼の名は、キヨツグ反対派の急先鋒として上がっていた。まだまだ新米の部類に入るというのに、一目置かれる存在になっていたのだ。それを、王宮に戻ったユメは遠くから見ていた。
 ユーアンに、カリヤにあの派閥から抜け出してもらうためにはどうすればいいだろうと相談を受けたのはそんな時だった。
 椿の花が盛りで、雪が庭をすっかり白く染めている。時折梢から落ちる雪の音が、暖かくしている部屋で騒がしく響くようになっていた。
「キヨツグ様に反意を示すことは、命山に背を向けることと同じだと思うのです。カリヤ様は、『命山が何をした』と仰るので、わたくしもよく考えたのですけれど、そういう問題ではないと思うのですわ……」
「仰りたいことはよく分かります」とユメは言葉少なに肯定した。
 命山というのは、神が住むと言われている山で、リリスの最終的な、最高機関であり、俗世と簡単に関わるようなものではないのだ、という意識がユメたちの中にはある。人々には命山が下界に触れなくても不思議と思わない素地があるのに、反対派ではその無意識の拘束が間違っていると叫ばれているのだ。
「どんな反対があっても、わたくしは天位がキヨツグ様以外に授けられることはないと思っています。もしその通りになれば、カリヤ様には冷遇が待っているのではないかと、それが心配で」
 唇を曲げてため息がつかれた。
「だって困りますでしょう? 今後のことを考えると。わたくしも妻として、家を切り盛りせねばならなくなるのだし。ユメ様のように仕官することも考えたのですが、わたくしには才能がありませんもの。今日の食事を心配するようなことになったら、どうしましょう」
 処罰とまではいかないが、政治的中心部から遠ざけられるのは覚悟せねばならないだろう。そんな自覚もないようなカリヤではないと思うが、ユーアンの言いたいことは分かった。彼女は婚約者として、もうすでに未来の夫の将来を見据えているのだ。
(私とは大違い……)
「なんとかなりませんか、ユメ様」
「私……ですか?」
 単なる愚痴聞きだと思っていたのに、思わぬところから話が来た。ユメは目を瞬かせながら、運びかけた茶器を下ろした。
「カリヤ様とユメ様は、幼少時代を共に過ごされたのですもの。わたくしが言って聞いてもらえないのであれば、後はご両親かユメ様しか思いつかないのです」
「待ってください、フェオのご両親は分かりますが、私ですか」
「あら、だって」
 意外そうな声でユーアンは言った。
「カリヤ様、絶対、ユメ様の言うことを聞かないことはないんですもの」
 否定肯定は別として、と言いながら、彼女は首を傾げる。
「そうじゃありませんか? わたくしの思い違いかしら」
「いや、どうでしょうか……」
 そうか、そういえばそうかもしれない、という発見だった。確かに鼻で笑われたり否定したりあしらわれたりはするが、反応がないということはなかったような。
「本当に、わたくしこれからやっていけるのでしょうか。婚約者の言うことも聞いてくださらない殿方なんて、わたくし先行きが不安で」
「落ち着いたらなんとかなるのではないですか?」
 声が衝立の向こうから滑り出て、はっと二人は目を見張った。
「母上」
「おばさま」
 イン家の奥方、ユメの母親が、にこやかに姿を現したところだった。
「ごきげんよう、ユーアン。早速ですけれど、解決策を申しましょう。そういう殿方にはね、既成事実を作ってしまえばいいのよ。扶養家族が出来れば責任が生じるから無鉄砲はしなくなりますよ。実際、インもそうでしたからね」
「おじさまもですか!?」というユーアンの悲鳴と、ユメの「父上……」という苦悩の呟きが入り交じる。
「さすがですわ、おばさま! 早速その手でいってみます!」
 台風のように腰を上げたユーアンを見送ると、ユメは、娘に向かってにっこりと微笑む母親に椅子を勧め、「どうしてあんなことを……」と疑問をぶつけてみた。茶葉を取り替え、丁寧に新しいお茶を注いだ母は、その香りと温かさを楽しみ、窓向こうの雪が降り始めた庭を見て「きれいに咲いたわねえ」と言った後、ようやく、それはね、と言った。
「お前たちがもう三十を過ぎたからですよ」
「結婚適齢期はまだ過ぎていないと思いますが……」
「それでも遅いことには変わりない。二十歳を過ぎればね、現実が見えるものなんですよ。『いつまでもみんな一緒に』はないと気付くし、永遠に続く時間がないことも分かる。次の世代へ滞りなく世界を譲り渡さねばならないという使命があるということも実感します。女の方が先かしらね。なかなか子どもが出来ないから」
 ユメは少々肩身が狭かった。母の視線と苦笑が、自分の身勝手さを思い知らせるようだったからだ。
 一年前、三十を過ぎたユメ・インは、カリヤ・フェオに疑問を投げかけられた。
『虚しくないのですか? あなたは決してオウギ・タカサにはなれない。同じものを目指したとして、あなたは何を成しえたいのです』
 衝撃的だった。オウギ・タカサという幼少の頃から見ていた存在を、そのようになりたいと追いかけて、それが自分の人生、運命だと思っていただけに。オウギのようになれば、自分は揺るぎない自己を手に入れられると思っていたのに。
 ――あなたに何が分かるのですか?
 しかし言葉は常に心をめぐり、追い詰めた。このままではいけない、何かを手に入れなければならないと選んだのが、旅に出ることだった。
『逃げるのですか?』
 その時カリヤの顔を殴った感触を、ユメは覚えている。忘れられなかった。旅の最中も問い続けた。私は何だろう。私の未来とは。
(私は、ずっとオウギのように、強靭で揺るぎない、強くて気高い何者かになりたかった)
 母親の言葉は、深く、重かった。
「夢を見られる年頃は過ぎたのです、ユメ。あなたたちは、変化を始め、自分をちゃんと見つけなければね」

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